University of Virginia Library

 ――雑木の重なり合つたのを押し開いて、もう一度天日の光を浴びると、案内者は私を顧みながら、

「此処が 赤沢 あかざわ です」と云つた。

 私は鳥打帽を 阿弥陀 あみだ にして、眼の前にひらけた光景を眺めた。

 私の前に横はるものは、立体の数を尽した大石であつた。それが狭い峡谷の急な斜面を満たしながら、空を劃つた峯々の向うへ、目のとどく限り連つてゐた。もし形容の言葉を着ければ、正に小さな私たち二人は、遠い 山巓 さんてん から漲り落ちる大石の洪水の上にゐるのであつた。

 私たちはこの大石に溢れた谷を、――「 黄花駒 きばなこま つめ 」の咲いてゐる谷を、虫の這ふやうに登り出した。

 暫く苦しい歩みを続けた後、案内者は突然杖を挙げて、私たちの 左手 ゆんで に続いてゐる

[_]
[9]絶壁上
を指さしながら、

「御覧なさい。あすこに 青猪 あをじし がゐます」と云つた。

 私は彼の杖に沿うて、視線を絶壁の上に投げた。すると荒削りの山の肌が、頂に近く ひ松の暗い緑をなすつた所に、小さく一匹の獣が見えた。それが青猪と云ふ異名を負つた、日本アルプスに棲む 羚羊 かもしか であつた。

 やがてその日も暮れかかる頃、私たちの周囲には、次第に残雪の色が多くなつて来た。それから石の上に枝を拡げた、寂しい偃ひ松の群も見え始めた。

 私は時々大石の上に足を止めて、何時か姿を あらは し出した、槍ヶ嶽の 絶巓 ぜつてん を眺めやつた。絶巓は大きな 石鏃 やじり のやうに、夕焼の余炎が消えかかつた空を、何時も黒々と切り抜いてゐた。「山は自然の始にして又終なり」――私はその頂を眺める度に、かう云ふ文語体の感想を かならず 心に繰返した。それは確か以前読んだ、ラスキンの中にある言葉であつた。

 その内に寒い霧の一団が、もう暗くなつた谷の下から、大石と偃ひ松との上を這つて、私たちの方へ上つて来た。さうしてそれがあたりを包むと、俄に 小雨交 こさめまじ りの風が私たちの顔を吹き始めた。私は漸く山上の高寒を肌に感じながら、一分も早く今夜宿る無人の岩室に辿り着くべく、懸命に急角度の斜面を登つて行つた。が、ふと異様な声に驚かされて、思はず左右を見廻すと、あまり遠くない偃ひ松の茂みの上を、流れるやうに飛んで行く褐色の鳥が一羽あつた。

「何だい、あの鳥は。」

雷鳥 らいてう です。」

 小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを続けながら、

[_]
[10]相不変
無愛想にかう答へた。