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 別に 凱旋門 がいせんもん と、 生首提灯 なまくびじょうちん と小生は申し候。人の目鼻書きて、青く塗りて、血の色染めて、黒き 蕨縄 わらびなわ 着けたる提灯と、竜の口なる五条の噴水と、銅像と、この他に今も眼に み、脳に印して覚え候は、式場なる公園の片隅に、人を避けて 悄然 しょうぜん と立ちて、 さび しげにあたりを見まはしをられ候、 一個 ひとり 年若き佳人にござ候。何といふいはれもあらで、薄紫のかはりたる、藤色の きぬ 着けられ候ひき。

 このたび戦死したる少尉B氏の 令閨 れいけい に候。また小生知人にござ候。

 あらゆる人の嬉しげに、楽しげに、をかしげに顔色の見え候に、小生はさて置きて夫人のみあはれに しお れて見え候は、人いきりにやのぼせたまひしと案じられ、近う寄り声をかけて、もの問はむと存じ候折から、おツといふ声、人なだれを打つて立騒ぎ、悲鳴をあげて逃げ惑ふ女たちは、水車の歯にかかりて ね飛ばされ候やう、倒れては げ、転びては遁げ、うづまいて来る大 蜈蚣 むかで のぐるぐると巻き込むる環のなかをこぼれ出で候が、 令閨 れいけい とおよび五三人はその中心になりて、 十重二十重 とえはたえ に巻きこまれ、 のが るる ひま なく ふし まろび候ひし。警官 けつけて のち 、他は皆無事に起上り候に、うつくしき人のみは、そのまま もすそ をまげて、起たず横はり候。 塵埃 ちりほこり のそのつややかなる黒髪を けが す間もなく、 衣紋 えもん の乱るるまもなくて、かうはなりはてられ候ひき。

 むかでは、これがために寸断され、 此処 ここ に六尺、 彼処 かしこ に二尺、三尺、五尺、七尺、一尺、五寸になり、一分になり、 寸々 ずたずた に切り刻まれ候が、 身体 からだ の黒き、足の赤き、切れめ切れめに酒気を帯びて、一つづつうごめくを見申し候。

 日暮れて式場なるは申すまでもなく、十万の家軒ごとに、おなじ生首提灯の、しかも たけ 三尺ばかりなるを揃うて 一斉 いっせい ひとも し候へば、市内の 隈々 くまぐま 塵塚 ちりづか の片隅までも、 真蒼 まっさお き昼とあひなり候。白く染め抜いたる、目、口、鼻など、大路小路の つち の上に影を宿して、青き のなかにたとへば蝶の舞ふ如く 蝋燭 ろうそく のまたたくにつれて、ふはふはとその まぼろし の浮いてあるき候ひし。ひとり、唯、単に、 一宇 いちう の門のみ、生首に ひとも さで、 さび しく暗かりしを、怪しといふ者候ひしが、さる人は皆人の心も、ことのやうをも知らざるにて候。その夜 けて後、 俄然 がぜん として暴風起り、 須臾 しゅゆ のまに大方の提灯を吹き飛ばし、残らず きえて 真闇 まっくら になり申し候。 闇夜 やみよ のなかに、唯一ツ すさ まじき音聞え候は、大木の吹折られたるに候よし。さることのくはしくは申上げず候。唯今風の音聞え候。何につけてもおなつかしく候。

  月  日

ぢい様