University of Virginia Library

行隆之沙汰

前關白松殿の侍に、江大夫判官遠成と云ふ者有り。是も平家心よからざりければ、既に六波羅より押寄て搦捕るべしと聞えし間、子息江左衞門尉家成打具して、いづちともなく落行きけるが、稻荷山に打上り、馬より下て、父子言合けるは、「是より東國の方へ落くだり、伊豆國の流罪人前兵衞佐頼朝を憑ばやとは思へ共、其も當時は勅勘の人で、身一つだにも叶難う坐也。日本國に、平家の庄園ならぬ所や有る。とても遁ざらん物故に、年來住馴たる所を人に見せんも恥がましかるべし。只是より歸て、六波羅より召使有らば、腹掻切て死なんにはしかじ。」とて、河原坂の宿所へとて取て返す。案の如く、六波羅より源大夫判官季定、攝津判官盛澄、ひた甲三百餘騎、河原坂の宿所へ押寄て、鬨をどとぞ作ける。江大夫判官縁に立出で、「是御覽ぜよ、おの/\、六波羅では此樣を申させ給へ。」とて、館に火をかけ、父子共に腹かき切り、ほのほの中にて燒死ぬ。

抑か樣に上下多の人の亡び損ずる事を以何と云に、當時關白に成せ給へる二位中將殿と前の殿の御子三位中將殿と、中納言御相論の故と申す。さらば關白殿御一所こそ、如何なる御目にも逢せ給はめ、四十餘人迄の人々の、事に逢べしやは。去年讃岐院の御追號と、宇治惡左府贈官贈位在しか共、世間は猶も靜かならず。凡是にも限まじかんなり。入道相國の心に天魔入かはて腹を居かね給へりと聞えしかば、又天下に如何なる事か出でこんとて京中上下怖れおのゝく。

其比前左少辨行高と聞えしは、故中山中納言顯時卿の長男也。二條院の御代には、辨官に加てゆゆしかりしか共、此十餘年は官を停められて、夏冬の衣がへにも及ばず、 朝暮のざんも心に任せず、有か無かの體にて坐けるを、太政入道、「申べき事有り。きと立より給へ。」と宣遣はされたりければ、行高此十餘年は、何事にも交はらざりつる物を、人の讒言したる者あるにこそとて、大に恐れ騒がれけり。北方、君達も「如何なる目にか逢はんずらん。」と泣悲しみ給ふに、西八條より、使布竝に有ければ、力及ばで、人に車借て西八條へ出られたり。思には似ず、入道やがて出向うて對面あり。「御邊の父の卿は、大小事申合せし人なれば、愚に思ひ奉らず。年來籠居の事も、いとほしう思たてまつりしか共、法皇御政務の上は力及ばず。今は出仕し給へ。官途の事も申沙汰仕るべし。さらば疾歸られよ。」とて入給ぬ。被歸たれば、宿所には女房達死だる人の生返りたる心地して、指つどひて、皆悦泣共せられけり。

太政入道源大夫判官季貞を以て、知行し給べき庄園状共數多遣はす。先さこそ有らめとて、百疋百兩に米を積でぞ贈られける。出仕の料にとて、雜色牛飼牛車迄、沙汰し遣はさる。行高手の舞足の踏どころも覺えず、こはされば夢かや夢かとぞ驚かれける。同十七日五位の侍中に補せられて、左少辨に成かへり給ふ。今年五十一、今更若やぎ給ひけり。唯片時の榮花とぞ見えし。