槍ヶ嶽紀行
芥川龍之介 (Yarigatake ni nobotta ki) | ||
四
――雑木の重なり合つたのを押し開いて、もう一度天日の光を浴びると、案内者は私を顧みながら、
「此処が 赤沢 ( あかざわ ) です」と云つた。
私は鳥打帽を 阿弥陀 ( あみだ ) にして、眼の前にひらけた光景を眺めた。
私の前に横はるものは、立体の数を尽した大石であつた。それが狭い峡谷の急な斜面を満たしながら、空を劃つた峯々の向うへ、目のとどく限り連つてゐた。もし形容の言葉を着ければ、正に小さな私たち二人は、遠い 山巓 ( さんてん ) から漲り落ちる大石の洪水の上にゐるのであつた。
私たちはこの大石に溢れた谷を、――「 黄花駒 ( きばなこま ) の 爪 ( つめ ) 」の咲いてゐる谷を、虫の這ふやうに登り出した。
暫く苦しい歩みを続けた後、案内者は突然杖を挙げて、私たちの 左手 ( ゆんで ) に続いてゐる
を指さしながら、「御覧なさい。あすこに 青猪 ( あをじし ) がゐます」と云つた。
私は彼の杖に沿うて、視線を絶壁の上に投げた。すると荒削りの山の肌が、頂に近く 偃 ( は ) ひ松の暗い緑をなすつた所に、小さく一匹の獣が見えた。それが青猪と云ふ異名を負つた、日本アルプスに棲む 羚羊 ( かもしか ) であつた。
やがてその日も暮れかかる頃、私たちの周囲には、次第に残雪の色が多くなつて来た。それから石の上に枝を拡げた、寂しい偃ひ松の群も見え始めた。
私は時々大石の上に足を止めて、何時か姿を 露 ( あらは ) し出した、槍ヶ嶽の 絶巓 ( ぜつてん ) を眺めやつた。絶巓は大きな 石鏃 ( やじり ) のやうに、夕焼の余炎が消えかかつた空を、何時も黒々と切り抜いてゐた。「山は自然の始にして又終なり」――私はその頂を眺める度に、かう云ふ文語体の感想を 必 ( かならず ) 心に繰返した。それは確か以前読んだ、ラスキンの中にある言葉であつた。
その内に寒い霧の一団が、もう暗くなつた谷の下から、大石と偃ひ松との上を這つて、私たちの方へ上つて来た。さうしてそれがあたりを包むと、俄に 小雨交 ( こさめまじ ) りの風が私たちの顔を吹き始めた。私は漸く山上の高寒を肌に感じながら、一分も早く今夜宿る無人の岩室に辿り着くべく、懸命に急角度の斜面を登つて行つた。が、ふと異様な声に驚かされて、思はず左右を見廻すと、あまり遠くない偃ひ松の茂みの上を、流れるやうに飛んで行く褐色の鳥が一羽あつた。
「何だい、あの鳥は。」
「 雷鳥 ( らいてう ) です。」
小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを続けながら、
無愛想にかう答へた。 槍ヶ嶽紀行
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