University of Virginia Library

火打合戰

木曾義仲自は信濃に有ながら、越前國火打城をぞ構ける。彼城郭に籠る勢、平泉寺長吏齋明威儀師、稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓、土田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美を始として、六千餘騎こそ籠けれ。火打本より究竟の城郭也。磐石峙ち廻て、四方に嶺を列ねたり。山を後ろにし、山を前にあつ。城郭の前には能美河、新道河とて流たり。二つの河の落合に、大木を伐て逆茂木に曳き、柵をおびたゞしうかき上たれば、東西の山の根に、水塞こうで湖に向へるが如し。影南山を浸して青くして滉漾たり。浪西日を沈めて紅にして隱淪たり。彼無熱池の底には、金銀の砂を敷き、昆明池の渚には、とくせいの船を浮たり。此火打城の築池には、堤をつき、水を濁して、人の心を誑かす。船なくしては輙う渡すべき樣無ければ、平家の大勢、向への山に宿して、徒に日數を送る。

城の内に在ける平泉寺長吏齋明威儀師、平家に志深かりければ、山の根を廻りて、 消息を書き、蟇目の中に入れて忍びやかに平家の陣へぞ射入たる。「彼湖は往古の淵 に非ず、一旦山川を塞上て候。夜に入、足輕共を遣て柵を切落させ給へ、水は程なく 落べし。馬の足立好所で候へば急ぎ渡させ給へ。後矢は射て參らせむ。是は、平泉寺 長吏齋明威儀師が申状。」とぞ書たりける。大將軍大に悦び、やがて足輕どもを遣し て、柵を切落す。おびたゞしう見えつれども、げにも山川なれば水は程なく落にけり。 平家の大勢暫の

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[1]遲々にも及ばす
、さと渡す。城の内の兵共暫し支へて防ぎけれ共、敵は大勢也、御方は無勢也ければ、叶べしとも見えざりけり。平泉寺長吏齋明威儀師、平家に附て忠をいたす。稻津新介、齋藤太、林六郎光明、富樫入道佛誓こゝをば落て、猶平家を背き加賀國に引退き、白山河内に引籠る。平家やがて加賀に打越て、林、富樫が城郭二箇所燒拂ふ。何面を向ふべしとも見ざりけり。近き宿々より飛脚を立て、此由都へ申たりければ、大臣殿以下殘り留まり給ふ一門の人々勇悦事なのめならず。

同五月八日、加賀國篠原にて勢汰へ在り。軍兵十萬餘騎を二手に分て大手搦手へ向はれけり。大手の大將軍は小松三位中將維盛、越前三位通盛、侍大將には越中前司盛俊を始として、都合其勢七萬餘騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞ向れける。搦手の大將軍は、薩摩守忠度、參河守知度、侍大將には、武藏三郎左衞門を先として、都合其勢三萬餘騎、能登越中の境なる志保の山へぞ懸かられける。木曾は越後の國府に有けるが、是を聞て、五萬餘騎で馳向ふ。我が軍の吉例なればとて、七手に作る。先叔父の十郎藏人行家、一萬餘騎で志保山へぞ向ける。仁科、高梨、山田次郎、七千餘騎で北黒坂へ搦手に差遣す。樋口次郎兼光、落合五郎兼行七千餘騎で南黒坂へ遣しけり。一萬餘騎をば砥浪山の口、黒坂のすそ、松長の柳原、茱萸木林に引隱す。今井四郎兼平、六千餘騎で鷲の瀬を打渡し、日宮林に陣を取る。木曾我身は一萬餘騎で、をやべの渡をして、砥浪山の北のはづれはにふに陣をぞ取たりける。