凱旋祭
泉鏡花 (Gaisenmatsuri) | ||
二
催 ( もよおし ) のかかることは、ただ 九牛 ( きゅうぎゅう ) の 一毛 ( いちもう ) に過ぎず候。 凱旋門 ( がいせんもん ) は申すまでもなく、 一廓 ( いっかく ) 数百金を以て建られ候。あたかも記念碑の正面にむかひあひたるが見え候。またその 傍 ( かたわら ) に、これこそ 見物 ( みもの ) に候へ。ここに 三抱 ( みかかえ ) に余る山桜の遠山桜とて有名なるがござ候。その梢より根に至るまで、枝も、葉も、幹も、すべて青き色の毛布にて 蔽 ( おお ) ひ包みて、見上ぐるばかり巨大なる象の形に 拵 ( こしら ) へ候。
毛布はすべて旅団の兵員が、遠征の際に用ゐたるをつかひ候よし。その数八千七百枚と承り候。 長蛇 ( ちょうだ ) の如き巨象の鼻は、西の方にさしたる枝なりに 二蜿 ( ふたうね ) り蜿りて 喞筒 ( ポンプ ) を見るやう、空高き梢より樹下を流るる小川に臨みて、いま水を吸ふ処に候。 脚 ( あし ) は太く、折から一員の騎兵の通り合せ候が、 兜形 ( かぶとがた ) の軍帽の 頂 ( いただき ) より、 爪 ( つめ ) の裏まで、全体唯その 前脚 ( まえあし ) の 後 ( うしろ ) にかくれて、 纔 ( わずか ) に 駒 ( こま ) の尾のさきのみ、 此方 ( こなた ) より見え申し候。かばかりなる巨象の横腹をば、 真四角 ( まっしかく ) に切り開きて、板を渡し、ここのみ赤き 氈 ( せん ) を敷詰めて、踊子が舞の舞台にいたし候。葉桜の 深翠 ( ふかみどり ) したたるばかりの頃に候へば、舞台の上下にいや 繁 ( しげ ) りに繁りたる桜の葉の 洩 ( も ) れ 出 ( い ) で候て、舞台は薄暗く、 緋 ( ひ ) の毛氈の色も黒ずみて、もののしめやかなるなかに、隣国を 隔 ( へだ ) てたる連山の 巓 ( いただき ) 遠く二ツばかり眉を描きて見渡され候。遠山桜あるあたりは、公園の 中 ( うち ) にても、 眺望 ( ちょうぼう ) の 勝景 ( しょうけい ) 第一と呼ばれたる処に候へば、 式 ( かた ) の如き巨大なる怪獣の腹の下、 脚 ( あし ) の 四 ( よ ) ツある間を 透 ( すか ) して、城の 櫓 ( やぐら ) 見え、森も見え、橋も見え、 日傘 ( ひがさ ) さして橋の上渡り来るうつくしき女の藤色の 衣 ( きぬ ) の色、あたかも藤の花 一片 ( ひとひら ) 、一片の藤の花、いといと小さく、ちらちら眺められ候ひき。
こは月のはじめより造りかけて、凱旋祭の前一日の昼すぎまでに出来上り候を、一度見たる時のことに 有之 ( これあり ) 候。
夜に入ればこの巨象の両個の 眼 ( まなこ ) に電燈を 灯 ( ひとも ) し候。折から 曇天 ( どんてん ) に候ひし。一体に 樹立 ( こだち ) 深く、柳松など 生茂 ( おいしげ ) りて、くらきなかに、その蒼白なる光を 洩 ( もら ) し、巨象の形は小山の如く、喬木の梢を 籠 ( こ ) めて、雲低き天に接し、 朦朧 ( もうろう ) として、公園の一方にあらはれ候時こそ怪獣は 物凄 ( ものすさ ) まじきその 本色 ( ほんしょく ) を 顯 ( あらわ ) し、雄大なる趣を備へてわれわれの眼には映じたれ。白昼はヤハリ唯毛布を以て包みなしたる山桜の妖精に他ならず候ひし。雲はいよいよ重く、夜はますます 闇 ( くら ) くなり候まま、 炬 ( きょ ) の如き 一双 ( いっそう ) の眼、暗夜に水銀の光を放ちて、この北の 方 ( かた ) 三十間、小川の 流 ( ながれ ) 一たび 灌 ( そそ ) ぎて、池となり候池のなかばに、五条の噴水、青竜の口よりほとばしり、なかぞらのやみをこぼれて 篠 ( しの ) つくばかり降りかかる吹上げの水を照し、 相対 ( あいたい ) して、またさきに申上候銅像の 右手 ( めて ) に 提 ( ひっさ ) げたる百錬鉄の剣に反映して、次第に黒くなりまさる 漆 ( うるし ) の如き公園の 樹立 ( こだち ) の 間 ( なか ) に言ふべからざる 森厳 ( しんげん ) の趣を呈し候、いまにも雨降り候やうなれば、人さきに立帰り申候。
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