縷紅新草
泉鏡花 (Ruko shinso) | ||
三
その時、 外套 ( がいとう ) の袖にコトンと動いた、石の上の 提灯 ( ちょうちん ) の 面 ( つら ) は、またおかしい。いや、おかしくない、大空の雲を淡く 透 ( すか ) して 蒼白 ( あおじろ ) い。
「……さて、これだが、手向けるとか、供えるとか、お米坊のいう――誰かさんは――」
「ええ、そうなの。」
と、小菊と坊さん花をちょっと囲って、お米は 静 ( しずか ) に 頷 ( うなず ) いた。
「その 嬰児 ( あかんぼ ) が、 串戯 ( じょうだん ) にも、心中の仕損いなどという。――いずれ、あの、いけずな御母堂から、いつかその前後の事を聞かされて、それで知っているんだね。
不思議な、怪しい、縁だなあ。――花あかりに、消えて行った可哀相な人の墓はいかにも、この燈籠寺にあるんだよ。
若気のいたり。……」
辻町は、額をおさえて、提灯に 俯向 ( うつむ ) いて、
「何と思ったか、東京へ――出発間際、人目を忍んで……というと悪く色気があります。何、こそこそと、鼠あるきに、 行燈形 ( あんどんなり ) の 小 ( ちいさ ) な 切籠燈 ( きりこ ) の、 就中 ( なかんずく ) 、安価なのを 一枚 ( ひとつ ) 細腕で引いて、 梯子段 ( はしごだん ) の片暗がりを忍ぶように、この 磴 ( いしだん ) を隅の方から 上 ( あが ) って来た。胸も、息も、どきどきしながら。
ゆかただか、 羅 ( うすもの ) だか、 女郎花 ( おみなえし ) 、 桔梗 ( ききょう ) 、萩、それとも 薄 ( すすき ) か、 淡彩色 ( うすざいしき ) の燈籠より、美しく寂しかろう、白露に 雫 ( しずく ) をしそうな、その 女 ( ひと ) の姿に供える気です。
中段さ、ちょうど今居る。
しかるに、どうだい。お米坊は 洒落 ( しゃれ ) にも私を、薄情だというけれど、人間の薄情より三十年の月日は情がない。この提灯でいうのじゃないが、燈台下暗しで、とぼんとして気がつかなかった。申訳より、 面目 ( めんぼく ) がないくらいだ。
――すまして 饒舌 ( しゃべ ) って 可 ( い ) いか知らん、その時は、このもみじが、青葉で 真黒 ( まっくろ ) だった下へ来て、上へ墓地を見ると、向うの峯をぼッと、霧にして、木曾のははき木だね、ここじゃ、見えない。が、有名な高燈籠が 榎 ( えのき ) の 梢 ( こずえ ) に 灯 ( とも ) れている……葉と葉をくぐって、 燈 ( ひ ) の影が露を誘って、ちらちらと樹を伝うのが、長くかかって、幻の藤の総を、すっと 靡 ( なび ) かしたように仰がれる。絵の模様は見えないが、まるで、その高燈籠の宙の袖を、その人の姿のように思って、うっかりとして立った。
――ああ、呆れた――
目の前に、白いものと思ったっけ、山門を 真下 ( まっさが ) りに、 藍 ( あい ) がかった浴衣に、昼夜帯の婦人が、
――身投げに逢いに来ましたね――
言う事も言う事さ、誰だと思います。御母堂さ。それなら、言いそうな事だろう。いきなり、がんと 撲 ( くら ) わされたから、おじさんの小僧、目をまるくして 胆 ( きも ) を 潰 ( つぶ ) した。そうだろう、当の御親類の墓地へ、といっては、ついぞ、つけとどけ、盆のお義理なんぞに出向いた事のない 奴 ( やつ ) が、」
辻町は提灯を押えながら、
「酒買い狸が 途惑 ( とまどい ) をしたように、燈籠をぶら下げて立っているんだ。
いう事が 捷早 ( すばや ) いよ、お京さん、そう、のっけにやられたんじゃ、事実、親類へ供えに来たものにした処で、そうとはいえない。
――初路さんのお墓は――
いかにも、若い、優しい、が、何だか、弱々とした、身を投げた女の名だけは、いつか聞いていた。
――お墓の場所は知っていますか――
知るもんですか。お京さんが、崖で夜露に 辷 ( すべ ) る処へ、石ころ道が 切立 ( きった ) てで危いから、そんなにとぼついているんじゃ怪我をする。お寺へ預けて、昼間あらためて、お参りを、そうなさい、という。こっちはだね。 日中 ( ひなか ) のこのこ出られますか。何、志はそれで済むからこの石の上へ置いたなり帰ろうと、降参に及ぶとね、犬猫が踏んでも、きれいなお 精霊 ( しょうりょう ) が身震いをするだろう。――とにかく、お寺まで、と云って、お京さん、今度は 片褄 ( かたづま ) をきりりと 端折 ( はしょ ) った。
こっちもその要心から、わざと夜になって出掛けたのに、今頃まで、何をしていたろう。(遊んでいた。世の中の 煩 ( うる ) ささがなくて寺は涼しい。裏縁に引いた山清水に…… 西瓜 ( すいか ) は 驕 ( おご ) りだ、和尚さん、小僧には 内証 ( ないしょ ) らしく冷して置いた、 紫陽花 ( あじさい ) の影の映る、青い 心太 ( ところてん ) をつるつる突出して、 芥子 ( からし ) を利かして、冷い涙を流しながら、見た処三百ばかりの墓燈籠と、草葉の影に九十九ばかり、お精霊の幻を見て涼んでいた、その中に初路さんの姿も。)と、お京さん、 好 ( すき ) なお転婆をいって、山門を入った 勢 ( いきおい ) だからね。……その勢だから……向った本堂の横式台、あの高い処に、 晩出 ( おそで ) の 参詣 ( さんけい ) を待って、お 納所 ( なっしょ ) が、盆礼、お返しのしるしと、紅白の麻糸を三宝に積んで、小机を控えた前へ。どうです、私が 引込 ( ひっこ ) むもんだから、お京さん、引取った 切籠燈 ( きりこ ) をツイと出すと、
――この春、身を投げた、お嬢さんに。……心中を仕損った、この人の、こころざし――
私は門まで 遁出 ( にげだ ) したよ。あとをカタカタと追って返して、
――それ、紅い糸を持って来た。縁結びに――白いのが 好 ( よ ) かったかしら、……あいては幻……
と頬をかすられて、私はこの中段まで転げ落ちた。ちと 大袈裟 ( おおげさ ) だがね、遠くの暗い海の上で、稲妻がしていたよ。その夜、途中からえらい降りで。」……
……………………
……………………
辻町は夕立を 懐 ( おも ) うごとく、しばらく息を沈めたが、やがて、ちょっと語調をかえて云った。
「お米坊、そんな、こんな、お母さんに聞いていたのかね。」
「ええ、お嫁に行ってから、あと……」
「そうだろうな、あの気象でも、 極 ( きま ) りどころは 整然 ( ちゃん ) としている。嫁入前の若い娘に、余り聞かせる事じゃないから。
――さて、問題の提灯だ。成程、その人に、 切籠燈 ( きりこ ) のかわりに供えると、思ったのはもっともだ。が、そんな、実は、しおらしいとか、心入れ、とかいう奇特なんじゃなかったよ。 懺悔 ( ざんげ ) をするがね、実は我ながら、とぼけていて、ひとりでおかしいくらいなんだよ。月夜に提灯が 贅沢 ( ぜいたく ) なら、 真昼間 ( まっぴるま ) ぶらで提げたのは、何だろう、 余程 ( よっぽど ) 半間さ。
というのがね、 先刻 ( さっき ) お前さんは、 連 ( つれ ) にはぐれた観光団が、鼻の下を伸ばして、うっかり見物している間抜けに附合う気で、黙ってついていてくれたけれど、来がけに坂下の小路 中 ( なか ) で、あの提灯屋の前へ、私がぼんやり 突立 ( つった ) ったろう。
場所も方角も、まるで違うけれども、むかし小学校の時分、学校近所の……あすこは大川 近 ( ぢか ) の 窪地 ( くぼち ) だが、寺があって、その門前に、店の暗い提灯屋があった。 髯 ( ひげ ) のある 親仁 ( おやじ ) が、紺の筒袖を、 斑々 ( むらむら ) の 胡粉 ( ごふん ) だらけ。腰衣のような幅広の 前掛 ( まえかけ ) したのが、泥絵具だらけ、青や、 紅 ( あか ) や、そのまま転がったら、 楽書 ( らくがき ) の 獅子 ( しし ) になりそうで、 牡丹 ( ぼたん ) をこってりと 刷毛 ( はけ ) で 彩 ( えど ) る。 緋 ( ひ ) も桃色に 颯 ( さっ ) と流して、ぼかす手際が 鮮彩 ( あざやか ) です。それから鯉の滝登り。八橋一面の 杜若 ( かきつばた ) は、風呂屋へ進上の祝だろう。そんな 比羅絵 ( びらえ ) を、のしかかって描いているのが、嬉しくて、面白くって、絵具を解き 溜 ( た ) めた 大摺鉢 ( おおすりばち ) へ、 鞠子 ( まりこ ) の 宿 ( しゅく ) じゃないけれど、 薯蕷汁 ( とろろ ) となって溶込むように……学校の 帰途 ( かえり ) にはその軒下へ、いつまでも立って見ていた事を思出した。時雨も 霙 ( みぞれ ) も知っている。夏は学校が 休 ( やすみ ) です。桜の春、また雪の時なんぞは、その緋牡丹の燃えた事、冴えた事、葉にも 苔 ( こけ ) にも、パッパッと 惜気 ( おしげ ) なく金銀の 箔 ( はく ) を使うのが、御殿の廊下へ日の 射 ( さ ) したように輝いた。そうした時は、 家 ( うち ) へ帰る途中の、大川の橋に、綺麗な牡丹が咲いたっけ。
先刻 ( さっき ) のあの提灯屋は、絵比羅も何にも描いてはいない。番傘の白いのを 日向 ( ひなた ) へ並べていたんだが、つい、その昔を思出して、あんまり店を 覗 ( のぞ ) いたので、ただじゃ出て来にくくなったもんだから、観光団お買上げさ。
――ご紋は――
――牡丹――
何、描かせては手間がとれる……第一実用むきの気といっては、いささかもなかったからね。これは、 傘 ( からかさ ) でもよかったよ。パッと拡げて、菊を持ったお米さんに、 背後 ( うしろ ) から差掛けて登れば 可 ( よ ) かった。」
「どうぞ。……女万歳の広告に。」
「仰せのとおり。――いや、 串戯 ( じょうだん ) はよして。いまの並べた傘の小間 隙間 ( すきま ) へ、柳を透いて日のさすのが、銀の 色紙 ( しきし ) を拡げたような処へ、お前さんのその花についていたろう、蝶が二つ、あの店へ 翔込 ( たちこ ) んで、傘の上へ舞ったのが、雪の牡丹へ、ちらちらと 箔 ( はく ) が散浮く……
そのままに見えたと思った時も――箔――すぐこの寺に墓のある――同町内に、ぐっしょりと濡れた姿を 儚 ( はかな ) く引取った――箔屋――にも気がつかなかった。薄情とは言われまいが、世帯の苦労に、朝夕は、細く刻んでも、日は遠い。年月が余り 隔 ( へだた ) ると、 目前 ( めのまえ ) の菊日和も、遠い花の霞になって、夢の 朧 ( おぼろ ) が消えて 行 ( ゆ ) く。
が、あらためて、澄まない気がする。御母堂の奥津城を展じたあとで。……ずっと離れているといいんだがな。近いと、どうも、この年でも 極 ( きま ) りが悪い。きっと冷かすぜ、石塔の下から、クックッ、カラカラとまず笑う。」
「こわい、おじさん。お 母 ( っか ) さんだがいいけれど。……私がついていますから、冷かしはしませんから、よく、お拝みなさいましよね。
――(糸塚)さん。」
「糸塚……初路さんか。糸塚は姓なのかね。」
「いいえ、あら、そう……おじさんは、ご存じないわね。
――糸塚さん、糸巻塚ともいうんですって。
この谷を一つ隔てた、向うの山の中途に、 鬼子母神 ( きしもじん ) 様のお寺がありましょう。」
「ああ、 柘榴寺 ( ざくろでら ) ―― 真成寺 ( しんじょうじ ) 。」
「ちょっとごめんなさい。私も端の方へ、少し休んで。……いいえ、構うもんですか。落葉といっても 錦 ( にしき ) のようで、勿体ないほどですわ。あの柘榴の花の散った中へ、鬼子母神様の雲だといって、草履を脱いで坐ったのも、つい近頃のようですもの。お母さんにつれられて。白い雲、青い雲、紫の雲は何様でしょう。鬼子母神様は 紅 ( あか ) い雲のように思われますね。」
墓所は 直 ( じき ) 近いのに、面影を 遥 ( はる ) かに 偲 ( しの ) んで、母親を想うか、お米は 恍惚 ( うっとり ) して云った。
――聞くとともに、辻町は、その壮年を三四年、相州 逗子 ( ずし ) に過ごした時、新婚の 渠 ( かれ ) の妻女の、病厄のためにまさに絶えなんとした生命を、医療もそれよ。まさしく観世音の大慈の 利験 ( りやく ) に生きたことを忘れない。南海霊山の 岩殿寺 ( いわとのじ ) 、奥の 御堂 ( みどう ) の裏山に、 一処 ( ひとところ ) 咲満ちて、春たけなわな 白光 ( びゃっこう ) に、 奇 ( く ) しき 薫 ( かおり ) の 漲 ( みなぎ ) った紫の 菫 ( すみれ ) の中に、白い山兎の飛ぶのを 視 ( み ) つつ、病中の人を念じたのを、この時まざまざと、目前の雲に視て、輝く 霊巌 ( れいげん ) の台に対し、さしうつむくまで、 心衷 ( しんちゅう ) に、恭礼黙拝したのである。――
お米の横顔さえ、 ※ ( ろう )
たけて、「柘榴寺、ね、おじさん、あすこの寺内に、初代元祖、友禅の墓がありましょう。一頃は 訪 ( と ) う人どころか、 苔 ( こけ ) の下に土も枯れ、水も 涸 ( かわ ) いていたんですが、 近年 ( ちかごろ ) 他国の人たちが方々から尋ねて来て、世評が高いもんですから、記念碑が新しく建ちましてね、名所のようになりました。それでね、ここのお寺でも、新規に、初路さんの、やっぱり記念碑を建てる事になったんです。」
「ははあ、和尚さん、 娑婆気 ( しゃばっけ ) だな、人寄せに、黒枠で……と身を投げた人だから、 薄彩色 ( うすざいしき ) 水絵具の立看板。」
「黙って。……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。」
「葬った土とは別なんだね。」
「ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。」
「どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。」
「そんな、ただ思いつき、趣向ですか、そんなんじゃありません。あの方、はんけちの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが 原因 ( もと ) で、あんな事になったんですもの。糸も 紅糸 ( べにいと ) からですわ。」
「糸も紅糸……はんけちの工場へ通って、縫取をして、それが 原因 ( もと ) ?……」
「まあ、何にも、ご存じない。」
「怪我にも心中だなどという、そういっちゃ、しかし済まないけれども、何にも知らない。おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年が 経 ( た ) つと、それっきりになる事もあるからね。」
辻町は向直っていったのである。
「蟹は甲らに似せて穴を掘る……も 可訝 ( おかし ) いかな。おなじ穴の狸……飛んでもない。一升入の 瓢 ( ひさご ) は一升だけ、何しろ、当推量も左前だ。誰もお 極 ( きま ) りの貧のくるしみからだと思っていたよ。」
また、事実そうであった。
「まあ、そうですか、いうのもお可哀相。あの方、それは、おくらしに賃仕事をなすったでしょう。けれど、もと、千五百石のお 邸 ( やしき ) の 女※ ( じょうろう )
さん。」「おお、ざっとお姫様だ。ああ、惜しい事をした。あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。」
「それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女※
ですが、初路さん、お 妾腹 ( めかけばら ) だったんですって。それでも一粒種、いい月日の 下 ( もと ) に、生れなすったんですけれど、廃藩以来、ほどなく、お邸は退転、御両親も皆あの世。お部屋方の遠縁へ引取られなさいましたのが、いま、お話のありました箔屋なのです。時節がら、箔屋さんも暮しが 安易 ( らく ) でないために、 工場 ( こうば ) 通いをなさいました。お邸育ちのお慰みから、 縮緬 ( ちりめん ) 細工もお上手だし、お針は利きます。すぐ第一等の女工さんでごく上等のものばかり、はんけちと云って、薄色もありましょうが、おもに白絹へ、蝶花を綺麗に 刺繍 ( ししゅう ) をするんですが、いい品は、国産の誉れの一つで、内地より、外国へ高級品で出たんですって。」「なるほど。」
縷紅新草
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