University of Virginia Library

「それよりも、 見事 ( みごと ) なのは、 釣竿 ( つりざを ) 上下 ( あげおろし ) に、 ( もつ ) るゝ ( たもと ) ( ひるがへ ) ( そで ) で、 翡翠 ( かはせみ ) ( むつ ) つ、十二の ( つばさ ) ( ひるがへ ) すやうなんです。

  ( ) ( ) ( しろ ) ( ) ( ) える、 莞爾 ( につこり ) ( わら ) 面影 ( おもかげ ) さへ、 俯向 ( うつむ ) くのも、 ( あふ ) ぐのも、 ( ) ( ) ( かさ ) ねるのも ( ) 微笑 ( ほゝゑ ) ( とき ) 一人 ( ひとり ) ( かた ) をたゝくのも…… ( つぼみ ) がひら/\ ( ひら ) くやうに ( ) えながら、 ( あつ ) 硝子窓 ( がらすまど ) ( へだ ) てたやうに、まるつ ( きり ) ( こゑ ) が…… ( いや ) 四邊 ( あたり ) 寂然 ( ひつそり ) して、ものの ( おと ) ( きこ ) えない。

  ( むか ) つて ( ひだり ) ( はし ) ( ) た、 ( なか ) でも 小柄 ( こがら ) なのが ( おろ ) して ( ) る、 ( さを ) 滿月 ( まんげつ ) ( ごと ) くに ( しな ) つた、と ( おも ) ふと、 ( うへ ) ( しぼ ) つた ( いと ) 眞直 ( まつすぐ ) ( ) びて、するりと ( みづ ) ( そら ) ( かゝ ) つた ( こひ ) が――」

 ―― 理學士 ( りがくし ) 言掛 ( いひか ) けて、 ( わたし ) ( かほ ) ( ) て、 ( ) して 四邊 ( あたり ) ( ) た。 ( ) うした ( みせ ) 端近 ( はしぢか ) は、 ( おく ) より、 二階 ( にかい ) より、 ( かへ ) つて 椅子 ( いす ) ( しづか ) であつた――

( こひ ) は、 ( それ ) ( こひ ) でせう。が、 ( たま ) のやうな 眞白 ( まつしろ ) な、あの ( もり ) 背景 ( はいけい ) にして、 ( ちう ) ( ) いたのが、すつと ( あは ) せた 白脛 ( しろはぎ ) ( なが ) す…… ( およ ) 人形 ( にんぎやう ) ぐらゐな 白身 ( はくしん ) 女子 ( ぢよし ) 姿 ( すがた ) です。 ( ) られたのぢやありません。 釣針 ( つりばり ) をね、 ( ) う、 兩手 ( りやうて ) ( ) いた ( かたち )

  御覽 ( ごらん ) なさい。 釣濟 ( つりす ) ました ( たう ) 美人 ( びじん ) が、 釣棹 ( つりざを ) 突離 ( つきはな ) して、 ( やなぎ ) ( ) ( もや ) ( まくら ) 横倒 ( よこだふ ) しに ( ) つたが ( はや ) いか、 ( おき ) るが ( いな ) や、三 ( にん ) ともに 手鞠 ( てまり ) のやうに ( ) ( ) げた。が、 ( ) げるのが、 ( ) ( もや ) ( ) むのです。 ( どん ) な、はずみの ( ) い、 ( くづ ) れる 綿 ( わた ) 踏越 ( ふみこ ) 踏越 ( ふみこ ) しするやうに、 ( つま ) ( もつ ) れる、 ( もすそ ) ( みだ ) れる…… ( それ ) が、やゝ 少時 ( しばらく ) ( あひだ ) ( ) えました。

  ( ) ( あと ) から、 茶店 ( ちやみせ ) ( ばあ ) さんが ( ) ( およ ) がせて、 ( これ ) ( はし ) る……

  一體 ( いつたい ) あの ( へん ) には、 自動車 ( じどうしや ) ( なに ) かで、 美人 ( びじん ) 一日 ( いちにち ) がけと ( ) 遊山宿 ( ゆさんやど ) 乃至 ( ないし ) 温泉 ( をんせん ) のやうなものでも ( ) るのか、 ( ) うか、 ( ) ( ) まだ ( たづ ) ねて ( ) ません。 ( それ ) ( ) ればですが、それにした ( ところ ) で、 近所 ( きんじよ ) 遊山宿 ( ゆさんやど ) ( ) ( ) たのが、 ( ) ( ぬま ) ( ) ( つり ) をしたのか、それとも、 ( なん ) ( くに ) ( なん ) ( さと ) ( なん ) ( いけ ) ( ) つたのが、 一種 ( いつしゆ ) 蜃氣樓 ( しんきろう ) ( ごと ) 作用 ( さよう ) 此處 ( こゝ ) ( うつ ) つたのかも ( わか ) りません。 ( あま ) ( しづか ) な、もの ( おと ) のしない 樣子 ( やうす ) が、 ( ゆめ ) ( ) ふよりか ( ) 海市 ( かいし ) ( ) ( ) ました。

  ( ぬま ) ( いろ ) は、やゝ 蒼味 ( あをみ ) ( ) びた。

 けれども、 ( ) 茶店 ( ちやみせ ) ( ばあ ) さんは ( しやう ) のものです。 ( げん ) に、 ( わたし ) ( とほ ) ( がか ) りに ( ぬま ) ( みぎは ) ( ほこら ) をさして、(あれは 何樣 ( なにさま ) ( やしろ ) でせう。)と ( たづ ) ねた ( とき ) に、( ( さい ) 神樣 ( かみさま ) だ。)と ( ) つて ( をし ) へたものです。 ( いま ) ( ) ( ほこら ) ( ぬま ) ( むか ) つて ( くさ ) ( いこ ) つた 背後 ( うしろ ) に、なぞへに 道芝 ( みちしば ) 小高 ( こだか ) ( ) つた ( ちひ ) さな ( もり ) ( まへ ) にある。 鳥居 ( とりゐ ) 一基 ( いつき ) ( ) ( そば ) ( おほき ) 棕櫚 ( しゆろ ) ( ) が、五 ( かぶ ) まで、一 ( れつ ) ( なら ) んで、 蓬々 ( おどろ/\ ) とした ( かたち ) ( ) る。……さあ、 ( これ ) ( やしき ) あとと ( おも ) はれる 一條 ( ひとつ ) で、 ( ) 小高 ( こだか ) いのは、 ( おほ ) きな 築山 ( つきやま ) だつたかも ( ) れません。

  ( ところ ) で、一 ( せん ) たりとも 茶代 ( ちやだい ) ( ) いてなんぞ、 ( やす ) 餘裕 ( よゆう ) ( ) かつた ( わたし ) ですが、…… ( ) うやつて 賣藥 ( ばいやく ) 行商 ( ぎやうしやう ) 歩行 ( ある ) きます 時分 ( じぶん ) は、 ( ) ( ) 兩親 ( りやうしん ) へせめてもの 供養 ( くやう ) のため、と ( おも ) つて、 殊勝 ( しゆしよう ) らしく ( きこ ) えて 如何 ( いかゞ ) ですけれども、 道中 ( だうちう ) ( みや ) ( やしろ ) ( ほこら ) のある ( ところ ) へは、 ( きつ ) 持合 ( もちあは ) せた ( くすり ) ( なか ) の、 何種 ( なにしゆ ) のか、 一包 ( ひとつゝみ ) づゝを ( そな ) へました。―― ( まう ) づる ( ひと ) があつて 神佛 ( しんぶつ ) から ( さづ ) かつたものと ( おも ) へば、 ( きつ ) 病氣 ( びやうき ) ( なほ ) りませう。 ( わたし ) 幸福 ( かうふく ) なんです。

  丁度 ( ちやうど ) ( わたし ) ( ) ( みぎは ) に、 朽木 ( くちき ) のやうに ( ) つて、 ( ぬま ) ( しづ ) んで、 裂目 ( さけめ ) 燕子花 ( かきつばた ) ( かげ ) ( ) し、 ( やぶ ) れた ( そこ ) 中空 ( なかぞら ) ( くも ) 往來 ( ゆきき ) する 小舟 ( こぶね ) ( かたち ) ( ) えました。

  ( それ ) 見棄 ( みす ) てて、 御堂 ( おだう ) ( むか ) つて ( ) ちました。

  談話 ( はなし ) 要領 ( えうりやう ) をお ( いそ ) ぎでせう。

  ( はや ) ( まを ) しませう。…… ( ) 狐格子 ( きつねがうし ) ( ) けますとね、 ( ) うです……

(まあ、 ( これ ) ( めづら ) しい。)

  几帳 ( きちやう ) とも、 垂幕 ( さげまく ) とも ( ) ひたいのに、 ( ) うではない、 萌黄 ( もえぎ ) ( あを ) 段染 ( だんだら ) ( ) つた 綸子 ( りんず ) ( なん ) ぞ、 唐繪 ( からゑ ) 浮模樣 ( うきもやう ) 織込 ( おりこ ) んだのが 窓帷 ( カアテン ) ( ) つた 工合 ( ぐあひ ) に、 格天井 ( がうてんじやう ) から ( ゆか ) ( ) いて ( おほ ) うてある。 ( これ ) ( おほ ) はれて、 ( ) ( なか ) ( ) えません。

  ( これ ) が、もつと ( おく ) ( ) めて ( ) つてあれば、 絹一重 ( きぬひとへ ) ( うち ) は、すぐに、 御廚子 ( みづし ) 神棚 ( かみだな ) ( ) ふのでせうから、 ( ちか ) つて、 ( わたし ) は、 ( のぞ ) くのではなかつたのです。が、 ( だう ) ( うち ) の、 ( むし ) 格子 ( かうし ) ( ) つた ( はう ) ( かゝ ) つて ( ) ました。

  何心 ( なにごころ ) なく、 ( はし ) を、キリ/\と、 手許 ( てもと ) へ、 ( しぼ ) ると、 蜘蛛 ( くも ) ( ) のかはりに ( まぼろし ) ( あや ) ( ) つて、 脈々 ( みやく/\ ) として、 ( かほ ) ( ) でたのは、 薔薇 ( ばら ) ( すみれ ) かと ( おも ) ふ、いや、それよりも、 唯今 ( たゞいま ) ( おも ) へば、 先刻 ( さつき ) ( はな ) ( にほひ ) です、 ( なん ) とも ( ) へない、 ( あま ) い、 ( なまめ ) いた ( かをり ) が、 ( ぷん ) ( かを ) つた。」

 ―― 學士 ( がくし ) 手巾 ( ハンケチ ) で、 ( くち ) ( おほ ) うて、 一寸 ( ちよつと ) ( ひたひ ) ( おさ ) へた――

「―― 其處 ( そこ ) ( ねや ) で、 洋式 ( やうしき ) 寢臺 ( ねだい ) があります。 二人寢 ( ふたりね ) ( ゆつた ) りとした 立派 ( りつぱ ) なもので、 一面 ( いちめん ) に、 ( ひかり ) ( ) つた、 ( なめ ) らかに 艶々 ( つや/\ ) した、 ( ぬめ ) か、 羽二重 ( はぶたへ ) か、と ( おも ) ( あは ) 朱鷺色 ( ときいろ ) なのを 敷詰 ( しきつ ) めた、 ( いさゝ ) ( ふる ) びては ( ) えました。が、それは ( そら ) ( くも ) つて ( ) 所爲 ( せゐ ) でせう。 ( おな ) ( いろ ) 薄掻卷 ( うすかいまき ) ( ) けたのが、すんなりとした 寢姿 ( ねすがた ) の、 ( すこ ) 肉附 ( にくづき ) ( ) くして ( ) せるくらゐ。 ( はだ ) ( おほ ) うたとも ( ) えないで、 ( うつくし ) ( をんな ) ( かほ ) がはらはらと 黒髮 ( くろかみ ) を、 矢張 ( やつぱ ) り、 ( おな ) ( きぬ ) ( まくら ) にひつたりと ( ) けて、 此方 ( こちら ) むきに ( すこ ) 仰向 ( あをむ ) けに ( ) つて ( ) ( ) ます。のですが、 ( それ ) が、 黒目勝 ( くろめがち ) ( さう ) ( ひとみ ) をぱつちりと ( ) けて ( ) る…… ( ) ( ) に、 此處 ( こゝ ) ( ころ ) されるのだらう、と ( あま ) りの ( こと ) ( ) ( おも ) ひましたから、 此方 ( こつち ) ( じつ ) 凝視 ( みつめ ) ました。

  ( すこ ) 高過 ( たかす ) ぎるくらゐに 鼻筋 ( はなすぢ ) がツンとして、 彫刻 ( てうこく ) か、 ( ねり ) ものか、 ( まゆ ) 口許 ( くちもと ) 、はつきりした 輪郭 ( りんくわく ) ( ) ひ、 第一 ( だいいち ) 櫻色 ( さくらいろ ) の、あの、 色艶 ( いろつや ) が、―― ( それ ) が―― ( いま ) の、あの 電車 ( でんしや ) 婦人 ( ふじん ) 瓜二 ( うりふた ) つと ( ) つても ( ) い。

  ( とき ) に、 ( ) 一筋 ( ひとすぢ ) でも ( うご ) いたら、 ( ) の、 ( まくら ) 蒲團 ( ふとん ) 掻卷 ( かいまき ) 朱鷺色 ( ときいろ ) にも ( まが ) ( つぼみ ) とも ( ) つた ( かほ ) ( をんな ) は、 芳香 ( はうかう ) ( はな ) つて、 乳房 ( ちぶさ ) から ( しべ ) ( ) かせて、 爛漫 ( らんまん ) として ( ) くだらうと ( おも ) はれた。」