University of Virginia Library

五幕目
蛇山庵室の場

口上觸れ濟むと、ドロ/\になり、幕の前より「心」の文字、上へ引いてとるとやは りドロドロにて幕あく。
本舞臺、三間の間。正面、縁側つきの亭屋臺。伊豫簾かけあり。左右の柱に、 七夕の短册竹を立て、屋根より軒づらへ、唐茄子這ひまとひ、入口栗丸太の枝折戸引 きたて、こゝへも唐茄子纒ひある。あたりは萩の盛り、百姓家秋の體。ドロ/\打上 る。
[ト書]

(ト唄淨瑠璃、トヒヨになり、鷹一羽、外れて來り、屋臺の内へ入りし體。唄一 とくさりきれる。誂への合方。向うより伊右衞門、袴、着流し、大小、庭下駄にて、 鷹の攣をさし、朝顏の絡みし、綺麗なる切子燈籠を持ち、後より長兵衞、これも綺麗 なる中間の拵へにて、首玉つけし犬を曳いて出る。このとたんに正面の簾卷き上げる。 中にお岩模樣やつし、夏姿の振袖、在所娘の拵へ、置手拭にて前垂。五色の絲を卷き たる糸車にて、糸をひきゐる。よき所に、綺麗なる行燈をともしある。その上に件の 鷹がとまりゐる體。兩方見合つて、七夕の見得よろしく、空には月を引出す。舞臺に は螢むらがる。)


伊右衞

天の川、淺瀬白浪、更くる夜を。



恨みて渡る、鵲の橋。(思入れ。)
鵲ならぬこの鷹の、外れてや、こゝへ羽を休め。


伊右衞

秘藏の獲物、いづれにと、尋ね來りし、あの庵、女竹に結ぶ短册は。


長兵衞

ほんに今宵は文月の、七夕祭り、星合の、その日の外れた小霞は、天の川へ飛び はせまいか。


伊右衞

何を阿房な。(思入れ。)
しかし、外れたる鷹は、たしかに、この邊りぢや。サヽ、尋ねてくれ/\。


[ト書]

(ト思入れ。又唄淨瑠璃になり、兩人、門口へ來り、長兵衞、内を覗ひ見て、膽 をつぶし、)


長兵衞

モシ、旦那々々、御覽じませ。あの樣な美しい奴が、糸を採つて居りまする。


伊右衞

ナニ、美しい女が、糸を引いてゐるとか。


長兵衞

左樣でござりまする。


伊右衞

どりや/\。(思入れ。)
成程、鄙の住居には珍しい女。そちは案内して、鷹のことを問うて見ぬか。


長兵衞

左樣致しませう。(ト思入れ。内へ入り、)
コレ/\、姐え/\、おらが旦那が、合はせさつした鷹が外れて、行方が知れぬが、もし、こゝの家へ舞込みはせなんだか。どうだ/\。



ハイ、その鷹は、これ、御覽じませ。妾が傍へ來て、この樣に、とまつて居りま するわいな。


長兵衞

いやア、こいつは妙々。そんなら旦那を呼び申して來よう。(思入れ。)
モシ/\旦那、鷹が居ります/\。


伊右衞

左樣か/\。然らば貰ひに參らうか。其方も參れ。(ト思入れ。門口へ來り、)
女中免しやれ。(ト内へ入り、思入れあつて、)
さて/\風雅な住居ぢやな。イヤ、手前ことは、このあたりに住ひ致す者ぢやが、今日小鷹狩に罷出で、手飼ひの鷹が外れたぢや。聞けば此家へ參つたとの事、申し受けて歸りたいが、身に渡してはくれまいか。



これはまア、改まりましたお頼み。あなた樣の手飼ひのお鷹とあるなれば、御遠 慮なう御持參遊ばしませいな。


伊右衞

それは忝い。然らば持ち參るでござらうが、アヽ、夜に入つて歩行致すは道の程。 コレさぞ暗うて難儀な事であらうな。


長兵衞

モシ/\旦那、ナニ、暗い事がござりませう。今晩は七夕祭り、アレ/\、お月 樣がお上りなされて、晝の樣でござります。殊にあなたには、お歸りの御用意とあつ て、お手細工のその切子燈籠。それを灯して參れば、お提燈より明うござります。 サヽ、お歸りなされ/\。


[ト書]

(トいひながら、切子燈籠を軒へかけ、心なく急き立てる。)


伊右衞

これはしたり/\。ハテ、おのれは氣のきかぬ奴ぢや。あれ程表は暗いではない か。暗いによつて歸らぬと申すに、おのればかり、月の夜ぢやと申すが、斯うしやれ。 この鷹を据ゑて、その犬を曳いて、おのればかり先へ歸りをれ/\。たはけ面め。


[ト書]

(トこれにて、長兵衞むツとしたる態にて、)


長兵衞

コレ/\、あんまりそんな大風な事を云ふなえ。今でこそ、こなたの折助になつ て、旦那旦那と云ふが、以前はおれも、朋輩の秋山長兵衞。犬も朋輩、鷹も朋輩、引 いて歸らば、サア貴樣が曳け。イヤ、手前曳いて行け/\。(ト犬の綱を伊右衞門に投附ける。)


伊右衞

イヤ、こいつが/\。以前は以前。只今は予が折助ではないか。おのれ、曳いて 歸りをれ歸りをれ。


長兵衞

ナニ、予が折助だ。コレ、あんまり大風をいふな。今でこそ出世して大碌取。以 前は民谷伊右衞門とて、われも、ひツてんてれつくでナ、嫌がられた惡仲間。女房の お岩も駈落をして行方なし。その一件でおいらもこの樣。それといふのも、われがし た事だわ。畜生を曳いて歸りやアがれ。


伊右衞

イヤ、おのれ。歸り居れ。


[ト書]

(ト兩方より犬を突きやり、)


長兵衞

オヽ、しき/\/\。


[ト書]

(トけしかける。犬は吠える。お岩、この中へ入つて、)



これはしたり、マア/\、お待ちなされませ。その樣に仰しやらいでも、よいぢ やござりませぬか。承りますれば、主、家來とは云ふものゝ、以前は御朋輩と仰しや るからは、お二人樣の其仲を、妾がお貰ひ申しませう。左樣なされて下さりませいな。


伊右衞

主の其方が左樣に申さば、身どもは隨分、この者と仲直りも致し遣はさうが。


長兵衞

相手の民谷が承知なら、此方にも言分無いが、コレ、お娘、そもじ仲人に入るか。



アイ、妾が仲を結ぶわいなア。


長兵衞

そいつは面白い。(思入れ。)
イヤこれ/\、こゝに用意して來た酒がある。此處で始めようか。(ト思入れ。腰に附けたる吸筒の瓢箪を差出し、)
姐え、茶碗を貸さツし。



アイ/\。(ト思入れ。湯呑を出し、)
何はなくとも、コレ/\こゝに、今日の節句を祝うた刺し鯖。これなと當座のお肴に。(ト刺鯖をとつて、鉢のまゝ出す。)


伊右衞

イヤ、刺鯖とは面白い。そなたとわしと、その刺鯖の樣に、二人、斯樣に引ツつ いてゐたいわい。(トしなだれかゝる。)



これはしたり、妾がやうな在所女に、何のあなたが。


伊右衞

これは痛み入つたお言葉。只今にては、身どもは獨身。その證人はソレ/\、そ の折助ぢやテ。


長兵衞

さうさ/\。女房もあつたが、どうした事やら行方なし。まア何しろ、亭主役に 姐御、始めさツし。



そんなら妾が、お始め申して。


[ト書]

(ト思入れ。長兵衞酌して、伊右衞門飮む思入れにて、)


[娘]

この盃は、どなたへお上げ申しませう。


伊右衞

差しづめ我等が、戴きませうか。


長兵衞

さうさ/\。この旦那面へ刺鯖々々。



憚りながら。


伊右衞

戴きませうか。


[ト書]

(ト兩人、酒を飮むことより、いやらしく寄り添ふ。)


長兵衞

コレ/\、旦那の伊右衞門、朋輩の折助にも、飮ませてくれぬか/\。


伊右衞

成程、おのれへ献すわ/\。


長兵衞

イヤ有難いな。(吸筒引きよせ、引きうけ/\無暗に飮む。)


伊右衞

コレ/\、折助、ちと廻さぬか/\。


長兵衞

ナニ、廻さぬかとは、おれが廻せば義次舞だ。今の流行は神事舞だな。



その舞、舞うて見せなさんせ。


長兵衞

どうして/\、あれは舞ふまい。


伊右衞

そこを我等が頼みぢや程に。


長兵衞

イヤ/\、御免だ/\。


伊右衞

コレ/\、手傳うてくりやれ娘/\。



アイ/\。舞はんせいなア/\。


長兵衞

イヤ、これは迷惑。


[ト書]

(ト鳴物になり、お岩伊右衞門二人して、長兵衞をとらへ、目を押へて、グル/ \と廻して突き放す。長兵衞、ぐるり/\と廻る。これを見て、犬は吠えかゝり、長 兵衞は、廻り乍ら犬もついで、下座へ入る。兩人殘つて、合方。)


伊右衞

ハテ、たはけた奴ではないか。(思入れ。)
イヤ、それはさうと、其方は此邊の百姓の娘なぞといふ事か。左樣か/\。



アイ、妾ア、このあたりの民家に育ちし、賤の女子にござりまする。


伊右衞

アヽ、其方は民家の娘か。民家の文字は變れども、いはば我等が家名にて、民家 は民谷。



スリヤ、あなたの御家名は、民谷樣と申しまするか。


伊右衞

いかにも民谷。して其方の名は何といふぞ。



アイ。妾が其名は。


[ト書]

(ト思入れ。風の音して、竹に結びし七夕の短册。ヒラ/\と落ちて來り、お岩 の傍へ吹き下り來るを、手早く取つて思入れあり。)


[娘]

即ちこれが、妾の。


[ト書]

(ト差出す。伊右衞門取つて、その歌を見て、)


伊右衞

こりや、七夕へ捧げたる、百人一首の歌。『瀬をはやみ、岩にせかるゝ瀧川の。



われても末に逢はんとぞ思ふ。』(思入れ。)
われても末に、(ト思入れ、伊右衞門の顏を、ぢツと見て、)會うてたまはれ、民谷樣。


伊右衞

ヤ、さういふ其方は。



岩にせかるゝその岩が、思ふ男は、お前ならでは。(ト膝にもたれて思入れ。)


伊右衞

岩によう似た賤の女の、振の姿は、以前に變らぬ妻のお岩に。



岩にせかれれ、妾が戀人。今日から妾を。


伊右衞

色にするのぢや。コレ、人の見ぬ間に。(ト娘の帶へ手をかける。)



移り氣の。


伊右衞

ハテ、移り易きは。(ト帶の端を引張り、刀をさげて、つか/\と屋臺のうちへ引込み。)



誰も見えねど、アレ/\鷹が。


伊右衞

下世話で云はば、夜鷹とも。



そんなら妾や、夜鷹かえ。


伊右衞

明があつては。(ト短檠の明を消す。)



ア、モシ。蚊遣りも無いに。


伊右衞

ホンに藪蚊が。(ト團扇を持つて煽る。殘らず螢ゆゑ思入れあつて、)
ヤ、螢の虫が。



身で身を焦す螢火も、露よりもろき果敢ない朝顏。日の目にあはば忽ちに。(ト燈籠に目をつける。)


伊右衞

萎るゝ花も。



露の命も。


伊右衞

咲く朝顏も。



吹く秋風も、


伊右衞

ヤ、



オヽ、寒む。


[ト書]

(ト伊右衞門へもたれかゝる。唄になり、知らせあつて簾下りる。合方になり、 奧より長兵衞、件の犬を曳き出來り、)


長兵衞

アヽ、醉つたぞ/\。里を飮んで善次舞をしたから、まことに目が廻つて。アレ /\/\、まだこの樣に、そこらぢうがグル/\/\/\と、とんで廻るわ。(思入れ。)
併し、あの民谷めは、此處の娘をしめたか知らぬ。何だか娘めも、嫌みな目附きであつたが、大方あの座敷で、極つたであらう。エエ、畜生め。


[ト書]

(ト思入れ。犬にだきつく。犬は吠えて、長兵衞が頭へ喰ひつき、踏み散らして、 下座へ入る。長兵衞思入れあつて、)


[長兵衞]

オヽ、痛い/\。アノ畜生めは、長い頭を既に噛らうとしをつた。コレ、民谷氏 /\、どだ、極つたか/\。アヽ羨しい。ドレ、ちと、覗うてやらう。(と思入れ。簾の隙間より、中を覗き、びつくりして、)
ヤヽヽヽ、ありや何だ/\。今の娘のあの顏は、ありや人間ぢやあるまい/\。サア/\、こいつは、こゝには居られぬ。この燈籠でも提げて、早く逃げて行かうか。


[ト書]

(ト軒の切子へ、手をかける。ドロ/\になり、この燈籠へ、お岩のこはき顏、 現はるゝ。長兵衞、わツと云つて、腰を拔かし、)


[長兵衞]

これはどうだ/\。とんだ物が。コレ/\民谷殿/\。


[ト書]

(ト思入れ。呼びあるき、思はず軒を見る。はひまとひし南瓜が、殘らずお岩の 顏と見える。長兵衞わツというて、)


[長兵衞]

南無阿彌陀佛/\。こゝには居られぬ/\。


[ト書]

(ト薄ドロ/\になり、こけつ、轉びつ、向うへ逃げてはひる。時の鐘、すごき 合方にて、簾が上がる。中に伊右衞門、鷹を据ゑ、刀を提げ、立ち身、娘、裾を控へ てゐて、)



こりやもう、お前、お歸りなさんすのかえ。


伊右衞

ヲヽ、夜の更けぬ間に歸宅致さう。左樣致して、又の御見を。(ト行くを引きとめ、)



それ、見やしやんせ。お前さんは、可愛いお方お岩さんといふお内儀さんがある 故に、いはば妾をお弄りなされて。


伊右衞

イヤ/\、何の其方を弄らうぞ。併しお岩と申したる妻もあつたが、至つて惡女。 殊に心もかたましい女ぢや故に、離別して。


[ト書]

(ト娘これを聞いて、)



すりや先妻のお岩さん、それほど迄に愛想が盡きて、未來永劫、見捨てる心か。 伊右衞門さん。(トきつと見詰める。伊右衞門怖氣だつて、)


伊右衞

さう云ふそなたの面ざしが。どうやらお岩に。



似たと思うてござんすか。似し面影の冴え渡る、あの月影の映るが如く、月は一 つ、影は二つも三つ汐の、岩にせかるゝ、あの世の苦艱を。


伊右衞

ヤヽヽヽ、何と。


お岩

恨めしいぞえ。伊右衞門殿。


伊右衞

ヤ。


[ト書]

(ト飛びのくはずみに、もつたる鷹は鼠となつて、伊右衞門を目がけ、飛びかゝ る。此時冴え行く月へ、黒雲かゝり、薄ドロ/\。黒幕落ちて、舞臺一面、闇の景色、 このとたん、お岩引きぬき、怪しきお岩が死靈の拵へ。大ドロにて、兩人きツとなつ て、)


伊右衞

扨こそお岩が執念の、鼠となつて妨げなすか。


お岩

共に奈落へ誘引せん。來れや、民谷。


伊右衞

愚かや、立ち去れ。


[ト書]

(ト拔いて、切つてかゝる。大ドロ/\、燒酎火、幾多立昇る。伊右衞門、心火 を切拂ひ/\、精根疲れて苦しむ。よきキツカケに、糸車へ心火移り、忽ち火の車と なつて、片輪車の火のつきしまゝ廻る。お岩、伊右衞門を連理引に引きつけて、きつ と見得。ドロ/\にて兩人をせり下ろす。此道具變る。「心」の字、下へ引下ろす。 下座にて百萬遍の鉦の音、念佛の聲にて道具變る。日覆より直ぐに雪、降つて居 る。)


本舞臺、庵室の體。すべて、上の方、障子屋臺。眞中に、紙張を吊りて、中 に伊右衞門、病氣にて寢てゐる體。丸太の門口。外は一面の雪積りの體にて、白布を 敷き、よき所へ、流れ灌頂手桶添へてあり。柳に、雪積りし景色。こゝに淨念黒衣の 庵坊主にて、鉦を打つ。庭作りの勘太、齒磨屋の半六、船頭の浪藏、魚賣りの三吉、 珠數に取りつき、百萬遍の體。近藤源四郎、白絆纒、股引、世話六部で、笈をおろし、 足を洗うてゐる。すべて藪の内、蛇山草庵の道具。雪ふりにてよろしく道具納まる。
淨念

願以此功徳、平等施一切、能發菩提心、南無阿彌陀佛/\。(思入れ。)
これは、どなたも御苦勞でござります。


勘太

いやもう、私らは、同家中に勤めてゐる中から、懇な人ゆゑ、一倍氣の毒に思ふ のサ。


半六

さうでござる。殿樣の屋敷がだりむくつてから、この樣に齒磨賣つて世を渡つて、 今ぢやア町人の方が、はるかに増しでござるよ。


三吉

さう云へばお前方も、二本差で二百石も取つた衆だが、今では一日が又兵衞取り の職人とは、洒落れた身の上でござるの。


浪藏

それ/\。屋敷出の衆が、おいらの長屋へ引越して、庭仕事やら商人やら、よく 早く覺えたものだ。おいらは武士になつたら、さぞ腰が重からうと思ふの。


淨念

いやもう合長屋だけ、親切な事でござります。時に六部どのは、今日は江戸へ着 かしツたか。


源四郎

左樣でござります。生國は播州生れ。昨日お江戸へ着きまして、路々も聞いて來 ましたが六部宿をさつしやる庵室との事。逗留中お頼み申します。


淨念

イヤもう、ゆるりと江戸も見物さつしやるがよい。


源四郎

ハイ/\、左樣致して參りませう。


半六

アヽそんなら、六部殿は播州はどの邊でござる。


源四郎

ハイ、赤穗でござりまする。


浪藏

アヽ、鹽谷殿の御城下だの。


源四郎

左樣でござりまする。


[ト書]

(トこの聲を聞き、勘太半六は思入れあつて、)


二人

さういはつしやるは、源四郎殿ではござらぬか。


源四郎

これは眞壁、堀口の御兩所。ヤレ/\、久しうてお目にかゝりました。


勘太

先づは御健勝の段。


半六

お互ひに大慶に存じます。


源四郎

イヤもう、達者で居ると申すのみの儀でござる。お互に浪人仕り、亡君御菩提の 爲と存じ、廻國に出ましてござるが、各々方はそのお姿。未だよい主取りもござりま せぬかな。


勘太

左樣/\。いやもう、僅かな知行を取らうより、その日暮しが増しでござります る。


半六

私なぞは、商ひにかゝりまして。


源四郎

アヽ、左樣か。して、見ますれば百萬遍の樣子。それも町家の附合とやら申す儀 でござるかナ。


三吉

アヽ、これ六部さん、ぬし達は以前の朋輩だといつて、この庵に掛人の病人の、 祈祷の爲の百萬遍でござる。


浪藏

幸ひ、お前も念佛を助けて下さりませ。


半六

アヽ、コレ/\、さつぱり忘れてゐました。コレ、源四郎殿、この庵に掛人の病 人は、其許の御子息。


勘太

民谷伊右衞門殿でござります。


源四郎

ヤヽヽヽ、離縁致した女房の實子。江戸屋敷に勤め居つた、伊右衞門でござりま するか。


二人

左樣でござる。


淨念

エヽ、左樣なら病人殿の親御でござりまするか。さう致せば、あの阿母の爲には、 このお方はお連合かナ。


勘太

アヽ、モシ/\、その話は少し御遠慮/\。


[ト書]

(ト云ふなといふ思入れ。この時、紙帳の中で、バタ/\して病氣の態の伊右衞 門にて、刀を引提げ、紙帳を切つて、熱にうかされ、正氣を失ひ走出て、)


伊右衞

おのれ、お岩め、立ち去らぬか/\。


[ト書]

(ト刀を拔かうとするを、居合す大勢、これを留めて、)



又、起りましたか。氣を鎭めてござりませ。皆が居ますぞ/\。


[ト書]

(トとりすがつて留める。伊右衞門、皆々の顏を見て、胸撫でおろし、)


伊右衞

アヽヽ夢か。ハテ、サテ、恐しい。まだ死なぬ先に、この世からアノ火の車へ。 南無阿彌陀/\。(ト思入れ。)


源四郎

こりや、ヤイ、伜、わりや、この親が目にかゝらぬか。


伊右衞

ヤ、まことにお前は親仁樣。どうしてこれへ。


源四郎

年寄つて浪人すりや、二君に仕へる所存もなく、後世を願うて廻國修行。


伊右衞

すりや親人には、主取りなさらぬお心がけとな。


勘太

我々とてもその通り、よしなき企て致さうより。


半六

其日暮しが眞に氣樂さ。


源四郎

シテ、其方が、病氣の起りは。


伊右衞

僅かな女の死靈の祟り。


源四郎

ハテ、サテ、それは難儀であらうに。何れも方の何かはとお世話。シテ、少しも。


伊右衞

ハイ、心よいやら惡いやら、折に觸れては熱の差引き。どうで此身は浪人の、有 附きあるまで庵主のお世話。


源四郎

存ぜぬこととて、何かとあなたの。


淨念

イヤ、もう、御懇ゆゑ、愚僧が方に。


源四郎

然らば拙者も暫く御庵に。


伊右衞

どうでこの雪のやむまでは、親も伜も掛人。どなたも後かた。


皆々

また念佛を。


伊右衞

お頼み申します。


[ト書]

(ト唄、時の鐘になり、淨念、案内して、源四郎、その他、四人の人數、皆々奧 へ入る。伊右衞門殘つて思入れ。上の方の障子をあけ、お熊、出來り、)


お熊

コレ、伊右衞門、縁の切れた親仁殿。思掛けなうこの庵へ。妾も離別のその後は、 高ノの家へ取入つて、頂戴したる、あのかき物。今にでも持つて行きや。大なり小な り、御褒美ぢやが、そなたに渡したあの墨附、必ず共に。


伊右衞

どうで長らくこの庵に、掛つても居られぬ故、平内殿を頼込み、近々高ノへ有り 附く手段。それもお前の下さつた、御判の据つた書物ゆゑ。


お熊

それは耳より。しかし、高ノへ奉公と聞いて、眞面目な親仁殿、妾が心にかなは ぬ事を。


伊右衞

それも合點。いづれ近々この身の落付き。それは格別。シテ、母人はいつもの鼠 が。


お熊

イヤもう、今日も數多の鼠。これも大方。


伊右衞

子年のお岩が、親子の者を苦しむる。思へば/\執念深い。


[ト書]

(ト思入れ。かすめたる禪の勤め。雪降つて來る。向うより小林平内、半合羽、 大小、下駄傘にて、赤合羽の中間、挾箱をかつぎ、同じ侍一人、菅筈、合羽にて出來 り、門口へ來り、)。


平内

この庵室に同居のお方、伊右衞門殿に用事がござつて。


伊右衞

(トこれを聞き、)
コレハ、小林平内殿。この大雪に、サヽ、これへ。


平内

免しめされい。


[ト書]

(ト思入れ。上座へ通るお熊下に控へる。)


[平内]

この程内談致せし通り、貴公御所持の殿の墨附き、拙者も披見のその上にて、い よ/\御判に相違なき事ならば、貴公を同道致せよとの仰せ。お目見得の節の用意の 衣服、大小、相添へ。家來、その品。


中間

ハツ。


[ト書]

(ト衣服、大小を廣蓋に載せ、差出す。お熊、受取り、嬉しさうに持ち行き、)


お熊

これは/\、あなた樣、このまア、雪に、御苦勞に存じまする。(トよき所へさ しおく。)


平内

伊右衞門殿、殿よりの下され物。受納おしやれ。


伊右衞

忝う存じまする。然らばお目見得の儀は、貴殿方より。


平内

それも其許所持おしやる、殿の御判の据りし墨附き。披見致さう。


[ト書]

(トこれにて、伊右衞門思入れあつて、)


伊右衞

サア、その墨み附の儀は、かゝる他人の入込む草庵。殊には病中。それ故外へ預 け置きましたれば、後方迄に。


[ト書]

(トお熊心得ぬ思入れにて、)


お熊

コレ/\伜、あれほど其方に渡した大事の。


伊右衞

ハテ、お氣遣ひなされまするな。いづれ後方、御披見あつて。


平内

然らば拙者は、又ぞろこれへ。必ずともに、その節は。


伊右衞

お目に掛けるでござりませう。御前宜しう。


平内

お暇致さう。


[ト書]

(ト合方、時の鐘にて、件の品は殘して、家來を連れ、引返して入る。お熊差寄 り、)


お熊

コレ、伜、あの大切な書物を、其方はなんで。


伊右衞

それもやつぱり、この身の爲に。訴人せうと申した秋山、あの品渡して少しの中 を。


お熊

すりや、かの品で。


伊右衞

取返し參ります。お氣遣ひなされまするな。


[ト書]

(トお熊思入れ。此時、暮六つの鐘が鳴る。)


お熊

ありヤもう、暮六ツ。


伊右衞

お前も私も、熱氣の時刻。冷えない樣になされませ。


お熊

わが身を大事に。


伊右衞

ドリヤ、明をつけませうか。


[ト書]

(ト思入れ。時の鐘。唄になり、お熊寢間の障子屋臺へ入る。伊右衞門、ありあ ふ行燈へ灯をともし、門口をあけて、)


[伊右衞]

アヽ、積つたわ。眞白になつたな。


[ト書]

(ト思入れ。あたりを見廻す。門口に菰をかむり、雪を負うて、長兵衞寢てゐる。 伊右衞門、よく/\見て、)


[伊右衞]

アヽ、この大雪に軒下の宿無し。初雪の樽拾ひよりも、みじめな態だ。(ト思入れ。臺詞いひながら流れ灌頂に向ひ、卒塔婆を見て、)
戒名つけても俗名は、やはりお岩としるし置くは、世上の人の回向なと、受けたらよもや浮かまうと、あとの祭りも、怖さが一倍。産後に死んだ女房子の、せめて未來を。


[ト書]

(ト思入れ。手桶の中の柄杓を取つて、立ちよる。こゝにて、寢鳥、薄ドロ/\、 一ツ鉦なる。伊右衞門、白布の上へ水をかける。この水、布の上にて、心火となる。 伊右衞門、たじ/\となる。ドロ/\烈しく、雪しきりに降る。布の中より、お岩、 産女の拵へにて、腰より下は血になりし體にて、子を抱いて、現はゝ出る。伊右衞門、 ふツと見て、恟ツとして、後へ退り、入替つてお岩、上の方へ行く。此時、お岩の足 跡は、雪の上へ血にてつける事。伊右衞門、後退りに中へ入る。お岩、ついて入る。 中には、引きちぎりし紙帳、よき所に散しある。その上を、お岩歩む。こゝへも血の 足跡つき、よろしく。お熊が寢てゐる方をも、ヂロリと見やつて、恨めしげに立ち身。 伊右衞門さし寄つて、)


伊右衞

ハテ、執念の深い女。コレ、亡者ながらも、よく聞けよ。喜兵衞が娘を嫁に取つ たも、高ノが家に入込む心。義士の面々、手引きしようと、不義士と見せても心は忠 義心、それを、あざとい女の恨み。舅も嫁も俺が手に、かけさせたのも汝がなす業。 その上、伊藤の後家も乳母も、水死したのも死靈の祟り。殊に水子の男子まで横死さ せたも、根葉を斷やさん亡者の祟りか。エエ、恐しい女めだな。


[ト書]

(トきつと云ふ。お岩、この時抱きたる赤子を見せる。伊右衞門、思入れあつ て、)


[伊右衞]

ヤヽヽヽ、そんなら、あの子は亡者の手しほで。(ト思入れ。嬉しげに赤子を受取り、)
まだしも女房、出かした/\。その心なら浮かんでくれろ。南無阿彌陀佛/\。


[ト書]

(ト子を抱いて念佛申す。お岩、此時、兩手にて耳を押へて、聽入れぬ思入れ。 この時、門口に伏したる野臥りの長兵衞、襲はれ聲にて、上る。)


長兵衞

アヽ、また鼠が。畜生め/\。


[ト書]

(ト跳ね起きて、追散らす。ドロ/\にて、鼠數多むらがり、障子の中へ入る。 此とたん、お岩、美事に消ゆる。伊右衞門、恟りして抱きたる赤子を取落す。此子は 忽ち石地藏となる。障子の中にて、お熊の呻り聲する。伊右衞門、こなしあつて、)


伊右衞

ハテ恐しい。


[ト書]

(ト思入れ。ドロ/\、打上る。長兵衞内を見て、)


長兵衞

コレ、そこに居るのは、伊右衞門殿か。


伊右衞

秋山殿。ヤレ/\、こなたを尋ねる最中。これ、貴樣に渡した書物にて、高ノの 家にあり附けた。早くあの品、戻して下さい/\。


長兵衞

サア/\、戻すよ/\。俺もこなたに無心いうて、金の代りのあの墨附き。持つ て歸つた其夜から、どこからうせるか多くの髮。鼠の毛、爪まで噛られて、眞に難儀 だ。返してしまはう/\。


伊右衞

スリヤ、こなたへも、鼠がついたか。アヽ、これもお岩が。(思入れ。)
南無阿彌陀佛/\(思入れ。)
サ、返す氣ならば、あの書物を。


長兵衞

返しは返すが、貴樣の仕業で多くの人を殺したる、既にその科此方へ掛つた。殊 に官藏伴助まで、皆卷添への人殺し。コレ/\、民谷、これには大方、譯があらうナ /\。


伊右衞

サア/\、その譯といふは、元、俺が母が、高ノの家中の娘ゆゑ、師直樣へ

[_]
[1]
がよきに伜の俺が浪人の身を苦に病んで、高ノの家へ仕官の願ひ。それが此節、聞濟みあつて。


[ト書]

(ト件の話の中、よき時分より、長兵衞の頭の上へお岩の死靈、逆さまに下り來 り、長兵衞の襟にかけゐたる手拭にて、長兵衞を縊り殺す。長兵衞、聲を立つる故、 お岩長兵衞の口を押へて、長兵衞落入る。右の死骸を、お岩件の手拭にて、欄間の中 に引込む。伊右衞門、これを知らず、此時ふつと見つけて、恟りして立寄らんとする。 此時、天井より血汐タラ/\と落ちる。伊右衞門、キツト見上げて、)


伊右衞

これ、お岩が。


[ト書]

(ト思入れ。此時、上より、長兵衞が預りし書物、落つる。伊右衞門、手早く取 つて、)


[伊右衞]

こりヤ秋山へ預けし墨附き。これさへあれば。


[ト書]

(ト思入れ。此時、向うよりバタ/\になり、小林平内、身輕になり、捕手四人 從へ走り出て門口へ寄り、)


平内

伊右衞門殿/\、先刻の契約、披見のために早速これへ。


伊右衞

それは御苦勞。さりながら、貴公の出立ち、何とも以て。


平内

かゝる姿も高ノの家中、伊藤喜兵衞が親子の者共、殺害なせしは關口官藏、下部 伴助の二人が仕業と、早速召捕り、路にて預け、ついでに書物披見の爲、サヽ、少し も早う。


伊右衞

然らばこれにて、内見あつて、


[ト書]

(ト差出す。平内、受取る。此時、薄ドロ/\。件の墨附きを開く。いつの間に かこの書物、鼠喰にて、御判文言喰ひちらしある體。平内は恟りし、)


平内

ヤヽヽヽ、こりやコレ、御判も文言も、鼠の齒にて喰ひ裂きあれば、反古も同然。 こりやどうぢや。


[ト書]

(ト呆れる。伊右衞門取つて、よく/\見て、)


伊右衞

眞に喰ひ裂く鼠の仕業。これもお岩が死靈の業か。ハテ、是非もない。(ト思入れ。)


平内

役にも立たぬ暫時の隙入り。此旨、主人へ言上致さん。さすれば最前渡せし品々。 家來ども、取上げい。


捕手

ハア。(ト件の廣蓋のまゝ、取上げる。)


伊右衞

スリヤ、下されし品々まで。


平内

持歸つて右のあらまし、披露致さん。餘りと申せばたはけた民谷。イヤ、馬 鹿々々しい。


[ト書]

(トあざ笑ふ、時の太鼓になり、捕手を連れ、向うへ入る。伊右衞門見送りゐる。 此時、源四郎出掛り覗ひゐる。)


伊右衞

折角、母の志、この身の出世のこの墨附き。鼠の仕業も、お岩めが死靈の祟り。 モウ此上は立てた卒塔婆も。


[ト書]

(ト門口へ行かうとする。覗ひゐたる源四郎、走り寄つて伊右衞門を引留め、き つとなつて、)


源四郎

コリヤ伜、わりや腹立つて、あの卒塔婆を、臑にもかけん心ぢやナ。


伊右衞

施餓鬼回向も聞き入れぬ、あの亡者め。戒名なりと。


[ト書]

(ト行くを、引ツとらへて、)


源四郎

ヤイ、道わきまへぬ不忠者めが。(ト思入れあつて、)
コリヤ、ヤイ、聞きわけのない亡者より、無得心な不義士のおのれ。あの母親が縁につれ、敵高ノの館へ取入り、奉公願ふ道知らずさすれば親の身共まで、不忠の汚名を取るわいやい。エゝ見下げ果てたる畜生め。


[ト書]

(ト思入れ。伊右衞門こなしあつて、)


伊右衞

御仁どの、敵の館へ諂らうも、義士の輩手引きのために。


源四郎

まだ吐すか。何のおのれに其の一言。この親は、エヽ聞くまい。かゝる未練な民谷 の一族、武士の風上にも置かれぬ奴。親が手にかけ。(ト腰刀拔かんとする思入れあつて、刄物なきゆゑ、)
以前にあらぬ、今は出家も同然な、人に物乞ふ修行の身。 (ト思入れあつて、邊りの伏せ鐘の撞木を取つて、伊右衞門をしたゝか打つて、きつとなつて、)
勘當ぢや。親でも子でもない。おのれ。


伊右衞

エヽ、左樣なら親仁樣、アノ、私を。


源四郎

親ではない。エヽ、勝手にしをれ。


[ト書]

(ト撞木打ちつける。唄、時の鐘になり、源四郎、思入れあつて、奧へ入る。伊 右衞門殘つて、)


伊右衞

昔氣質の偏屈親仁。勘當されたも、やつぱりこれもお岩の死靈か。(思入れ。)
イヤ、呆れたものだ。


[ト書]

(ト思入れ。その時、障子の中、物音してお熊、苦しむ態にて、)


お熊

アレ/\、鼠が/\。


[ト書]

(ト狂ひ出て、のた打ち廻る。所々に鼠群がる。薄ドロ/\。伊右衞門、介抱し て、)


伊右衞

コレ/\阿母、心を確かに、氣を確かに。コレ阿母。コレ。エヽ、畜生め。


[ト書]

(ト思入れ。撞木を取つて鼠を逐散らし、)


[伊右衞]

モシ。又刻限だ。お頼み申します/\。


[ト書]

(トこの聲に、淨念はじめ以前の四人が出來り、)


淨念

起りましたか/\。ちつとも早く、お念佛/\。


四人

心得ました/\。(ト苦しむお熊を珠數の中に取りこめ、)サア、お念佛/\。


淨念

南無阿彌陀佛。


四人

南無阿彌陀ン佛/\。


[ト書]

(ト伊右衞門も珠數に取附き、百萬遍になる。お熊、矢張、苦しむ。薄ドロ/\。 よき時分にお熊が側へお岩、ホツと現はれ、お熊を捕へて、惣身をゆすり/\、種々 と引廻す。お熊、これにて苦しむ。皆々、これを知らず。)


伊右衞

サア/\、念佛々々。


[ト書]

(ト思入れ。皆々念佛申す。お岩、伊右衞門が顏をきツと見つめながら、お熊を 苦しめる。)


[伊右衞]

又も死靈の、眼前に。サヽ、念佛々々。


[ト書]

(ト思入れ、皆々繰りかけ/\唱ふる中、お岩、お熊を捕へて、咽喉へ喰ひつき、 喰ひ殺す。伊右衞門見つけて、)


[伊右衞]

ヤヽヽヽ、母ぢや人をこの樣に。


[ト書]

(ト思入れ。立ちかゝる。お熊が喉、糊紅にて皆々、わツというて、珠數投捨て、 奧へ走り入る。伊右衞門、刀を取つて、)


[伊右衞]

おのれ、死靈め。


[ト書]

(ト思入れ。拔いて斬りつける。お岩、ドロ/\にて、伊右衞門を苦しめ/\、 下の方へ後ずさりに來り、壁のあたりへ寄る。伊右衞門これを見て、たじ/\として、 上の方の障子へ、トンとこけかゝり、障子、倒るゝと、一度のとたん、この内に源四 郎が首掛りして、下り、お岩見事に消ゆる。一度の仕組み。伊右衞門見つけ、)


[伊右衞]

ヤヽヽヽ、親仁樣にも首かゝり。二親ともに暫時の中に、エヽ、淺ましきこの骸。 これも誰ゆゑ、お岩めゆゑ。エヽ口惜しい。


[ト書]

(ト無念のこなし。向うより、官藏伴助走り來り、内へ駈込むゆゑ、恟りして飛 退く。後より平内、捕手を引き連れ、覗ひ/\、つけて來り、門口に覗ひ居る。)


官藏

伊右衞門殿/\、こなたの舊惡何もかも、拙者が業と云ひ立てゝ、伴助までも繩 かゝり。


伴助

お前のお身に科もなく。いひ拔け立つて事納まり、油斷を見濟まし繩拔けして、 こゝまで來ました。


官藏

ちつとも早くこの隙に、落ちさつしやい/\。


[ト書]

(ト兩人せりたつていふ。)


伊右衞

何かと貴公の心遣ひ。然らばひと先づ、此場を落ちのび。


二人

影を隱さつしやい/\。


伊右衞

合點だ。(思入れ。)
しかし路銀を。


二人

捕つた。


[ト書]

(ト伊右衞門にかゝるを、拔討ちに二人を斬て捨てる。)


伊右衞

その手はくはぬ。俺もさうとは。


平内

そりや。


捕手

捕つた/\。


[ト書]

(ト伊右衞門へ掛かるを、すかさず、切り立て、美事に殘らず斬捨る。尤も、組 子の後より赤合羽菅笠の中間態の者、此中へ交りゐて、門口に覗ひゐる。伊右衞門、 身ごしらへして、)


伊右衞

死靈の祟りと人殺し。どうで遁れぬ天の網。しかし、一旦、遁れるだけは。


[ト書]

(ト門口へ出かける。菅笠の中間、外より雪を礫に打つ。心得て、刀を拔き放す。 此時合羽菅笠脱ぎ捨てる。と與茂七、伊右衞門と一寸立廻つて、きつと留める。)


與茂七

民谷伊右衞門、こゝ動くな。


伊右衞

ヤ、われは與茂七。なんで身どもを。


與茂七

女房お袖が義理ある姉、お岩が敵の其方ゆゑ、この與茂七が助太刀して。


伊右衞

いらざる事を。そこ退け、佐藤。


與茂七

民谷は身どもが。


[ト書]

(ト思入れ。立廻つて、きツとなる。これより、薄ドロ/\、心火立昇り、兩人 立廻りの中、伊右衞門を苦しめる。思入れ。此時、鼠數多現はれ、伊右衞門が白刄に 纒ひ、思はず白刄を取落す。すかさず與茂七、伊右衞門に斬りつける。立廻りよろし く、兩人きツとなつて、)


與茂七

これにて、成佛得脱の。


伊右衞

おのれ、與茂七。


[ト書]

(ト立ちかゝる。ドロ/\、心火と共に、鼠むらがり、伊右衞門を苦しむる。與 茂七、つけ入つて、きツと見得。ドロ/\烈しく、雪しきりに降る。この見得に て、)



このあと雪を用ゐて、十一段目、芽出度く夜討。
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