縷紅新草
泉鏡花 (Ruko shinso) | ||
五
「おばけの……蜻蛉?……おじさん。」
「何、そんなものの居よう 筈 ( はず ) はない。」
とさも落着いたらしく、声を沈めた。その癖、たった今、思わず、「あ!」といったのは誰だろう。
いま辻町は、 蒼然 ( そうぜん ) として 苔蒸 ( こけむ ) した一基の石碑を片手で抱いて――いや、抱くなどというのは 憚 ( はば ) かろう――霜より冷くっても、千五百石の 女※ ( じょうろう )
の、石の 躯 ( むくろ ) ともいうべきものに手を添えているのである。ただし、その上に、沈んだ藤色のお米の羽織が袖をすんなりと墓のなりにかかった、が、織だか、地紋だか、影絵のように細い柳の葉に、菊らしいのを薄色に染出したのが、白い山土に敷乱れた、枯草の中に咲残った、 一叢 ( ひとむら ) の嫁菜の花と、 入交 ( いりま ) ぜに、空を蔽うた雑樹を 洩 ( も ) れる日光に、幻の影を 籠 ( こ ) めた、墓はさながら、 梢 ( こずえ ) を落ちた、うらがなしい綺麗な 錦紗 ( きんしゃ ) の燈籠の、うつむき伏した風情がある。ここは、 切立 ( きったて ) というほどではないが、 巌組 ( いわぐ ) みの 径 ( みち ) が 嶮 ( けわ ) しく、砕いた 薬研 ( やげん ) の底を 上 ( あが ) る、 涸 ( か ) れた滝の 痕 ( あと ) に似て、草土手の小高い処で、 ※々 ( るいるい )
と墓が並び、傾き、また倒れたのがある。上り切った卵塔の一劃、高い処に、裏山の峯を 抽 ( ぬ ) いて繁ったのが、例の高燈籠の大榎で、巌を縫って 蟠 ( わだかま ) った根に寄って、先祖代々とともに、お米のお 母 ( っか ) さんが、ぱっと目を開きそうに眠っている。そこも蔭で、薄暗い。
それ、持参の昼提灯、土の下からさぞ、半間だと 罵倒 ( ばとう ) しようが、白く 据 ( すわ ) って、ぼっと包んだ線香の煙が 靡 ( なび ) いて、裸 蝋燭 ( ろうそく ) の灯が、静寂な風に、ちらちらする。
榎を 潜 ( くぐ ) った 彼方 ( かなた ) の崖は、すぐに、大傾斜の窪地になって、山の 裙 ( すそ ) まで、寺の裏庭を取りまわして 一谷 ( ひとたに ) 一面の卵塔である。
初路の墓は、お京のと相向って、やや斜下、左の草土手の処にあった。
見たまえ――お米が 外套 ( がいとう ) を折畳みにして袖に取って、 背後 ( うしろ ) に立添った、 前踞 ( まえこご ) みに、辻町は手をその石碑にかけた羽織の、裏の 媚 ( なまめ ) かしい中へ、さし入れた。手首に冴えて 淡藍 ( うすあい ) が映える。片手には、頑丈な、 錆 ( さび ) の出た、 木鋏 ( きばさみ ) を構えている。
この 大剪刀 ( おおばさみ ) が、もし空の樹の枝へでも 引掛 ( ひっかか ) っていたのだと、うっかり手にはしなかったろう。孟蘭盆の夜が更けて、燈籠が消えた時のように、羽織で包んだ初路の墓は、あわれにうつくしく、且つあたりを籠めて、陰々として、鬼気が 籠 ( こも ) るのであったから。
鋏は落ちていた。これは、寺男の爺やまじりに、三人の 日傭取 ( ひようとり ) が、ものに驚き、泡を食って、 遁出 ( にげだ ) すのに、投出したものであった。
その次第はこうである。
はじめ二人は、 磴 ( いしだん ) から、山門を入ると、広い山内、鐘楼なし。松を控えた墓地の入口の、 鎖 ( とざ ) さない木戸に近く、八分出来という石の塚を 視 ( み ) た。台石に特に意匠はない、つい通りの巌組一丈余りの上に、 誂 ( あつら ) えの枠を置いた。が、あの、くるくると糸を廻す棒は見えぬ。くり抜いた跡はあるから、これには何か考案があるらしい。お米もそれはまだ知らなかった。枠の四つの 柄 ( え ) は、その半面に対しても 幸 ( さいわい ) に 鼎 ( かなえ ) に似ない。鼎に似ると、 烹 ( に ) るも 烙 ( や ) くも、いずれ 繊楚 ( かよわ ) い人のために見る目も忍びないであろう処を、あたかも 好 ( よし ) 、玉を捧ぐる 白珊瑚 ( しろさんご ) の 滑 ( なめら ) かなる枝に見えた。
「かえりに、ゆっくり拝見しよう。」
その母親の展墓である。自分からは急がすのをためらった案内者が、
「道が悪いんですから、気をつけてね。」
わあ、わっ、わっ、わっ、おう、ふうと、鼻 呼吸 ( いき ) を吹いた 面 ( つら ) を並べ、手を挙げ、胸を 敲 ( たた ) き、 拳 ( こぶし ) を振りなど、なだれを打ち、足ただらを踏んで、 一時 ( ひといき ) に四人、 摺違 ( すれちが ) いに木戸口へ、茶色になって 湧 ( わ ) いて出た。
その声も 跫音 ( あしおと ) も、響くと、もろともに、落ちかかったばかりである。
不意に 打 ( ぶ ) つかりそうなのを、軽く身を抜いて路を避けた、お米の顔に、鼻をまともに突向けた、 先頭 ( さきて ) 第一番の 爺 ( じじい ) が、 面 ( つら ) も、 脛 ( すね ) も、一縮みの 皺 ( しわ ) の中から、ニンガリと変に笑ったと思うと、
「出ただええ、幽霊だあ。」
幽霊。
「おッさん、蛇、 蝮 ( まむし ) ?」
お米は――幽霊と聞いたのに――ちょっと眉を 顰 ( ひそ ) めて、蛇、蝮を 憂慮 ( きづか ) った。
「そんげえなもんじゃねえだア。」
いかにも、そんげえなものには 怯 ( おび ) えまい、面魂、 印半纏 ( しるしばんてん ) も交って、布子のどんつく、 半股引 ( はんももひき ) 、 空脛 ( からずね ) が入乱れ、 屈竟 ( くっきょう ) な日傭取が、早く、糸塚の前を摺抜けて、松の下に、ごしゃごしゃとかたまった中から、寺爺やの白い眉の、びくびくと動くが見えて、
「蜻蛉だあ。」
「幽霊蜻蛉ですだアい。」
と、冬の 麦稈帽 ( むぎわらぼう ) を 被 ( かぶ ) った、若いのが声を掛けた。
「蜻蛉なら、幽霊だって。」
お米は、 莞爾 ( にっこり ) して坂上りに、 衣紋 ( えもん ) のやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。
巌 ( いわ ) は鋭い。踏上る 径 ( みち ) は 嶮 ( けわ ) しい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。
「何だい、今のは、あれは。」
「久助って、寺爺やです。卵塔場で働いていて、休みのお茶のついでに、私をからかったんでしょう。子供だと思っている。おじさんがいらっしゃるのに、見さかいがない。馬鹿だよ。」
「若いお前さんと、一緒にからかわれたのは嬉しいがね、 威 ( おど ) かすにしても、寺で幽霊をいう奴があるものか。それも蜻蛉の幽霊。」
「蛇や、蝮でさえなければ、 蜥蜴 ( とかげ ) が化けたって、そんなに 可恐 ( こわ ) いもんですか。」
「居るかい。」
「時々。」
「居るだろうな。」
「でも、この時節。」
「よし、私だって驚かない。しかし、何だろう、ああ、そうか。おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような 真黒 ( まっくろ ) な羽のひらひらする、 繊 ( ほそ ) く青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。」
「黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの 爺 ( じじ ) い。」
その時であった。
「ああ。」
と、お米が声を立てると、
「 酷 ( ひど ) いこと、墓を。」
といった。声とともに、着た羽織をすっと脱いだ、が、紐をどう解いたか、袖をどう、手の菊へ通したか、それは知らない。花野を 颯 ( さっ ) と 靡 ( なび ) かした、一筋の風が藤色に通るように、早く、その墓を包んだ。
向う傾けに草へ倒して、ぐるぐる巻というよりは、がんじ 搦 ( がら ) みに、ひしと荒縄の汚いのを、無残にも。
「初路さんを、――初路さんを。」
これが女※
の碑だったのである。「 茣蓙 ( ござ ) にも、 蓆 ( むしろ ) にも包まないで、まるで裸にして。」
と 気色 ( けしき ) ばみつつ、且つ恥じたように 耳朶 ( みみたぶ ) を紅くした。
いうまじき事かも知れぬが、辻町の目にも 咄嵯 ( とっさ ) に印したのは同じである。台石から取って 覆 ( か ) えした、持扱いの荒くれた 爪摺 ( つまず ) れであろう、青々と苔の蒸したのが、ところどころ ※ ( むし )
られて、日の 隈 ( くま ) 幽 ( かすか ) に、石肌の浮いた影を膨らませ、影をまた凹ませて、残酷に 搦 ( から ) めた、さながら白身の 窶 ( やつ ) れた女を、反接 緊縛 ( きんばく ) したに異ならぬ。推察に 難 ( かた ) くない。いずれかの都合で、新しい糸塚のために、ここの位置を動かして持運ぼうとしたらしい。
が、心ない仕業をどうする。――お米の羽織に、そうして、墓の姿を隠して 好 ( よ ) かった。花やかともいえよう、ものに激した 挙動 ( ふるまい ) の、このしっとりした女房の人柄に似ない 捷 ( すばや ) い 仕種 ( しぐさ ) の思掛けなさを、辻町は怪しまず、さもありそうな事と思ったのは、お京の娘だからであった。こんな場に出逢っては、きっとおなじはからいをするに疑いない。そのかわり、娘と違い、落着いたもので、澄まして羽織を脱ぎ、 背負揚 ( しょいあげ ) を棄て、悠然と帯を 巌 ( いわお ) に解いて、あらわな 長襦袢 ( ながじゅばん ) ばかりになって、小袖ぐるみ墓に着せたに違いない。
何、夏なら、炎天なら何とする?……と。そういう皮肉な 読者 ( おかた ) には弱る、が、言わねば 卑怯 ( ひきょう ) らしい、 裸体 ( はだか ) になります、しからずんば、辻町が裸体にされよう。
――その墓へはまず詣でた――
引返 ( ひっかえ ) して来たのであった。
辻町の何よりも早くここでしよう心は、 立処 ( たちどころ ) に縄を切って棄てる事であった。瞬時といえども、人目に 曝 ( さら ) すに忍びない。 行 ( や ) るとなれば手伝おう、お米の手を借りて解きほどきなどするのにも、二人の目さえ当てかねる。
さしあたり、ことわりもしないで、他の労業を無にするという遠慮だが、その申訳と、 渠等 ( かれら ) を納得させる手段は、酒と餅で、そんなに煩わしい事はない。手で招いても渋面の 皺 ( しわ ) は伸びよう。また 厨裡 ( くり ) で 心太 ( ところてん ) を突くような 跳梁権 ( ちょうりょうけん ) を獲得していた、 檀越 ( だんおつ ) 夫人の 嫡女 ( ちゃくじょ ) がここに居るのである。
栗柿を 剥 ( む ) く、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。
大剪刀 ( おおばさみ ) が、あたかも 蝙蝠 ( こうもり ) の骨のように飛んでいた。
取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、 衣 ( きぬ ) を掛けたこのまま、 留南奇 ( とめき ) を 燻 ( た ) く、絵で見た 伏籠 ( ふせご ) を念じながら、もろ手を、ずかと袖裏へ。 驚破 ( すわ ) 、ほんのりと、暖い。 芬 ( ぶん ) と薫った、石の肌の 軟 ( やわら ) かさ。
思わず、
「あ。」
と声を立てたのであった。
「――おばけの蜻蛉、おじさん。」
「――何そんなものの居よう筈はない。」
胸傍 ( むなわき ) の小さな 痣 ( あざ ) 、この青い 蘚 ( こけ ) 、そのお米の乳のあたりへ 鋏 ( はさみ ) が響きそうだったからである。辻町は一礼し、墓に向って、 屹 ( きっ ) といった。
「お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。」
鋏は 爽 ( さわやか ) な音を立てた、ちちろも声せず、松風を切ったのである。
「やあ、 塗師屋 ( ぬしや ) 様、――ご 新姐 ( しんぞ ) 。」
木戸から、寺男の 皺面 ( しわづら ) が、墓地下で口をあけて、もう 喚 ( わめ ) き、冷めし草履の 馴 ( な ) れたもので、これは 磽※ ( こうかく )
たる 径 ( みち ) は踏まない。草土手を踏んで横ざまに、 傍 ( そば ) へ来た。続いて 日傭取 ( ひようとり ) が、おなじく木戸口へ、肩を組合って低く出た。
「ごめんなせえましよ、お客様。……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、 間違 ( まちげ ) えごともなかったの、何も、別条はなかっただね。」
「ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を 切払 ( きっぱら ) った。」
「はい、これは、はあ、いい事をさっせえて下さりました。」
「何だか、あべこべのような挨拶だな。」
「いんね、全くいい事をなさせえました。」
「いい事をなさいましたじゃないわ、おいたわしいじゃないの、女※
さんがさ。」「ご新姐、それがね、いや、この、からげ縄、畜生。」
そこで、 踞 ( かが ) んで、毛虫を 踏潰 ( ふみつぶ ) したような爪さきへ近く、切れて落ちた、むすびめの節立った荒縄を手繰棄てに 背後 ( うしろ ) へ 刎出 ( はねだ ) しながら、きょろきょろと樹の空を見廻した。
妙なもので、下木戸の日傭取たちも、申合せたように、揃って、 踞 ( かが ) んで、空を見る目が、皆動く。
「いい 塩梅 ( あんばい ) に、幽霊蜻蛉、消えただかな。」
「一体何だね、それは。」
「もの、それがでござりますよ、お客様、この、はい、石塔を動かすにつきましてだ。」
「いずれ、あの糸塚とかいうのについての事だろうが、何かね、掘返してお骨でも。」
「いや、それはなりましねえ。記念碑発起押っぽだての、帽子、靴、洋服、 袴 ( はかま ) 、 髯 ( ひげ ) の生えた、ご連中さ、そのつもりであったれど、寺の和尚様、承知さっしゃりましねえだ。ものこれ、三十年 経 ( た ) ったとこそいえ、若い 女※ ( じょうろう )
が 埋 ( うま ) ってるだ。それに、久しい無縁墓だで、ことわりいう檀家もなしの、立合ってくれる人の見分もないで、と 一論判 ( ひとろっぱん ) あった上で、土には触らねえ事になったでがす。」「そうあるべき処だよ。」
「ところで、はい、あのさ、 石彫 ( いしぼり ) の 大 ( でけ ) え糸枠の上へ、がっしりと、立派なお堂を据えて戸をあけたてしますだね、その中へこの……」
お米は着流しのお太鼓で、まことに優に立っている。
「おお、成仏をさっしゃるずら、しおらしい、嫁菜の花のお羽織きて、霧は紫の雲のようだ、しなしなとしてや。」
と、 苔 ( こけ ) の生えたような手で 撫 ( な ) でた。
「ああ、 擽 ( くすぐ ) ったい。」
「何でがすい。」
と、何も知らず、久助は墓の羽織を、もう一撫で。
「この石塔を 斎 ( いつ ) き込むもくろみだ。その堂がもう出来て、切組みも済ましたで、持込んで寸法をきっちり合わす段が、はい、ここはこの通り足場が悪いと、山門 内 ( うち ) まで運ぶについて、今日さ、この運び手間だよ。肩がわりの念入りで、 丸太棒 ( まるたんぼう ) で 担 ( かつ ) ぎ出しますに。――丸太棒めら、丸太棒を 押立 ( おった ) てて、ごろうじませい、あすこにとぐろを巻いていますだ。あのさきへ矢羽根をつけると、掘立普請の 斎 ( とき ) が出るだね。へい、墓場の入口だ、地獄の門番……はて、飛んでもねえ、肉親のご新姐ござらっしゃる。」
と、泥でまぶしそうに、口の 端 ( はた ) を 拳 ( こぶし ) でおさえて、
「――そのさ、担ぎ出しますに、石の 直肌 ( じかはだ ) に縄を掛けるで、 藁 ( わら ) なり 蓆 ( むしろ ) なりの、花ものの草木を雪囲いにしますだね、あの骨法でなくば悪かんべいと、お客様の 前 ( めえ ) だけんど、わし一応はいうたれども、丸太棒めら。あに、はい、墓さ 苞入 ( つといり ) に及ぶもんか、手間 障 ( ざい ) だ。また誰も見ていねえで、構いごとねえだ、と 吐 ( こ ) いての。
和尚様は今日は留守なり、お 納所 ( なっしょ ) 、小僧も、 総斎 ( そうどき ) に出さしった。まず大事ねえでの。はい、ぐるぐるまきのがんじがらみ、や、このしょで、転がし出した。それさ、その 形 ( かた ) でがすよ。わしさ 屈腰 ( かがみごし ) で、膝はだかって、 面 ( つら ) を突出す。 奴等 ( やつら ) 三方からかぶさりかかって、棒を突挿そうとしたと思わっせえまし。何と、この鼻の先、奴等の目の前へ、縄目へ浮いて、羽さ 弾 ( はじ ) いて、赤蜻蛉が二つ出た。
たった今や、それまでというものは、四人八ツの、 団栗目 ( どんぐりまなこ ) に、 糠虫 ( ぬかむし ) 一疋入らなんだに、かけた縄さ下から 潜 ( くぐ ) って石から 湧 ( わ ) いて出たはどうしたもんだね。やあやあ、しっしっ、吹くやら、払いますやら、 静 ( じっ ) として赤蜻蛉が動かねえとなると、はい、時代違いで、何の気もねえ若い 徒 ( てやい ) も、さてこの働きに 掛 ( かか ) ってみれば、記念碑糸塚の因縁さ、よく聞いて知ってるもんだで。
ほれ、のろのろとこっちさ寄って来るだ。あの、さきへ立って、丸太棒をついた、その 手拭 ( てぬぐい ) をだらりと首へかけた、 逞 ( たくまし ) い男でがす。奴が、女※
の幽霊でねえか。出たッと、また 髯 ( ひげ ) どのが叫ぶと、蜻蛉がひらりと動くと、かっと二つ、 灸 ( きゅう ) のような炎が立つ。冷い火を汗に浴びると、うら山おろしの風さ 真黒 ( まっくろ ) に、どっと来た、煙の中を、目が 眩 ( くら ) んで 遁 ( に ) げたでござえますでの。………それでがすもの、ご新姐、お客様。」
「それじゃ、私たち差出た事は、 叱言 ( こごと ) なしに済むんだね。」
「ほってもねえ、いい 人扶 ( ひとだす ) けして下せえましたよ。時に、はい、和尚様帰って、逢わっせえても、万々沙汰なしに頼みますだ。」
そこへ、丸太棒が、のっそり来た。
「おじい、もういいか、大丈夫かよ。」
「うむ、見せえ、大智識さ五十年の 香染 ( こうぞめ ) の 袈裟 ( けさ ) より利益があっての、その、嫁菜の 縮緬 ( ちりめん ) の 裡 ( なか ) で、幽霊はもう消滅だ。」
「幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉に 祟 ( たた ) られると、 瘧 ( おこり ) を病むというから 可恐 ( おっかね ) えです。縄をかけたら、また祟って出やしねえかな。」
と不精髯の布子が、ぶつぶついった。
「そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女※
様、 素 ( す ) で 括 ( くく ) ったお祟りだ、これ、敷松葉の 数寄屋 ( すきや ) の庭の牡丹に雪囲いをすると思えさ。」「よし、おれが行く。」
と、冬の 麦稈帽 ( むぎわらぼう ) が出ようとする。
「ああ、ちょっと。」
袖を開いて、お米が留めて、
「そのまま、その上からお 結 ( いわ ) えなさいな。」
不精髯が――どこか昔の提灯屋に似ていたが、
「このままでかね、 勿体 ( もってい ) 至極もねえ。」
「かまいませんわ。」
「構わねえたって、これ、縛るとなると。」
「うつくしいお方が、見てる前で、むざとなあ。」
麦藁 ( むぎわら ) と、不精髯が目を見合って、半ば 呟 ( つぶや ) くがごとくにいう。
「いいんですよ、構いませんから。」
この時、丸太棒が鉄のように見えた。ぶるぶると腕に力の 漲 ( みなぎ ) った 逞 ( たくま ) しいのが、
「よし、石も 婉軟 ( やんわり ) だろう。きれいなご新姐を抱くと思え。」
というままに、 頸 ( くび ) の手拭が 真額 ( まっこう ) でピンと 反 ( そ ) ると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖の 撓 ( しな ) うを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が 掛 ( かか ) り勝手がいいらしい。 巌路 ( いわみち ) へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に 動揺 ( いぶり ) を 加 ( く ) れて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りて 行 ( ゆ ) く。
「えらいぞ、権太、怪我をするな。」
と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。
「俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。」
と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。
「 頓生菩提 ( とんしょうぼだい ) 。……小川へ流すか、燃しますべい。」
そういって久助が、掻き集めた縄の 屑 ( くず ) を、一束ねに握って腰を 擡 ( もた ) げた時は、三人はもう木戸を出て見えなかったのである。
「久……爺や、爺やさん、羽織はね。式台へほうり込んで置いて 可 ( い ) いんですよ。」
この羽織が、黒塗の華頭窓に 掛 ( かか ) っていて、その窓際の机に向って、お米は 細 ( ほっそ ) りと坐っていた。冬の日は 釣瓶 ( つるべ ) おとしというより、 梢 ( こずえ ) の 熟柿 ( じゅくし ) を 礫 ( つぶて ) に打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。
こんなにも、清らかなものかと思う、お米の 頸 ( えり ) を 差覗 ( さしのぞ ) くようにしながら、盆に渋茶は出したが、火を置かぬ火鉢越しにかの机の上の提灯を 視 ( み ) た。
(――この、提灯が出ないと、ご迷惑でも話が済まない――)
信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を 傍 ( かたわら ) に、 硯箱 ( すずりばこ ) を控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。
「――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を 銜 ( くわ ) えたのを是非頼む。塗師屋さんの内儀でも、女学校の出じゃないか。絵というと面倒だから図画で行くのさ。 紅 ( べに ) を引いて、二つならべれば、羽子の羽でもいい。 胡蘿蔔 ( にんじん ) を繊に松葉をさしても、形は似ます。指で挟んだ唐辛子でも構わない。――」
と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、 唆 ( そその ) かして口説いた。 北辰妙見菩薩 ( ほくしんみょうけんぼさつ ) を拝んで、客殿へ 退 ( ひ ) く 間 ( ま ) であったが。
水をたっぷりと 注 ( さ ) して、ちょっと口で吸って、 莟 ( つぼみ ) の唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、 誂 ( あつら ) えたようである。
「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」
「知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。」
「失礼。」
と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言を 詫 ( わ ) びつつ、準藤原女史に介添してお掛け申す……羽織を取入れたが、窓あかりに、
「これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。」
と、持ったのに、それにお米が手を添えて、
「着ますわ。」
「きられるかい、墓のを、そのまま。」
「おかわいそうな方のですもの、これ、 荵摺 ( しのぶずり ) ですよ。」
その優しさに、思わず胸がときめいて。
「肩をこっちへ。」
「まあ、おじさん。」
「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに 仔細 ( しさい ) ない。」
「はい、……どうぞ。」
くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。
「私、こいしい、おっかさん。」
前刻 ( さっき ) から――辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある――ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、 潜 ( ひそか ) に悪心の 萌 ( きざ ) したのが、この時、色も、 慾 ( よく ) も何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。
「へい。お待遠でござりました。」
片手に 蝋燭 ( ろうそく ) を、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが 庫裏 ( くり ) から出た。
「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を 銜 ( くわ ) えるといいますから。」
お米も、式台へもうかかった。
「へい、もう、刻限で、 危気 ( あぶなげ ) はござりましねえ、 嘴太烏 ( ふと ) も、 嘴細烏 ( ほそ ) も、千羽ヶ淵の森へ 行 ( い ) んで寝ました。」
大城下は、目の下に、町の 燈 ( ひ ) は、柳にともれ、川に流るる。 磴 ( いしだん ) を下へ、谷の暗いように下りた。場末の五 燈 ( しょく ) はまだ来ない。
あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、
「あれ、蜻蛉が。」
お米が膝をついて、手を合せた。
あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉が 静 ( そっ ) と動いて、女の影が……二人見えた。
縷紅新草
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