University of Virginia Library

 ――山の そば を一つ曲ると、突然私たちの足もとから、何匹かの獣が走り去つた。

「畜生、鉄砲さへあれば、逃しはしないのだが。」

 案内者は足を止めて、忌々しさうに舌打ちをしながら、路ばたの とち の大木を見上げた。

 橡の若葉が重なり合つて、路の上の空を遮つた枝には、二匹の仔猿をつれた親猿が、静に私たちを見下してゐた。

 私は物珍しい眼を挙げて、その三匹の猿が おもむろ に、

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梢を伝つて行く姿を眺めた。が、猿は案内者にとつては、猿であるよりも先に獲物であつた。彼は立ち去り難いやうに、橡の梢を仰ぎながら、 つぶて を拾つて投げたりした。

「おい、行かう。」

 私はかう彼を促した。彼はまだ猿を見返りながら、渋々又歩き出した。私は多少不快であつた。

 路は次第に険しくなつた。が、馬が通ると見えて、馬糞が所々に落ちてゐた。さうしてその上には、 ぢや てう が、渋色の翅を合せた儘、何羽もぎつしり止まつてゐた。

「これが 徳本 とくがう の峠です」

 案内者は私を顧みて云つた。

 私は小さな雑嚢の外に、何も荷物のない体であつた。が、彼は食器や食糧の外にも、私の毛布や外套などを うづたか く肩に背負つてゐた。それにも関らず峠へかかると、

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[4]彼と私の間
の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。

 三十分の後、とうとう私はたつた一人、山路を喘いで行く旅人になつた。うす日に蒸された峠の空気は、無気味な静寂を孕んでゐた。馬糞にたかつてゐる蛇の目蝶と ござ

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[5]煽つて行く私、
――それがこの急な路の上に、生きて動いてゐるすべてであつた。

 と思ふと鈍い翅音がして、青黒い一匹の馬蠅が、ぺたりと私の手の甲に止まつた。さうして其処を鋭く刺した。私は半ば 動顛 どうてん しながら、一打ちにその馬蠅を打ち殺した。「自然は私に敵意を持つてゐる。」――そんな迷信じみた心もちが一層私をわくわくさせた。

 私は痛む手を抱へながら、無理やりに足を早め出した。……