University of Virginia Library

平家山門連署

平家は是を夢にも知らずして、興福園城兩寺は、欝憤を含める折節なれば、語ふとも靡じ。當家は未だ山門の爲に怨を結ばず、山門又當家の爲に不忠を存ぜず。山王大師に祈誓して、三千の衆徒を語らはばやとて、一門公卿十人、同心連署の願書を書いて、山門へ送る。其状に云、

敬白 延暦寺を以て氏寺に准じ、日吉社を以て氏社として、一向天台の佛法を仰べき事右當家一族の輩、殊に祈誓する事あり。旨趣如何となれば、叡山は是桓武天皇の御宇、傳教大師入唐歸朝の後、圓頓の教を此所に廣め、遮那の大戒を其内に傳てより以降、專ら佛法繁昌の靈崛として、鎭護國家の道場に備ふ。方に今伊豆國流人、源頼朝、身の咎を悔いず、却て朝憲を嘲る。加之奸謀に與して、同心を致す源氏等、義仲、行家以下黨を結て數あり。隣境遠境數國を掠領し、土宜土貢萬物を押領す。これによて或は累代勳功の跡を逐ひ、或は當時弓馬の藝に任せて、速に賊徒を追討し、凶黨を降伏すべき由、苟くも勅命を含んで類に征伐を企つ。爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍利を得ず、星旄電戟の威、逆類勝に乘に似たり。若神明佛陀の加被にあらずば、爭か反逆の凶亂を鎭めん。是を以て、一向天台の佛法に歸し、併せて日吉の神恩を憑み奉らまくのみ。何ぞ況や忝なく、臣等が曩祖を思へば本願の餘裔と云つべし。彌崇重すべし、彌恭敬すべし。自今以後、山門に悦あらば一門の悦とし、社家に憤あらば一家の憤として、各子孫に傳へて永く失墜せじ。藤氏は春日社興福寺を以て氏社氏寺として、久しく法相大乘の宗に歸す。平氏は日吉社延暦寺を以て、氏社氏寺として、目の當り圓實頓悟の教に値遇せん。彼は昔の遺跡なり、家の爲榮幸を思ふ。是は今の誓祈なり、君の爲追罰を請ふ。仰ぎ願くは、山王七社、王子眷屬、東西滿山護法聖衆、十二上願醫王善逝、日光月光十二神將、無二の丹誠を照して、唯一の玄應を垂給へ。然る間邪謀逆心の賊、手を軍門につかね、暴逆殘害の輩、首を京土に傳へん。仍て當家の公卿等、異口同音に禮をなして祈誓如件。

從三位行兼越前守平朝臣通盛

從三位行兼右近衞中將平朝臣資盛

正三位行右近衞權中將兼伊豫守平朝臣維盛

正三位行左近衞中將兼播磨守平朝臣重衡

正三位行右衞門督兼近江遠江守平朝臣清宗

參議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣經盛

從二位行中納言兼左兵衞督征夷大將軍平朝臣知盛

從二位行權中納言兼肥前守平朝臣教盛

正二位行權大納言兼出羽陸奧按察使平朝臣頼盛

從一位平朝臣宗盛

壽永二年七月五日  敬白

とぞ書かれたる。

貫首是を憐み給ひて、左右なく披露せられず。十禪寺權現の御殿に籠て、三日加持して、其後衆徒に披露せらる。始は有とも見えざりし一首の歌願書の上卷に、出來たり。

平かに花咲く宿も年ふれば、西へ傾く月とこそなれ。

山王大師是に憐を垂れ給ひ、三千の衆徒力を合せよと也。されども年比日比の振舞、神慮にも違ひ、人望にも背きにければ、祈れども叶はず語へども靡ざりけり。大衆誠に、事の體を憐けれども、「既に源氏に同心の返牒を送る。今又輕々しく、其議を改るに能はず。」とて是を許容する衆徒もなし。