University of Virginia Library

篠原合戰

そこにて諸社へ神領を寄せられけり。白山社へは横江、宮丸、菅生社へは能美の庄、多田の八幡へは蝶屋の庄、氣比社へは飯原庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷を寄せられけり。

一年石橋山の合戰の時、兵衞佐殿射奉し者共、都へにげ上て、平家の方にぞ候ける。宗との者には俣野五郎景久、長井齋藤別當實盛、伊藤九郎助氏、浮巣三郎重親、眞下四郎重直、是等は暫く軍の有ん時迄休まんとて、日毎に寄合々々、巡酒をしてぞ慰みける。先實盛が許に寄合たりける日、齋藤別當申けるは、「倩此世中の在樣を見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は、負色に見えさせ給ひけり。いざ各木曾殿へ參う。」と申ければ、皆「さなう」と同じけり。次日浮巣三郎が許に寄合たりける時、齋藤別當、「さても昨日申し事は如何に、各。」其中に俣野五郎、進出でて申けるは、「我等はさすが、東國では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。好きに附て彼方へ參り、此方へ參らう事も、見苦かるべし。人をば知參せず候。景久に於ては、平家の御方にて、如何にも成らう。」と申ければ、齋藤別當あざ笑て、「誠には各の御心共をがな引奉んとてこそ申たれ。其上實盛は今度の軍に討死せうと思切て候ぞ。二度、都へ參るまじき由、人々にも申置たり。大臣殿へも此樣を申上て候ぞ。」と云ひければ、皆人此議にぞ同じける。されば其約束を違じとや、當座に有し者共、一人も殘らず北國にて皆死けるこそ無慚なれ。

さる程に平家は人馬の息を休めて加賀國篠原に陣をとる。同五月廿一日の辰の一點に、木曾、篠原に押寄せて鬨をどと作る。平家の方には、畠山庄司重能、小山田別當有重、去る治承より今迄召籠められたりしを「汝らは故い者共也。軍の樣をもおきてよ。」とて、北國へ向られたり。是等兄弟三百餘騎で陣の面に進んだり。源氏の方より今井四郎三百余騎でうちむかふ。今井四郎、畠山始めは互に五騎十騎づゝ出し合せて、勝負をせさせ、後には兩方亂れ合てぞ戰ひける。五月二十一日午刻、草もゆるがず照す日に、我劣じと戰へば、遍身より汗出て、水を流すに異ならず。今井が方にも兵多く亡にけり。畠山、家子郎等殘り少なに討成され力及ばで引退く。次に平家の方より、高橋判官長綱、五百餘騎で進んだり。木曾殿の方より、樋口次郎兼光、落合五郎兼行、三百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、高橋勢は、國々の驅武者なれば、一騎も落合はず、我先にとこそ落行きけれ。高橋心は猛く思へども、後あらはに成ければ、力及ばで引退く。唯一騎落て行處に越中國の住人入善小太郎行重、よい敵と目を懸け、鞭鐙を合て馳來り、押双てむずと組む。高橋、入善を掴うで鞍の前輪に押附け、「わ君は何者ぞ、名乘れ聞う。」といひければ、「越中國の住人入善小太郎行重、生年十八歳。」と名乘る。「あら無慚、去年おくれし長綱が子も今年はあらば、十八歳ぞかし。わ君ねぢ切て捨べけれども、助ん。」とて許しけり。吾身も馬より下り、暫く御方の勢待んとて休み居たり。入善「我をば助たれども、あはれ敵や、如何にもしてうたばや。」と思居たる所に、高橋打解て物語しけり。入善勝たる早わざの士で、刀を拔き、取て懸り、高橋が内甲を二刀さす。さる程に、入善が郎黨三騎後馳に來て落合たり。高橋心は猛く思へども、運や盡にけん、敵はあまた有り、痛手は負つ、そこにて遂に討たれにけり。

又平家の方より武藏三郎左衞門有國、三百騎許で喚てかく。源氏の方より、仁科、高梨、山田次郎、五百餘騎で馳向ふ。暫支て戰ひけるが、有國が方の勢多く討たれぬ。 有國深入して戰ふほどに、矢種皆射盡して馬をも射させ、歩立になり、打物拔て戰ひけるが、敵餘た討取り矢七つ八つ射立られて、立死にこそ死にけれ。大將か樣になりしかば、其勢皆落行ぬ。