University of Virginia Library

額打論

さる程に、同七月廿七日、上皇竟に崩御なりぬ。御歳二十三。蕾める花の散れるが如し。玉の簾、錦の帳のうち、皆御涙に咽ばせ給ふ。やがて、その夜、香隆寺の艮、蓮臺野の奧、船岡山にをさめ奉る。御葬送の時、延暦寺、興福寺の大衆、額打論といふ事しいだして、互に狼藉に及ぶ。一天の君崩御なて後、御墓所へわたし奉る時の作法は、南北二京の大衆悉く供奉して、御墓所の廻に、わが寺々の額をうつことあり。先づ聖武天皇の御願、爭ふべき寺なければ、東大寺の額をうつ。次に淡海公の御願とて、興福寺の額をうつ。北京には、興福寺に向へて延暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、教待和尚、智證大師の草創とて、園城寺の額をうつ。然るを山門の大衆、いかがおもひけん、先例を背て、東大寺の次ぎ、興福寺のうへに、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、とやせましかやうせましと僉議するところに、興福寺の西金堂の衆、觀音房、勢至房とて聞えたる大惡僧二人ありけり。觀音房は黒絲威の腹卷に、白柄の長刀くきみじかに取り、勢至房は、萠黄威の腹卷に、黒漆の大太刀もて、二人つと走出で、延暦寺の額をきて落し、散々に打わり、「うれしや水、なるは瀧の水、日はてるとも、絶えずとうたへ。」とはやしつゝ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。