University of Virginia Library

卒都婆流

丹波少將、康頼入道、常は三所權現の御前に參て、通夜する折も有けり。或時二人通夜して、夜もすがら今樣をぞ歌ひける。曉方に康頼入道、ちと目睡たる夢に、沖より白い帆掛たる小舟を一艘漕寄て、舟の中より紅の袴きたる女房、二三十人あがり、皷を打ち聲を調て、

萬の佛の願よりも、千手の誓ぞたのもしき、
枯れたる草木も忽に、花さき實なるとこそきけ。

と三辺歌澄して、掻けす樣にぞ失にける。夢覺て後、奇異の思をなし、康頼入道申けるは、「是は龍神の化現と覺えたり。三所權現のうちに、西の御前と申は、本地千手觀音にておはします。龍神は則千手の廿八部衆の其一なれば、もて御納受こそ頼敷けれ。」又或夜二人通夜して同じう目睡たりける夢に、沖より吹くる風の、二人が袂に木の葉を二つ吹懸たりけるを、何となう取て見ければ、御熊野の南木の葉にてぞ有ける。かの二の南木の葉に一首の歌を蟲くひにこそしたりけれ。

ちはやぶる神にいのりの繁ければ、などか都へ歸らざるべき。

康頼入道、故郷の戀しきまゝに、せめてのはかりごとに、千本の卒都婆を作り、字の梵字、年號月日、假名、實名、二首の歌をぞ書たりける。

薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告よ八重の汐風。
思ひやれしばしと思ふ旅だにも、猶ふるさとはこひしき物を。

是を浦に持て出て、「南無歸命頂禮、梵天帝釋、四大天王、けんろう地神、王城の鎭守諸大明神、殊には熊野權現、嚴島大明神、せめては一本なり共、都へ傳てたべ。」とて、沖つ白波の、よせては歸る度毎に、卒都婆を海にぞ浮べける。卒都婆を造出すに隨て、海に入れければ、日數の積れば、卒都婆の數もつもりけり。その思ふ心や便の風とも成たりけむ。又神明佛陀もや送らせ給ひけむ。千本の卒都婆のなかに、一本、安藝國嚴島の大明神の御前の渚に打あげたり。

こゝに康頼入道がゆかりありける僧、然るべき便もあらば、如何にもして彼島へ渡て、其行へを聞むとて、西國修行に出たりけるが、先嚴島へぞ參りたりける。爰に宮人とおぼしくて、狩衣裝束なる俗、一人出來たり。此僧何となき物語しけるに、「夫和光同塵の利生、樣々なりと申せども、如何なりける因縁を以て、此御神は海漫の鱗に縁をば結ばせ給ふらん。」と問奉る。宮人答けるは、「是はよな、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎藏界の垂跡也。」此島へ御影向有し始より濟度利生の今に至るまで、甚深奇特の事共をぞ語ける。さればにや、八社の御殿甍を竝べ、社はわたつみの邊なれば、汐の滿乾に月ぞすむ。汐滿くれば、大鳥居緋の玉垣瑠璃の如し。汐引ぬれば夏の夜なれど、御前の白洲に霜ぞおく。いよ/\尊く覺て、法施參せて居たりけるに、漸々日暮月指いでて、汐の滿けるが、そこはかとなき、藻くづ共のゆられける中に、卒都婆の形の見えけるを、何となう取て見ければ、沖の小島に我ありと、書流せる言葉也。文字をば彫入刻附たりければ、波にも洗はれず、あざあざとしてぞ見えける。「あな、不思議。」とて、是を笈のかたにさし、都へ上り、康頼が老婆の尼公妻子共が、一條の北、紫野と云處に忍つゝ住けるに、見せたりければ、「さらば此卒都婆が唐の方へもゆられ行かで、なにしに是迄傳ひ來て、今更物を思はすらん。」とぞ悲みける。遙の叡聞に及で、法皇之を御覽じて、「あな無慚や、さればいまだこの者共は命の生て有にこそ。」と、御涙を流させ給ふぞ忝き。小松の大臣の許へ送らせ給ひたりければ、是を父の入道相國に見せ奉り給ふ。柿本人丸は、島がくれ行舟を思ひ、山邊赤人は、蘆邊の田鶴をながめ給ふ。住吉明神は、かたそぎの思をなし、三輪明神は、杉立る門をさす。昔素盞嗚尊、三十一字の和歌を始めおき給しより以來、諸の神明佛陀も、彼詠吟を以て、百千萬端の思を述給ふ。入道も岩木ならねば、さすが哀げにぞ宣ひける。