縷紅新草
泉鏡花 (Ruko shinso) | ||
二
「ああ、まるで魔法にかかったようだ。」
頬にあてて打傾いた 掌 ( て ) を、辻町は冷く感じた。時に短く吸込んだ 煙草 ( たばこ ) の火が、チリリと耳を 掠 ( かす ) めて、 爪先 ( つまさき ) の小石へ落ちた。
「またまったく夢がさめたようだ。――その時、夜あけ頃まで、堀の上をうろついて、いつ 家 ( うち ) へ帰ったか、草へもぐったのか、 蒲団 ( ふとん ) を 引被 ( ひきかぶ ) ったのか分らない。 打 ( ぶ ) ち ※ ( の )
めされたようになって寝た耳へ、――兄さん……兄さん――
と、聞こえたのは、……お京さん。」
「返事をしましょうか。」
「願おうかね。」
「はい、おほほ。」
「申すまでもない、威勢のいい若い声だ。そうだろう、お互に 二十 ( はたち ) の歳です。――死んだ人は、たしか一つ上だったように後で聞いて覚えている。前の晩は、 雨気 ( あまけ ) を含んで、花あかりも 朦朧 ( もうろう ) と、霞に綿を敷いたようだった。格子 戸外 ( そと ) のその元気のいい声に、むっくり起きると、おっと来たりで、目は 窪 ( くぼ ) んでいる…… 額 ( おでこ ) をさきへ、 門口 ( かどぐち ) へ突出すと、顔色の青さを ※ ( あぶ )
られそうな、からりとした春 爛 ( たけなわ ) な朝景色さ。お京さんは、結いたての 銀杏返 ( いちょうがえし ) で、半襟の浅黄の冴えも、 黒繻子 ( くろじゅす ) の帯の 艶 ( つや ) も、霞を払ってきっぱりと立っていて、(兄さん身投げですよ、お城の堀で。)(嘘だよ、ここに活きてるよ。)と、うっかり私が言ったんだから、お察しものです。すぐ 背後 ( うしろ ) の土間じゃ七十を越した 祖母 ( ばあ ) さんが、お 櫃 ( ひつ ) の底の、こそげ粒で、 茶粥 ( ちゃがゆ ) とは行きません、みぞれ雑炊を煮てござる。前々年、 家 ( うち ) が焼けて、次の年、父親がなくなって、まるで、掘立小屋だろう。住むにも、食うにも―― 昨夜 ( ゆうべ ) は城のここかしこで、早い蛙がもう鳴いた、歌を唄ってる虫けらが、およそ 羨 ( うらやま ) しい、と云った場合。……祖母さんは耳が遠いから 可 ( よ ) かったものの、(活きてるよ。)は何事です。(何を 寝惚 ( ねぼ ) けているんです。しっかりするんです。)その頃の様子を察しているから、お京さん――ままならない思遣りのじれったさの 疳癪筋 ( かんしゃくすじ ) で、ご存じの通り、 一 ( いち ) うちの眉を 顰 ( ひそ ) めながら、(……町内ですよ、ここの。いま私、前を通って来たんだけれど、角の 箔屋 ( はくや ) 。――うちの人じゃあない、世話になって、はんけちの 工場 ( こうば ) へ勤めている娘さんですとさ。ちゃんと目をあいて……あれ、あんなに人が立っている。)うららかな朝だけれど、路が 一条 ( ひとすじ ) 、 胡粉 ( ごふん ) で 泥塗 ( だみ ) たように、ずっと白く、 寂然 ( しん ) として、 家 ( や ) ならび、三町ばかり、手前どもとおなじ 側 ( かわ ) です、けれども、何だか遠く離れた海際まで、突抜けになったようで、そこに立っている人だかりが――身を投げたのは 淵 ( ふち ) だというのに――打って来る波を避けるように、むらむらと動いて、 地 ( つち ) がそこばかり、ぐっしょり 汐 ( しお ) に濡れているように見えた。花はちらちらと目の前へ散って来る。
私の小屋と 真向 ( まむかい ) の……金持は焼けないね……しもた屋の 後妻 ( うわなり ) で、町中の意地悪が――今時はもう影もないが、――それその時飛んで来た、燕の羽の形に 後 ( うしろ ) を 刎 ( は ) ねた、 橋髷 ( はしまげ ) とかいうのを小さくのっけたのが、 門 ( かど ) の敷石に出て来て立って、おなじように箔屋の前を 熟 ( じっ ) とすかして 視 ( み ) ていた。その 継娘 ( ままむすめ ) は、優しい、うつくしい、上品な人だったが、 二十 ( はたち ) にもならない先に、雪の消えるように白梅と一所に水で散った。いじめ殺したんだ、あの継母がと、町内で 沙汰 ( さた ) をした。その色の浅黒い 後妻 ( うわなり ) の眉と鼻が、箔屋を見込んだ横顔で、お米さんの前髪にくッつき合った、と私の目に見えた時さ。(いとしや。)とその後妻が、(のう、ご親類の、ご 新姐 ( しんぞ ) さん。)―― 悉 ( くわ ) しくはなくても、向う前だから、様子は知ってる、 行来 ( ゆきき ) 、出入りに、顔見知りだから、声を掛けて、(いつ見ても、 好容色 ( ごきりょう ) なや、ははは。)と 空 ( そら ) 笑いをやったとお思い、(非業の死とはいうけれど、根は身の行いでござりますのう。)とじろりと二人を見ると、お京さん、御母堂だよ、いいかい。怪我にも真似なんかなさんなよ。即時、 好容色 ( ごきりょう ) な 頤 ( あご ) を 打 ( ぶ ) つけるようにしゃくって、(はい、さようでござります、のう。)と云うが 疾 ( はや ) いか、背中の子。」
辻町は、時に、まつげの深いお米と顔を見合せた。
「その日は、 当寺 ( こちら ) へお参りに来がけだったのでね、……お京さん、 磴 ( いしだん ) が高いから 半纏 ( はんてん ) おんぶでなしに、浅黄鹿の子の紐でおぶっていた。背中へ、べっかっこで、(ばあ。)というと、カタカタと薄歯の音を立てて 家 ( うち ) ン中へ入ったろう。私が 後妻 ( うわなり ) に赤くなった。
負 ( おぶ ) っていたのが、何を隠そう、ここに好容色で立っている、さて、久しぶりでお目にかかります。お前さんだ、お米坊―― 二歳 ( ふたつ ) 、いや、三つだったか。かぞえ年。」
「かぞえ年……」
「ああ、そうか。」
「おじさんの家の焼けた年、お産間近に、お 母 ( っか ) さんが、あの、火事場へ飛出したもんですから、そのせいですって……私には 痣 ( あざ ) が。」
睫毛 ( まつげ ) がふるえる。辻町は、ハッとしたように、ふと肩をすくめた。
「あら、うっかり、おじさんだと思って、つい。…… 真紅 ( まっか ) でしたわ、おとなになって今じゃ 薄 ( うっす ) りとただ青いだけですの。」
おじさんは目を 俯 ( ふ ) せながら、わざと見まもったようにこういった。
「見えやしない、なにもないじゃないか、どこなのだね。」
「知らない。」
「まあさ。」
「乳の少し 傍 ( わき ) のところ。」
「きれいだな、眉毛を一つ 剃 ( そ ) った 痕 ( あと ) か、雪間の若菜……とでも言っていないと――父がなくなって帰ったけれど、私が一度無理に東京へ出ていた留守です。私の 家 ( うち ) のために、お京さんに火事場を踏ませて申訳がないよ。――ところで、その 嬰児 ( あかんぼ ) が、今お見受け申すお姿となったから、もうかれこれ三十年。……だもの、 記憶 ( おぼえ ) も何も 朧々 ( おぼろおぼろ ) とした中に、その悲しいうつくしい人の姿に薄明りがさして見える。遠くなったり、近くなったり、途中で消えたり、目先へ出たり――こっちも、とぼとぼと死場所を探していたんだから、どうも人目が邪魔になる。さきでも目障りになったろう。やがて夜中の三時過ぎ、天守下の坂は長いからね、坂の途中で見失ったが、見失った時の後姿を一番はっきりと覚えている。だから、その人が淵で死んだとすると、 一旦 ( いったん ) 町へ下りて、もう一度、坂を 引返 ( ひっかえ ) した事になるんだね。
ただし、そういった処で、あくる朝、町内の箔屋へ引取った身投げの娘が、果して 昨夜 ( ゆうべ ) 私が見た人と同じだかどうだか、実の処は分りません……それは今でも分りはしない。堀端では、前後一度だって、横顔の鼻筋だって、見えないばかりか、解りもしない。が、朝、お京さんに聞いたばかりで、すぐ、ああ、それだと思ったのも、おなじ死ぬ気の、気で感じたのであろうと思う……
と、お京さんが、むこうの 後妻 ( うわなり ) の目をそらして、格子を入った。おぶさったお前さんが、それ、今のべっかっこで、妙な顔……」
「ええ、ほほほ。」
とお米は軽く 咲容 ( えまい ) して、片袖を胸へあてる。
「お京さん、いきなり内の 祖母 ( ばあ ) さんの背中を一つトンと 敲 ( たた ) いたと思うと、 鉄鍋 ( てつなべ ) の 蓋 ( ふた ) を取って 覗 ( のぞ ) いたっけ、 勢 ( いきおい ) のよくない湯気が上る。」
お米は軽く 鬢 ( びん ) を 撫 ( な ) でた。
「ちょろちょろと燃えてる、 竈 ( かまど ) の 薪木 ( たきぎ ) 、その火だがね、何だか身を投げた 女 ( ひと ) をあぶって暖めているような気がして、消えぎえにそこへ、 袖褄 ( そでづま ) を 縺 ( もつ ) れて倒れた、ぐっしょり濡れた髪と、真白な顔が見えて、まるでそれがね、向う 門 ( かど ) に立っている 後妻 ( うわなり ) に、はかない恋をせかれて、五年前に、おなじ淵に身を投げた、優しい姉さんのようにも思われた。余程どうかしていたんだね。
半壊れの車井戸が、すぐ 傍 ( そば ) で、底の方に、ばたん、と寂しい 雫 ( しずく ) の音。
ざらざらと水が響くと、
――身投げだ――
―― 別嬪 ( べっぴん ) だ――
――身投げだ――
と 戸外 ( おもて ) を 喚 ( わめ ) いて人が駆けた。
この騒ぎは――さあ、それから 多日 ( しばらく ) 、四方、隣国、八方へ、大波を打ったろうが、
――三年の間、かたい慎み――
だッてね、お京さんが、その 女 ( ひと ) の事については、当分、口へ出してうわささえしなければ、また私にも、話さえさせなかったよ。
――おなじ桜に風だもの、兄さんを誘いに来ると悪いから――
その晩、おなじ千羽ヶ淵へ、ずぶずぶの 夥間 ( なかま ) だったのに、なまじ死にはぐれると、今さら気味が悪くなって、町をうろつくにも、山の手の辻へ廻って、箔屋の前は通らなかった。……
この土地の新聞 一種 ( ひといろ ) 、買っては読めない境遇だったし、新聞社の掲示板の前へ立つにも、土地は狭い、人目に立つ、死出 三途 ( さんず ) ともいう処を、一所に ※※ ( さまよ )
った 身体 ( からだ ) だけに、自分から気が 怯 ( ひ ) けて、 避 ( よ ) けるように、避けるように、世間のうわさに遠ざかったから、花の散ったのは、雨か、嵐か、人に 礫 ( つぶて ) を打たれたか、 邪慳 ( じゃけん ) に枝を折られたか。今もって、取留めた、 悉 ( くわ ) しい事は知らないんだが、それも、もう三十年。……お米さん、私は、おなじその年の八月――ここいらはまだ、月おくれだね、盂蘭盆が過ぎてから、いつも大好きな赤蜻蛉の飛ぶ時分、道があいて、東京へ立てたんだが。――
――ああ、そうか。」
辻町は、息を入れると、石に腰をずらして、ハタと軽く膝をたたいた。
縷紅新草
泉鏡花 (Ruko shinso) | ||