University of Virginia Library

一の三

 月落ち、 ( ) は紫に ( ) けて、九月十七日となりぬ。午前六時を過ぐるころ、艦隊はすでに海洋 ( とう ) の近くに進みて、まず砲艦 赤城 ( あかぎ ) を島の彖登湾に ( つか ) わして敵の有無を探らしめしが、湾内むなしと帰り報じつ。艦隊さらに進航を続けて、 ( だい ) 小鹿島 ( しょうろくとう ) を斜めに見つつ大孤山沖にかかりぬ。

 午前十一時武男は要ありて行きし 士官公室 ( ワートルーム ) ( ) でてまさに 艙口 ( ハッチ ) にかからんとする時、上甲板に声ありて、

 「見えたッ!」

 同時に靴音の ( いそが ) わしく ( ) せ違うを聞きつ。心臓の鼓動とともに、 艙梯 ( そうてい ) に踏みかけたる足ははたと止まりぬ。あたかも 梯下 ( ていか ) を通りかかりし一人の水兵も、ふッと立ち止まりて武男と顔見合わしたり。

 「川島分隊士、敵艦が見えましたか」

 「おう、そうらしい」

 言いすてて武男は乱れうつ胸をいたずらにおし静めつつ足早に甲板に上れば、 人影 ( じんえい ) ( ) せ違い、 呼笛 ( ふえ ) 鳴り、信号手は忙わしく信号旗を引き上げおり、艦首には水兵多くたたずみ、艦橋の上には司令長官、艦長、副長、参謀、諸士官、いずれも口を結び目を据えて、はるかに艦外の海を望みおるなり。その視線を ( ) うて望めば、北の ( かた ) 黄海の水、天と相合うところに当たりて、黒き糸筋のごとくほのかに立ち上るもの、一、二、三、四、五、六、七、八、九条また十条。

 これまさしく敵の艦隊なり。

 艦橋の上に立つ一将校 ( たもと ) 時計を ( いだ ) し見て「一時間半は大丈夫だ。準備ができたら、まず腹でもこしらえて置くですな」

 中央に立ちたる 一人 ( ひとり ) はうなずき「お待ち遠様。諸君、しっかり頼みますぞ」と言い終わりて ( ひげ ) をひねりつ。

 やがて戦闘旗ゆらゆらと 大檣 ( たいしょう ) ( いただき ) 高く引き揚げられ、数声のラッパは、艦橋より艦内くまなく鳴り渡りぬ。配置につかんと、艦内に行きかう人の影織るがごとく、檣楼に上る者、機関室に下る者、水雷室に行く者、治療室に入る者、 右舷 ( うげん ) に行き、左舷に行き、艦尾に行き、艦橋に上り、縦横に動ける局部の作用たちまち成るを告げて、戦闘の準備は時を移さず整いぬ。あたかも 午時 ( ごじ ) に近くして、戦わんとしてまず 午餐 ( ごさん ) の令は ( ) でたり。

 分隊長を助け、部下の砲員を指揮して手早く右舷速射砲の 装填 ( そうてん ) を終わりたる武男は、ややおくれて、 士官次室 ( ガンルーム ) に入れば、同僚皆すでに集まりて、 ( はし ) 下り ( さら ) 鳴りぬ。短小少尉はまじめになり、 甲板士官 ( メート ) はしきりに額の汗をぬぐいつつうつむきて食らい、 年少 ( としした ) の候補生はおりおり他の顔をのぞきつつ、劣らじと皿をかえぬ。たちまち箸をからりと投げて立ちたるは赤シャツ少尉なり。

 「諸君、敵を前に控えて 悠々 ( ゆうゆう ) 午餐 ( ひるめし ) をくう諸君の勇気は―― 立花宗茂 ( たちばなむねしげ ) に劣らずというべしだ。お互いにみんなそろって 今日 ( きょう ) の夕飯を食うや否やは疑問だ。諸君、別れに握手でもしようじゃないか」

 いうより早く隣席にありし武男が手をば 無手 ( むず ) と握りて二三度打ちふりぬ。同時に一座は総立ちになりて手を握りつ、握られつ、皿は二個三個からからとテーブルの下に ( まろ ) び落ちたり。 左頬 ( さきょう ) にあざある一少尉は少軍医の手をとり、

 「わが輩が負傷したら、どうかお手柔らかにやってくれたまえ。その 賄賂 ( わいろ ) だよ、これは」

 と四五度も打ちふりぬ。からからと笑える一座は、またたちまちまじめになりつ。一人去り、二人去りて、果てはむなしき 器皿 ( きべい ) 狼藉 ( ろうぜき ) たるを ( とど ) むるのみ。

 零時二十分、武男は、分隊長の命を帯び、副艦長に打ち合わすべき事ありて、前艦橋に上れば、わが艦隊はすでに単縦陣を形づくり、約四千メートルを隔てて第一遊撃隊の四艦はまっ先に進み、本隊の六艦はわが松島を先登としてこれにつづき、赤城西京丸は本隊の左舷に沿うてしたがう。

 仰ぎ見る 大檣 ( たいしょう ) の上高く戦闘旗は 碧空 ( へきくう ) ( ) たたき、煙突の ( けぶり ) まっ黒にまき上り、 ( へさき ) は海を ( ) いて 白波 ( はくは ) 高く両舷にわきぬ。将校あるいは双眼鏡をあげ、あるいは長剣の ( つか ) を握りて艦橋の風に向かいつつあり。

 はるかに北方の海上を望めば、さきに水天の間に一髪の浮かめるがごとく見えし煙は、一分一分に肥え来たりて、敵の艦隊さながら海中よりわき ( ) づるごとく、煙まず見え、ついで 針大 ( はりだい ) ( ほばしら ) ほの見え、煙突見え、艦体見え、檣頭の旗影また点々として見え来たりぬ。ひときわすぐれて目立ちたる 定遠 ( ていえん ) 鎮遠 ( ちんえん ) 相連 ( あいなら ) んで中軍を固め、 経遠 ( けいえん ) 至遠 ( しえん ) 広甲 ( こうこう ) 済遠 ( さいえん ) は左翼、 来遠 ( らいえん ) 靖遠 ( せいえん ) 超勇 ( ちょうゆう ) 揚威 ( ようい ) は右翼を固む。西に当たってさらに ( けぶり ) の見ゆるは、 平遠 ( へいえん ) 広丙 ( こうへい ) 鎮東 ( ちんとう ) 鎮南 ( ちんなん ) 及び六隻の水雷艇なり。

 敵は単横陣を張り、我艦隊は単縦陣をとって、敵の 中央 ( まなか ) をさして丁字形に進みしが、あたかも敵陣を ( ) る一万メートルの所に至りて、わが 先鋒隊 ( せんぽうたい ) はとっさに針路を左に転じて、敵の右翼をさしてまっしぐらに進みつ。先鋒の左に転ずるとともに、わが艦隊は ( りゅう ) の尾をふるうごとくゆらゆらと左に動いて、彼我の陣形は丁字一変して八字となり、彼は横に張り、われは斜めにその右翼に向かいて、さながら一大コンパス ( けい ) をなし、彼進み、われ進みて、相 ( ) る六千メートルにいたりぬ。この時敵陣の中央に控えたる定遠艦首の砲台に白煙むらむらと渦まき起こり、三十サンチの両弾丸空中に鳴りをうってわが先鋒隊の左舷の海に落ちたり。黄海の水驚いて ( さかしま ) に立ちぬ。