University of Virginia Library

維盛都落

平家の侍越中次郎兵衞盛嗣是を承はて逐ひ留め參せんと頻に進み出けるが、人人に制せられて留まりけり。

小松三位中將維盛卿は、日比より思食設られたりけれ共、指當ては悲かりけり。北方と申は、故中御門新大納言成親卿の御娘也。桃顏露に綻び、紅粉眼に媚をなし、柳髮風に亂るゝ粧、又人有べし共見え給はず。六代御前とて、生年十に成給ふ若君、其妹八歳の姫君おはしけり。此人々皆後じと慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「日比申し樣に、我は一門に具して、西國の方へ落行なり。何く迄も具足し奉るべけれ共、道にも敵待なれば、心安う通ん事も有難し。縱我討れたりと聞給ふ共、樣など替給ふ事は努々有るべからず。其故は、如何ならん人にも見えて、身をも助け、少き者共をも育み給ふべし。情を懸る人も、などか無かるべき。」と、慰め給へども、北方とかうの返事もし給はず引被てぞ臥給ふ。既に打立んとし給へば、袖にすがて「都には父もなし母もなし、捨られ參らせて後、誰にかはみゆべき。如何ならん人にも見えよなど承るこそ恨しけれ。前世の契り有ければ、人こそ憐み給ふとも、又人毎にしもや情を懸くべき。何く迄も伴ひ奉り、同野原の露とも消え、一つの底の水屑とも成らんとこそ契りしに、されば小夜の寢覺の睦語は、皆僞に成にけり。責ては身一つならば如何がせん。捨られ奉る身の憂さ、思知ても留まりなん。少き者共をば、誰に見讓り、如何にせよとか思召す。恨しうも留め給ふ者哉。」と、且は恨み且は慕ひ給へば、三位中將宣ひけるは、「誠に人は十三、我は十五より見初奉り、火の中水の底へも、倶に入り倶に沈み、限ある別路迄も後れ先立じとこそ申しかども、かく心憂き有樣にて、軍の陣へ趣けば、具足し奉て、行方も知ぬ旅の空にて、憂目を見せ奉らんも、うたてかるべし。其上今度は用意も候はず。何くの浦にも心安う落著いたらば、其よりこそ迎へに人をも奉らめ。」とて、思ひ切てぞ立れける。中門の廊に出て、鎧取て著、馬引寄させ、既に乘らんとし給へば、若君姫君走出でて、父の鎧の袖、草摺に取附き、「是はされば何地へとて、渡せ給ぞ。我も參ん、我も行ん。」と面々に慕ひ泣給ふにぞ、浮世のきづなと覺えて、三位中將、いとゞ爲方なげには見えられける。

さる程に御弟新三位中將資盛卿、左中將清經、同少將有盛、丹後侍從忠房、備中守師盛、兄弟五騎馬に乘ながら、門の中へ打入り、庭にひかへて、「行幸は遙に延させ給ひぬらん、如何にや今迄。」と、聲々に申されければ、三位中將馬に打乘て出給ふが、猶引返し、縁の際へうち寄せて、弓の弭で御簾をさと掻揚げ、「是御覽ぜよ各、少き者共が餘りに慕ひ候を、とかうこしらへ置んと仕る程に、存の外の遲參。」と宣ひもあへず、泣かれければ、庭にひかへ給へる人々、皆鎧の袖をぞ濡されける。

こゝに齋藤五、齋藤六とて、兄は十九、弟は十七に成る侍あり。三位中將の御馬の左右のみづつきに取著き、何く迄も御とも仕るべき由申せば、三位中將宣ひけるは、 「己等が父齋藤別當北國へ下し時、汝等が頻に伴せうと云しかども、存ずる旨が有ぞ とて、汝等を留置き、北國へ下て遂に討死したりけるは、かゝるべかりける事を、故い者で、兼て知たりけるにこそ。あの六代を留て行に、心安う扶持すべき者のなきぞ。誰理を枉て留まれ。」と宣へば、力及ばず、涙を押へて留りぬ。北方は、「年比日比、是程情なかりける人とこそ、兼ても思はざりしか。」とて臥まろびてぞ泣かれける。若君姫君女房達は、御簾の外迄まろびいで、人の聞をも憚らず聲をはかりにぞ喚叫び給ひける。此聲々耳の底に留て、西海の立つ浪の上、吹風の音迄も聞く樣にこそ思はれけめ。

平家都を落行に、六波羅、池殿、小松殿、八條、西八條以下、一門の卿相雲客の家々、二十餘箇所、次々の輩の宿所々々、京白川に四五萬の在家一度に火をかけて、皆燒拂ふ。