平家物語卷第七 平家物語卷第一 (Heike monogatari) | ||
木曾山門牒状
木曾、越前の國府について、家子郎等召集めて評定す。「抑義仲近江國を經てこそ、都へは入らんずるに、例の山僧共は防ぐ事もや有んずらん。懸け破て通ん事は安けれども、平家こそ當時は佛法とも云はず、寺を亡し、僧を失ひ、惡行をば致せ。其を守護の爲に上洛せん者が、平家と一つになればとて、山門の大衆に向て、軍せん事、少も違はぬ二の舞なるべし。是こそさすが安大事よ。如何にせん。」と宣へば手書に具せられたる大夫坊覺明進出て申けるは、「山門の衆徒は三千候、必一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候也。或は源氏に附んと申す衆徒も候らん、或は平家に同心せんと云ふ大衆も候らん、牒状を遣して御覽候へ。事の樣返牒に見え候はんずらん。」 と申ければ、「此議尤然るべし、さらば書け。」とて、覺明に牒状書せて、山門へ送 る。其状に云、
義仲倩平家の惡逆を見るに、保元平治より以來、永く人臣の禮を失ふ。雖然、貴賤手を束ね、緇素足を戴く。恣に帝位を進退し、飽くまで國郡を掠領す。道理非理を論ぜず、權門勢家を追捕し、有罪無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。其資材を奪取て、悉く郎從に與へ、彼庄園を沒収して、猥がはしく子孫に省む。就中、去治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る。衆庶言はず、道路目を以す。加之同四年五月、二の宮の朱閣を圍み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。爰に帝子非分の害を逃れん爲に、竊に園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨を給るに依て、鞭を擧げんとする處に、怨敵巷に滿て、豫參路を失ふ。近境の源氏、猶參候せず、況や遠境に於てをや。然るを園城は分限なきによて、南都へ趣かしめ給ふ間、宇治橋にて合戰す。大將三位入道頼政父子、命を輕んじ義を重んじて、一戰の功を勵すと云へ共、多勢の責を免かれず、形骸を古岸の苔にさらし、生命を長河の波に流す。令旨の趣肝に銘じ、同類の悲魂を消す。是によて東國北國の源氏等、各參洛を企て、平家を亡さんと欲す。義仲去年の秋、宿意を達せんが爲に、旗を擧げ劍を取て、信州を出でし日、越後國の住人、城の四郎長茂、數萬の軍兵を率して發向せしむる間、當國横田河原にして合戰す。義仲僅に三千餘騎を以て、かの數萬の兵を破り畢ぬ。風聞廣きに及て、平氏の大將十萬の軍士を率して、北陸に發向す。越州、加州、砥浪、黒坂、鹽坂、篠原以下の城郭にして、數箇度合戰す。策を帷幄の中に運らして、勝事を咫尺のもとに得たり。然を討てば必ず伏し、攻れば必ず降る。秋風の芭蕉を破るに異ならず。冬の霜の群葉を枯すに同じ。是偏に神明佛陀の助けなり、更に義仲が武略にあらず。平氏敗北の上は、參洛を企る者也。今叡岳の麓を過ぎて、洛陽の衢に入るべし。此時に當て、竊に疑殆あり。抑天台の衆徒、平家に同心か、源氏に與力か。若しかの逆徒を助けらるべくば、衆徒に向て合戰すべし。若し合戰をいたさば、叡岳の滅亡踵をめぐらすべからず。悲哉、平氏宸襟を惱し、佛法を滅す間、惡逆を靜めんが爲に、義兵を發す處に、忽ち三千の衆徒に向て、不慮の合戰を致さんことを。痛哉、醫王、山王に憚り奉て、行程に遲留せしめば、朝廷緩怠の臣として、永く武略瑕瑾の謗を遺さんことを。猥しく進退に迷て、案内を啓する所なり。庶幾三千の衆徒神の爲、佛の爲、國の爲、君の爲に源氏に同心して兇徒を誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至に堪へず。義仲恐惶謹白。
壽永二年六月十日 源 義仲
進上 惠光坊律師御房
とぞかいたりける。
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