University of Virginia Library

       五

「おばけの……蜻蛉?……おじさん。」

「何、そんなものの居よう はず はない。」

 とさも落着いたらしく、声を沈めた。その癖、たった今、思わず、「あ!」といったのは誰だろう。

 いま辻町は、 蒼然 そうぜん として 苔蒸 こけむ した一基の石碑を片手で抱いて――いや、抱くなどというのは はば かろう――霜より冷くっても、千五百石の 女※ じょうろう

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の、石の むくろ ともいうべきものに手を添えているのである。ただし、その上に、沈んだ藤色のお米の羽織が袖をすんなりと墓のなりにかかった、が、織だか、地紋だか、影絵のように細い柳の葉に、菊らしいのを薄色に染出したのが、白い山土に敷乱れた、枯草の中に咲残った、 一叢 ひとむら の嫁菜の花と、 入交 いりま ぜに、空を蔽うた雑樹を れる日光に、幻の影を めた、墓はさながら、 こずえ を落ちた、うらがなしい綺麗な 錦紗 きんしゃ の燈籠の、うつむき伏した風情がある。

 ここは、 切立 きったて というほどではないが、 巌組 いわぐ みの みち けわ しく、砕いた 薬研 やげん の底を あが る、 れた滝の あと に似て、草土手の小高い処で、 ※々 るいるい

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と墓が並び、傾き、また倒れたのがある。

 上り切った卵塔の一劃、高い処に、裏山の峯を いて繁ったのが、例の高燈籠の大榎で、巌を縫って わだかま った根に寄って、先祖代々とともに、お米のお っか さんが、ぱっと目を開きそうに眠っている。そこも蔭で、薄暗い。

 それ、持参の昼提灯、土の下からさぞ、半間だと 罵倒 ばとう しようが、白く すわ って、ぼっと包んだ線香の煙が なび いて、裸 蝋燭 ろうそく の灯が、静寂な風に、ちらちらする。

 榎を くぐ った 彼方 かなた の崖は、すぐに、大傾斜の窪地になって、山の すそ まで、寺の裏庭を取りまわして 一谷 ひとたに 一面の卵塔である。

 初路の墓は、お京のと相向って、やや斜下、左の草土手の処にあった。

 見たまえ――お米が 外套 がいとう を折畳みにして袖に取って、 背後 うしろ に立添った、 前踞 まえこご みに、辻町は手をその石碑にかけた羽織の、裏の なまめ かしい中へ、さし入れた。手首に冴えて 淡藍 うすあい が映える。片手には、頑丈な、 さび の出た、 木鋏 きばさみ を構えている。

 この 大剪刀 おおばさみ が、もし空の樹の枝へでも 引掛 ひっかか っていたのだと、うっかり手にはしなかったろう。孟蘭盆の夜が更けて、燈籠が消えた時のように、羽織で包んだ初路の墓は、あわれにうつくしく、且つあたりを籠めて、陰々として、鬼気が こも るのであったから。

 鋏は落ちていた。これは、寺男の爺やまじりに、三人の 日傭取 ひようとり が、ものに驚き、泡を食って、 遁出 にげだ すのに、投出したものであった。

 その次第はこうである。

 はじめ二人は、 いしだん から、山門を入ると、広い山内、鐘楼なし。松を控えた墓地の入口の、 とざ さない木戸に近く、八分出来という石の塚を た。台石に特に意匠はない、つい通りの巌組一丈余りの上に、 あつら えの枠を置いた。が、あの、くるくると糸を廻す棒は見えぬ。くり抜いた跡はあるから、これには何か考案があるらしい。お米もそれはまだ知らなかった。枠の四つの は、その半面に対しても さいわい かなえ に似ない。鼎に似ると、 るも くも、いずれ 繊楚 かよわ い人のために見る目も忍びないであろう処を、あたかも よし 、玉を捧ぐる 白珊瑚 しろさんご なめら かなる枝に見えた。

「かえりに、ゆっくり拝見しよう。」

 その母親の展墓である。自分からは急がすのをためらった案内者が、

「道が悪いんですから、気をつけてね。」

 わあ、わっ、わっ、わっ、おう、ふうと、鼻 呼吸 いき を吹いた つら を並べ、手を挙げ、胸を たた き、 こぶし を振りなど、なだれを打ち、足ただらを踏んで、 一時 ひといき に四人、 摺違 すれちが いに木戸口へ、茶色になって いて出た。

 その声も 跫音 あしおと も、響くと、もろともに、落ちかかったばかりである。

 不意に つかりそうなのを、軽く身を抜いて路を避けた、お米の顔に、鼻をまともに突向けた、 先頭 さきて 第一番の じじい が、 つら も、 すね も、一縮みの しわ の中から、ニンガリと変に笑ったと思うと、

「出ただええ、幽霊だあ。」

 幽霊。

「おッさん、蛇、 まむし ?」

 お米は――幽霊と聞いたのに――ちょっと眉を ひそ めて、蛇、蝮を 憂慮 きづか った。

「そんげえなもんじゃねえだア。」

 いかにも、そんげえなものには おび えまい、面魂、 印半纏 しるしばんてん も交って、布子のどんつく、 半股引 はんももひき 空脛 からずね が入乱れ、 屈竟 くっきょう な日傭取が、早く、糸塚の前を摺抜けて、松の下に、ごしゃごしゃとかたまった中から、寺爺やの白い眉の、びくびくと動くが見えて、

「蜻蛉だあ。」

「幽霊蜻蛉ですだアい。」

 と、冬の 麦稈帽 むぎわらぼう かぶ った、若いのが声を掛けた。

「蜻蛉なら、幽霊だって。」

 お米は、 莞爾 にっこり して坂上りに、 衣紋 えもん のやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。

  いわ は鋭い。踏上る みち けわ しい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。

「何だい、今のは、あれは。」

「久助って、寺爺やです。卵塔場で働いていて、休みのお茶のついでに、私をからかったんでしょう。子供だと思っている。おじさんがいらっしゃるのに、見さかいがない。馬鹿だよ。」

「若いお前さんと、一緒にからかわれたのは嬉しいがね、 おど かすにしても、寺で幽霊をいう奴があるものか。それも蜻蛉の幽霊。」

「蛇や、蝮でさえなければ、 蜥蜴 とかげ が化けたって、そんなに 可恐 こわ いもんですか。」

「居るかい。」

「時々。」

「居るだろうな。」

「でも、この時節。」

「よし、私だって驚かない。しかし、何だろう、ああ、そうか。おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような 真黒 まっくろ な羽のひらひらする、 ほそ く青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。」

「黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの じじ い。」

 その時であった。

「ああ。」

 と、お米が声を立てると、

ひど いこと、墓を。」

 といった。声とともに、着た羽織をすっと脱いだ、が、紐をどう解いたか、袖をどう、手の菊へ通したか、それは知らない。花野を さっ なび かした、一筋の風が藤色に通るように、早く、その墓を包んだ。

 向う傾けに草へ倒して、ぐるぐる巻というよりは、がんじ がら みに、ひしと荒縄の汚いのを、無残にも。

「初路さんを、――初路さんを。」

 これが女※

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の碑だったのである。

茣蓙 ござ にも、 むしろ にも包まないで、まるで裸にして。」

 と 気色 けしき ばみつつ、且つ恥じたように 耳朶 みみたぶ を紅くした。

 いうまじき事かも知れぬが、辻町の目にも 咄嵯 とっさ に印したのは同じである。台石から取って えした、持扱いの荒くれた 爪摺 つまず れであろう、青々と苔の蒸したのが、ところどころ むし

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られて、日の くま かすか に、石肌の浮いた影を膨らませ、影をまた凹ませて、残酷に から めた、さながら白身の やつ れた女を、反接 緊縛 きんばく したに異ならぬ。

 推察に かた くない。いずれかの都合で、新しい糸塚のために、ここの位置を動かして持運ぼうとしたらしい。

 が、心ない仕業をどうする。――お米の羽織に、そうして、墓の姿を隠して かった。花やかともいえよう、ものに激した 挙動 ふるまい の、このしっとりした女房の人柄に似ない すばや 仕種 しぐさ の思掛けなさを、辻町は怪しまず、さもありそうな事と思ったのは、お京の娘だからであった。こんな場に出逢っては、きっとおなじはからいをするに疑いない。そのかわり、娘と違い、落着いたもので、澄まして羽織を脱ぎ、 背負揚 しょいあげ を棄て、悠然と帯を いわお に解いて、あらわな 長襦袢 ながじゅばん ばかりになって、小袖ぐるみ墓に着せたに違いない。

 何、夏なら、炎天なら何とする?……と。そういう皮肉な 読者 おかた には弱る、が、言わねば 卑怯 ひきょう らしい、 裸体 はだか になります、しからずんば、辻町が裸体にされよう。

 ――その墓へはまず詣でた――

  引返 ひっかえ して来たのであった。

 辻町の何よりも早くここでしよう心は、 立処 たちどころ に縄を切って棄てる事であった。瞬時といえども、人目に さら すに忍びない。 るとなれば手伝おう、お米の手を借りて解きほどきなどするのにも、二人の目さえ当てかねる。

 さしあたり、ことわりもしないで、他の労業を無にするという遠慮だが、その申訳と、 渠等 かれら を納得させる手段は、酒と餅で、そんなに煩わしい事はない。手で招いても渋面の しわ は伸びよう。また 厨裡 くり 心太 ところてん を突くような 跳梁権 ちょうりょうけん を獲得していた、 檀越 だんおつ 夫人の 嫡女 ちゃくじょ がここに居るのである。

 栗柿を く、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。

  大剪刀 おおばさみ が、あたかも 蝙蝠 こうもり の骨のように飛んでいた。

 取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、 きぬ を掛けたこのまま、 留南奇 とめき く、絵で見た 伏籠 ふせご を念じながら、もろ手を、ずかと袖裏へ。 驚破 すわ 、ほんのりと、暖い。 ぶん と薫った、石の肌の やわら かさ。

 思わず、

「あ。」

 と声を立てたのであった。

「――おばけの蜻蛉、おじさん。」

「――何そんなものの居よう筈はない。」

  胸傍 むなわき の小さな あざ 、この青い こけ 、そのお米の乳のあたりへ はさみ が響きそうだったからである。辻町は一礼し、墓に向って、 きっ といった。

「お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。」

 鋏は さわやか な音を立てた、ちちろも声せず、松風を切ったのである。

「やあ、 塗師屋 ぬしや 様、――ご 新姐 しんぞ 。」

 木戸から、寺男の 皺面 しわづら が、墓地下で口をあけて、もう わめ き、冷めし草履の れたもので、これは 磽※ こうかく

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たる みち は踏まない。草土手を踏んで横ざまに、 そば へ来た。

 続いて 日傭取 ひようとり が、おなじく木戸口へ、肩を組合って低く出た。

「ごめんなせえましよ、お客様。……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、 間違 まちげ えごともなかったの、何も、別条はなかっただね。」

「ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を 切払 きっぱら った。」

「はい、これは、はあ、いい事をさっせえて下さりました。」

「何だか、あべこべのような挨拶だな。」

「いんね、全くいい事をなさせえました。」

「いい事をなさいましたじゃないわ、おいたわしいじゃないの、女※

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さんがさ。」

「ご新姐、それがね、いや、この、からげ縄、畜生。」

 そこで、 かが んで、毛虫を 踏潰 ふみつぶ したような爪さきへ近く、切れて落ちた、むすびめの節立った荒縄を手繰棄てに 背後 うしろ 刎出 はねだ しながら、きょろきょろと樹の空を見廻した。

 妙なもので、下木戸の日傭取たちも、申合せたように、揃って、 かが んで、空を見る目が、皆動く。

「いい 塩梅 あんばい に、幽霊蜻蛉、消えただかな。」

「一体何だね、それは。」

「もの、それがでござりますよ、お客様、この、はい、石塔を動かすにつきましてだ。」

「いずれ、あの糸塚とかいうのについての事だろうが、何かね、掘返してお骨でも。」

「いや、それはなりましねえ。記念碑発起押っぽだての、帽子、靴、洋服、 はかま ひげ の生えた、ご連中さ、そのつもりであったれど、寺の和尚様、承知さっしゃりましねえだ。ものこれ、三十年 ったとこそいえ、若い 女※ じょうろう

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うま ってるだ。それに、久しい無縁墓だで、ことわりいう檀家もなしの、立合ってくれる人の見分もないで、と 一論判 ひとろっぱん あった上で、土には触らねえ事になったでがす。」

「そうあるべき処だよ。」

「ところで、はい、あのさ、 石彫 いしぼり でけ え糸枠の上へ、がっしりと、立派なお堂を据えて戸をあけたてしますだね、その中へこの……」

 お米は着流しのお太鼓で、まことに優に立っている。

「おお、成仏をさっしゃるずら、しおらしい、嫁菜の花のお羽織きて、霧は紫の雲のようだ、しなしなとしてや。」

 と、 こけ の生えたような手で でた。

「ああ、 くすぐ ったい。」

「何でがすい。」

 と、何も知らず、久助は墓の羽織を、もう一撫で。

「この石塔を いつ き込むもくろみだ。その堂がもう出来て、切組みも済ましたで、持込んで寸法をきっちり合わす段が、はい、ここはこの通り足場が悪いと、山門 うち まで運ぶについて、今日さ、この運び手間だよ。肩がわりの念入りで、 丸太棒 まるたんぼう かつ ぎ出しますに。――丸太棒めら、丸太棒を 押立 おった てて、ごろうじませい、あすこにとぐろを巻いていますだ。あのさきへ矢羽根をつけると、掘立普請の とき が出るだね。へい、墓場の入口だ、地獄の門番……はて、飛んでもねえ、肉親のご新姐ござらっしゃる。」

 と、泥でまぶしそうに、口の はた こぶし でおさえて、

「――そのさ、担ぎ出しますに、石の 直肌 じかはだ に縄を掛けるで、 わら なり むしろ なりの、花ものの草木を雪囲いにしますだね、あの骨法でなくば悪かんべいと、お客様の めえ だけんど、わし一応はいうたれども、丸太棒めら。あに、はい、墓さ 苞入 つといり に及ぶもんか、手間 ざい だ。また誰も見ていねえで、構いごとねえだ、と いての。

 和尚様は今日は留守なり、お 納所 なっしょ 、小僧も、 総斎 そうどき に出さしった。まず大事ねえでの。はい、ぐるぐるまきのがんじがらみ、や、このしょで、転がし出した。それさ、その かた でがすよ。わしさ 屈腰 かがみごし で、膝はだかって、 つら を突出す。 奴等 やつら 三方からかぶさりかかって、棒を突挿そうとしたと思わっせえまし。何と、この鼻の先、奴等の目の前へ、縄目へ浮いて、羽さ はじ いて、赤蜻蛉が二つ出た。

 たった今や、それまでというものは、四人八ツの、 団栗目 どんぐりまなこ に、 糠虫 ぬかむし 一疋入らなんだに、かけた縄さ下から くぐ って石から いて出たはどうしたもんだね。やあやあ、しっしっ、吹くやら、払いますやら、 じっ として赤蜻蛉が動かねえとなると、はい、時代違いで、何の気もねえ若い てやい も、さてこの働きに かか ってみれば、記念碑糸塚の因縁さ、よく聞いて知ってるもんだで。

 ほれ、のろのろとこっちさ寄って来るだ。あの、さきへ立って、丸太棒をついた、その 手拭 てぬぐい をだらりと首へかけた、 たくまし い男でがす。奴が、女※

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の幽霊でねえか。出たッと、また ひげ どのが叫ぶと、蜻蛉がひらりと動くと、かっと二つ、 きゅう のような炎が立つ。冷い火を汗に浴びると、うら山おろしの風さ 真黒 まっくろ に、どっと来た、煙の中を、目が くら んで げたでござえますでの。………

 それでがすもの、ご新姐、お客様。」

「それじゃ、私たち差出た事は、 叱言 こごと なしに済むんだね。」

「ほってもねえ、いい 人扶 ひとだす けして下せえましたよ。時に、はい、和尚様帰って、逢わっせえても、万々沙汰なしに頼みますだ。」

 そこへ、丸太棒が、のっそり来た。

「おじい、もういいか、大丈夫かよ。」

「うむ、見せえ、大智識さ五十年の 香染 こうぞめ 袈裟 けさ より利益があっての、その、嫁菜の 縮緬 ちりめん なか で、幽霊はもう消滅だ。」

「幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉に たた られると、 おこり を病むというから 可恐 おっかね えです。縄をかけたら、また祟って出やしねえかな。」

 と不精髯の布子が、ぶつぶついった。

「そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女※

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様、 くく ったお祟りだ、これ、敷松葉の 数寄屋 すきや の庭の牡丹に雪囲いをすると思えさ。」

「よし、おれが行く。」

 と、冬の 麦稈帽 むぎわらぼう が出ようとする。

「ああ、ちょっと。」

 袖を開いて、お米が留めて、

「そのまま、その上からお いわ えなさいな。」

 不精髯が――どこか昔の提灯屋に似ていたが、

「このままでかね、 勿体 もってい 至極もねえ。」

「かまいませんわ。」

「構わねえたって、これ、縛るとなると。」

「うつくしいお方が、見てる前で、むざとなあ。」

  麦藁 むぎわら と、不精髯が目を見合って、半ば つぶや くがごとくにいう。

「いいんですよ、構いませんから。」

 この時、丸太棒が鉄のように見えた。ぶるぶると腕に力の みなぎ った たくま しいのが、

「よし、石も 婉軟 やんわり だろう。きれいなご新姐を抱くと思え。」

 というままに、 くび の手拭が 真額 まっこう でピンと ると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖の しな うを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が かか り勝手がいいらしい。 巌路 いわみち へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に 動揺 いぶり れて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りて く。

「えらいぞ、権太、怪我をするな。」

 と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。

「俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。」

 と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。

頓生菩提 とんしょうぼだい 。……小川へ流すか、燃しますべい。」

 そういって久助が、掻き集めた縄の くず を、一束ねに握って腰を もた げた時は、三人はもう木戸を出て見えなかったのである。

「久……爺や、爺やさん、羽織はね。式台へほうり込んで置いて いんですよ。」

 この羽織が、黒塗の華頭窓に かか っていて、その窓際の机に向って、お米は ほっそ りと坐っていた。冬の日は 釣瓶 つるべ おとしというより、 こずえ 熟柿 じゅくし つぶて に打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。

 こんなにも、清らかなものかと思う、お米の えり 差覗 さしのぞ くようにしながら、盆に渋茶は出したが、火を置かぬ火鉢越しにかの机の上の提灯を た。

(――この、提灯が出ないと、ご迷惑でも話が済まない――)

 信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を かたわら に、 硯箱 すずりばこ を控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。

「――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を くわ えたのを是非頼む。塗師屋さんの内儀でも、女学校の出じゃないか。絵というと面倒だから図画で行くのさ。 べに を引いて、二つならべれば、羽子の羽でもいい。 胡蘿蔔 にんじん を繊に松葉をさしても、形は似ます。指で挟んだ唐辛子でも構わない。――」

 と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、 そその かして口説いた。 北辰妙見菩薩 ほくしんみょうけんぼさつ を拝んで、客殿へ 退 であったが。

 水をたっぷりと して、ちょっと口で吸って、 つぼみ の唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、 あつら えたようである。

「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」

「知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。」

「失礼。」

 と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言を びつつ、準藤原女史に介添してお掛け申す……羽織を取入れたが、窓あかりに、

「これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。」

 と、持ったのに、それにお米が手を添えて、

「着ますわ。」

「きられるかい、墓のを、そのまま。」

「おかわいそうな方のですもの、これ、 荵摺 しのぶずり ですよ。」

 その優しさに、思わず胸がときめいて。

「肩をこっちへ。」

「まあ、おじさん。」

「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに 仔細 しさい ない。」

「はい、……どうぞ。」

 くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。

「私、こいしい、おっかさん。」

  前刻 さっき から――辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある――ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、 ひそか に悪心の きざ したのが、この時、色も、 よく も何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。

「へい。お待遠でござりました。」

 片手に 蝋燭 ろうそく を、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが 庫裏 くり から出た。

「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を くわ えるといいますから。」

 お米も、式台へもうかかった。

「へい、もう、刻限で、 危気 あぶなげ はござりましねえ、 嘴太烏 ふと も、 嘴細烏 ほそ も、千羽ヶ淵の森へ んで寝ました。」

 大城下は、目の下に、町の は、柳にともれ、川に流るる。 いしだん を下へ、谷の暗いように下りた。場末の五 しょく はまだ来ない。

 あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、

「あれ、蜻蛉が。」

 お米が膝をついて、手を合せた。

 あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉が そっ と動いて、女の影が……二人見えた。

昭和十四(一九三九)年七月