University of Virginia Library

  島々 しま/\ と云ふ町の宿屋へ着いたのは、午過ぎ――もう夕方に近い頃であつた。宿屋の あが かまち には、三十 恰好 がつこう の浴衣の男が、青竹の笛を鳴らしてゐた。

  わたし はその癇高い を聞きながら、埃にまみれた草鞋の紐を解いた。其処へ をんな が浅い たらひ に、洗足の水を汲んで来た。水は冷たく澄んだ底に、粗い砂を沈めてゐた。

 二階の縁側の日除けには、日の光が強く残つてゐた。そのせゐか畳も襖も、残酷な程むさくるしく見えた。夏服を浴衣に着換へた私は、 くく り枕を出して貰つて、長長と仰向けに寝ころんだ儘、昨日東京を立つ時に買つた講談 玉菊燈籠 たまぎくどうろう を少し読んだ。読みながら、浴衣の糊の臭ひが、始終気になつて仕方がなかつた。

 日がかげるとさつきの婢が、塗りの剥げた高盆に

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湯札を一枚のせて来た。さうして湯屋は向う側にあるから、一風呂浴びて来てくれと云つた。

 それから繩の緒の下駄をはいて、石高な路の向うにある小さな銭湯へはひりに行つた。湯屋は着物を脱ぐ所が、やつと二畳ばかりしかなかつた。

 客は私一人ぎりであつた。もう薄暗い湯壺に浸つてゐると、ぽたりと何かが湯の上へ落ちた。手に掬つて、流しの明りに見たら、 馬陸 やすで と云ふ虫であつた。手のひらの水の中に、その褐色の虫がはつきりと、伸びたり縮んだりするのを見る事は、妙に私を寂しくさせた。

 湯屋から帰つて、晩飯の膳に向つた時、私は婢に槍ヶ嶽の案内者を一人頼んでくれと云つた。婢は早速承知して、竹の台のランプに火をともしてから、一人の男を二階に呼び上げた。それは先刻上り口で、青竹の笛を吹いてゐた男であつた。

 「槍ヶ嶽の事なら、この人は縁の下の 五味 ごみ まで知つて居ります。」

 婢はこんな常談を云ひながら、荒らされた膳を下げて行つた。

 私はその男にいろいろ山の事を尋ねた。槍ヶ嶽を越えて、 飛騨 ひだ 蒲田 がまた 温泉へ出る事が出来るかどうか。近頃噴火の噂がある、 焼嶽 やけだけ へも登山出来るかどうか。槍ヶ嶽の峯伝ひに 穂高山 ほたかやま へ行く事が出来るかどうか。――さう云ふ事が主な問題であつた。男は窮屈さうに畏りながら、無造作にそれらは容易だと答へた。

 旦那さへ御歩けになれりや、何処でも訳はありません。」

 私は苦笑

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した。 上州 じやうしう の三山、 浅間山 あさまやま 木曾 きそ 御嶽 おんたけ 、それから こま たけ ――その ほか 山と名づくべき山には、一度も登つた事のない私であつた。

 「さうさな。まづ山岳会の連中並みに歩ければ、見つけものと思つて貰はう。」

 男が階下へ去つた時、私はすぐに床を敷いて貰つて、古蚊帳の中に横になつた。戸を明け放つた縁側の外には、暗い山に唯一点、赤い炭焼きの火が動いてゐた。それがかすかながら、私の心に、旅愁とも云ふべき寂しさを運んで来た。

 やがて婢が戸をしめに来た。戸の走る度に山の上の星月夜が、私の眼界から消えて行つた。間もなく私の寝てゐるまはりは、古蚊帳に四方を遮られた、 行燈 あんどん ばかりの薄暗がりになつた。私は大きな眼をあきながら、古蚊帳の天井を眺めてゐた。するとあの青竹の笛の音が、かすかに又階下から聞えて来た。