University of Virginia Library

三幕目
砂村隱亡堀の場

本舞臺。後、黒幕。高足の土手。上の方、土橋、その下に腐りし枯蘆、干潟 の體。こゝに。お弓、お槇、非人の形。焚き火に刺股を立て、土瓶を吊し、舞臺は、 流れ川の體。よき所に樋の口、石地藏、稻むら、松の大樹、吊り枝。水草腐り、すべ て十萬坪隱亡堀の景色。禪の勤め、時の鐘にて、幕開く。
[ト書]

(トお弓、病氣の態。乳母お槇介抱してゐる。)


お槇

若し、御新造樣、只今の御樣子は宜しい樣でござりまするか。


お弓

イヤなう、案じてたもるな。いつもよりは別して心よい程に、案じてたもるな。 只、心に懸かるは行方の知れぬ民谷伊右衞門。何の遺恨に、親人樣娘までも殺害なし、 恩を仇なる人非人。わしや、腹が立つわいの/\。


お槇

御尤もでござりまする。よしない者を聟がねとなされた故に、伊藤のお家は、師 直樣からお取上げ。非人となつてこの樣に、伊右衞門樣の行方を詮議。乳母の妾が付 添ひましての御奉公。必ず/\、きな/\思召さぬが宜しうござりまする。


お弓

それ程までには以前を忘れぬ志、召使とは思はぬわいの。(ト懷より件の守袋を出し、)
コレ、この守は、娘が横死の砌りまで、肌につけしお守なれど、あの樣なる時節にも、守の寄特のないといふは、眞に死ぬる約束か。今々思へば、このお守、恨めしいわいの。


お槇

アヽ、もし、また愚痴な事仰しやりまするか。その樣なお心をお出しなされては、 あのお子樣のお爲にもなりませぬ程に、いつもの樣に、御回向なされてお上げなされ ませ。妾はお夜食のこしらへ致しませうか。


[ト書]

(ト木魚入りの合方になり、お槇は、布袋の中より米を出し、邊りより小さき小 桶を出し、川水をすくひ、米を洗ふ。お弓、守を刺股の竹へ吊し、回向する思入れ。 此鳴物にて、向うより、佛孫兵衞、卒塔婆を持ち、川の方を心づけ、死骸やなきかと 尋ねる心にて出で來り、二人を見て、)


孫兵衞

アヽ、なんぢや。この衆は物貰ひにしては、さて人柄の好い女非人。コレ、此方 衆は、この川端に居やるからは、ひよつとこゝへ、あの杉戸に縫うたる、男と女の浮 死骸が流れては來はせぬか。どうぢや/\。


[ト書]

(ト兩人聞いて、)


お弓

イヤ/\、見當りませぬが、その又死骸を、何でお前は、尋ねてござつたぞ。


孫兵衞

コレ、聞いて下され。私が伜がさる武家方へ奉公に行きをつたが、先から駈落、 今に行方が知れませぬ。今日聞けば、女と男の浮死骸、戸板に打付け流るゝときつい 評判。もしや、伜がそのやうな目に、遭ひはせぬかと心ならず、そのやうな事、内へ 歸つて話しては、嫁や孫が案じ居らうと、云はれはせず、内密で、靈岸樣へ御參り申 し、御回向願うて、この塔婆。息災で居をれと祈祷し、もし、死に居つたらと思ふか ら、戒名もつけて貰うて、出た日を命日。アヽ、うとましの娑婆世界。南無阿彌陀佛 /\/\。(ト思入れ。お弓これを聞いて、)


お弓

アヽ、いづれを聞いても、悲しい話。世間にはまた。似たことも。


お槇

まゝあるものでござりまする。お前樣は、そのお守御覽の度に物おもひ。コリヤ、 こう致しませう。妾が明日早々、靈岸寺へ持參いたして、納めて參りませうわいなア。


お弓

成程、その樣なものかいなう。持つてゐる程、涙の種。娘が事を忘れかね後生に もなるまい。そんなら納めて來やいの。


お槇

左樣いたしませう。晩程早々御參り申して參りませう。


[ト書]

(ト何心なう、守を取つて、臺詞の中、よき所へ置き、風の音して、蘆間、ざわ /\と動めき、大きなる鼠一匹出て、件の守を喰へ行くを、二人見つけ、)


お弓

それ/\、鼠が守を。


お槇

これはしたり、どこから鼠が。


[ト書]

(思入れ。ト取返さんと、追廻す中、鼠は守を喰へしまゝ、川へ飛込む。お槇、 うろたへ、)


[お槇]

アレ/\、鼠が。


[ト書]

(ト手を伸ばして、捕へんとして、干潟の沼故、ずる/\川へ落ちんとする故、 お弓、うろたへ、お槇が帶の端を捕へ、)


お弓

アレ、危ないわいなう/\。


[ト書]

(トいへども及ばず。居合す孫兵衞、捨白にて、手傳うて、お弓の帶をとらへ、 次になつて引戻す。この時、お槇の帶の端、切れて、お弓の手に殘り、お槇は川の中 へ落つるを見て、お弓、件の干潟へ氣を失うて倒るゝ。孫兵衞駈寄り、介抱して、)


孫兵衞

コレ/\、物貰ひの女中。氣をつけさつしやれ。(ト思入れ、種々あつて、)
これはしたりあの鼠が出た故、一人の女中は思はず川へ。殘つた女中も、氣を失うて。コリヤ、怪しからぬことぢや/\。(ト狼狽へ廻り、)
いや/\/\、通りかゝりの袖乞女、俺もなまなか、係合になつては迷惑。と、いうて、捨てるも氣の毒。(ト思入れありて、)
アヽいづくの女か、ハテ氣の毒な。(ト傍にありし赤合羽をとつて、お弓に打着せ、塔婆を持つて、)
ヤレ氣の毒な。人の事見て、わが身の上。アヽ、伜めはどうし居つたぞ。


[ト書]

(ト思入れ。佃節になり、孫兵衞、氣をかへ、下座へはひる。此鳴物にて、向う より、直助權兵衞、鰻かきの拵へにて、あつらへのヤスをかつぎ、浮に使ふ樽をもつ て川の邊を見やり/\出て來り、花道にて、)


直助

さて、今年のやうな、篦棒に、漁のないことは覺えぬ。したがこゝらはどうか。 水の濁りが好ささうな。ドリヤ、こゝをやつて見ようか。


[ト書]

(ト舞臺へ來り、川の中へはひり、腰だけになつて、かく事。此うちかすめた佃 節聞え、直助捨白よろしく、鰻かきに何やらかゝりし故、とり上げ見る。前幕の落毛 少々。此うちに件の鼈甲の櫛、からみ上がる。直助とつてよく/\見て、)


直助

何だ、毛が引ツかゝつて來た。なエヽ薄汚い。(思入れ。ト捨てんとして櫛を見つけ、)
ヤアこいつは鼈甲だ。滿更でもねえ。どれ、磨いて見ようか。


[ト書]

(ト土手へ上がり、石地藏のきはへ來り、稻叢の藁をとつて、櫛をふいて思入れ。 煙草のみ付け、磨き居る。かすめし佃の鳴物にて、向うより孫兵衞女房お熊、木綿や つし、世話婆にて、これも塔婆を持ち、後より伊右衞門、深き竹の笠、浪人の形、大 小をさし、魚籃をさげ、釣道具をかつぎ、出で來り、舞臺際まで來り、)


伊右衞

モシ、母ぢや人、お前も御健勝で、まア/\、お芽出度うござります。


お熊

イヤ、もう、妾も、そなたの惡い噂を案じてゐましたが、マア/\、息災の樣子 を見て、安堵しました。知りしやる通り、昔の連合ひ、近藤源四郎殿と離別してより、 師直樣へお末奉公。その砌り顏世どのを、御前樣へ取持たうとかゝつて見たが、しぶ とい顏世が剛情ゆゑに鹽谷の騒動。その節、師直樣の仰しやつたは、その方もしや、 後々に難儀な身分となつたなら、これを證據に願うて來いと、コレ/\。(ト懷の風呂敷包より、書物を出し、伊右衞門へ渡して、)
これは、アノ、御前樣の御判の据りし御書物、師直樣のお直筆。いはば、妾へのお墨付。幸ひ、わが身は浪人の事。願うて出たなら、そなたの難儀を救はうとは思うても、今の亭主は、鹽谷の屋敷の又者ゆ ゑ、知られてはと思ふ中、民谷伊右衞門といふ浪人が、女房のお岩といふを殺し其上 に、隣屋敷の親子を殺害して、立退いたといふ噂まち/\。それ故に、この樣に。(ト思入れ。卒塔婆を見せ、)
これ見や。俗名民谷伊右衞門。そなたは死んだと、噂をさせるその爲の、此卒塔婆立てて置くのは、何と智慧者であらうがの。


伊右衞

これは/\、母ぢや人のお志、先づは大慶。併し隣家の喜兵衞、娘のお梅を、殺 したるも死靈のわざ。それゆゑ工夫を廻らして、親子の者を害せしは、朋輩の官藏、 彼が小者、兩人の者に塗りつけて置くからは、よもやこの身にかぶれも來まいが、マ ア/\お前の氣休め。そこらへ立つて置かつしやりませ。


お熊

合點ぢや/\。人目に立つやう、この土手の此處らへ立てゝ、(ト思入れ。よき所へ立て置き、)
コレ伜、妾が住家を尋ねんと思へば、アノ深川の寺町で、佛孫兵衞 と云ふ苦しがり、必ずともに尋ねて來や。


伊右衞

心得ました。この間に尋ねませう。私は當分、本所蛇山庵の坊主を頼み、暫く食 客。


お熊

そんなら伜、こなたの在家へ。


伊右衞

尋ねさつしやりませ。


[ト書]

(ト木魚入りの合方になり、お熊、卒塔婆を殘し、とつかはとはひる。この中、 直助、片傍にまじ/\聞いてゐる。伊右衞門川を見廻す。入相鳴る。)


[伊右衞]

アヽもう入相か。どりや、此處らへ下ろして。


[ト書]

(ト釣竿二三本、川へ下ろして、煙管を出し、思入れあり。直助が煙草のみゐる を見て、)


[伊右衞]

火を借りませう。


直助

お點けなさりませ。


[ト書]

(ト思入れ。兩人吸ひつけるとて、直助笠の中を伺ひ見て、)


[直助]

若し、伊右衞門さん、お久しうござります。


伊右衞

ヤ、さういふ手前は直助か。


直助

アイ、その直助も今では改名、鰻かきの權兵衞。モシ、伊右衞門樣。いはばお前 は、私が爲には姉の敵と云ふところだね。


[ト書]

(トいはれ、伊右衞門恟りして、)


伊右衞

洒落か、無駄かは知らねえが、何で身どもが手前の敵。


直助

ハテ、忘れなすつたか。私が女房の姉と云ふのは、四ツ谷左門が娘のお岩。私が 女房は妹のお袖。そんなら滿更私とお前は敵同士。此處で遭うたが優曇華の、女房が 姉のお岩の敵、民谷伊右衞門、イザ立上つて勝負なせ。といふところだが、そこを云 はねえの。その代りには、わしが又、出世をする話が出來ると、今のお前の貰はしつ た、師直樣の書物を、わしが借りに行きやす。その時必ず、知らねえ顏をなされます るなよ。


伊右衞

どうして/\。その時はわれにも遣らうが、俺もあり樣は、出世の種を。


直助

種をまくなら、權兵衞が、ほぢくり出してもからんで行きやす。


伊右衞

そりやア承知サ。手前と俺が仲だもの。ナニ、その時に、


[ト書]

(ト話の中に、釣の糸に、魚のつきし樣子にて、ひく/\と引く。伊右衞門、手 早くあげる。小鮒、かゝりゐる。直助見て、)


直助

アヽ、出來たな。


[ト書]

(思入れ。トまた、ひく/\と動く。)


直助

そりや又、かゝつたわ。


[ト書]

(思入れ。ト大きな聲で云ふ。伊右衞門上げる。今度は、大きなる鯰、上がる。 伊右衞門、取らうとしてはね上る。)


直助

アヽ、それ/\、逃げるわ/\。


[ト書]

(ト側にて煽り、手傳うても、ぬらつく故、直助、立てゝある卒塔婆を取つて、 鯰を押へんとして、やう/\押へ、持つたる塔婆は邊りへ捨つる。此時、氣を失ひた るお弓があたりへどうと落ちる。この前よりお弓心づき、胸を押へ居たりしが、此時、 思はず卒塔婆を取上げ、よくよく見て、)


お弓

ヤ、卒塔婆にしるせし戒名の、下には俗名民谷伊右衞門、そんなら、若しや父さ んと、娘を殺せし民谷はこの世を。


[ト書]

(ト思入れ、この聲を伊右衞門聞いて、お弓を見つけ、扨はと笠にて顏を背け、 直助が袖を引き、土間へ煙管にて、何やら書いて見せる。直助呑込み、お弓これを知 らず、思入れあつて、)


お弓

モシ/\、貴方樣、ちとお聞き申したい事がござります。


直助

アヽ、何だえ。


お弓

外でもござりませぬが、こゝに立つてござりまする卒塔婆に,民谷伊右衞門とご ざりまするが、此人は病死でも致しましたのでござりまするか。(ト聞きかける。直助何心なく、)


直助

ナニ、滅法界な。伊右衞門さんは死にはせぬ/\。コレ、こゝに。


[ト書]

(トうか/\云はうとする。伊右衞門、袖を引き、死んだといへ/\といふ思入 れ。直助心づき、)


[直助]

ほんに、死んだ/\。コレ、死んだによつて、塔婆を立てたのだ。生きてゐる者 にナニ、卒塔婆を立てるものか。死んだ/\。


[ト書]

(ト無性にいふ。お弓こなしあつて、)


お弓

シテ、そりや何時頃の事でござりました。


直助

アヽ、そりや何よ。たしか今日が大方、それ/\四十九日だ。


お弓

エヽ、そりや相果てまして四十九日に。


[ト書]

(ト思入れ。無念泣きに、泣き入る、直助見て、)


直助

コレ/\、そのやうに泣くのは、こなたの兄弟か、亭主か、何だ/\。


お弓

イエ/\、私が親と娘を、この民谷伊右衞門と申す者が、殺害致して行方知れず。 その敵たる伊右衞門、女なりとも、おのれやれ、一太刀なりとも恨みんと、かやうな 姿になりまして尋ねまする。その敵が病死と聞いては、願ひの綱も切れ果てゝ。


[ト書]

(ト無念の思入れ。伊右衞門、聞いて、直助へ又書いて見せる。)


直助

コレ/\、非人の女中、よし又伊右衞門が生きてゐても、あの人は敵ぢやない/ \。


お弓

エヽ、して、民谷をのけて、誰が敵でござりまする。


直助

コレ、眞、殺したその相手は、秋山長兵衞、關口官藏、家來が一人、こいらが、 殺したのだ。ナニ、伊右衞門さんは殺しはせぬの。


お弓

そんなら、あの時仲人せし、あの兩人が仕業なるか、何の恨みで、父さん。娘、 思へば思へば口惜しい。


[ト書]

(トきつとなる。伊右衞門、よき時分よりそろ/\立つて覗ひ來り、此時脛にて、 お弓を蹴る。思はず前なる川へ落ち、水音して姿深みへ落入る態。兩人、顏を見合 せ、)


直助

伊右衞門さん、成程お前は。


伊右衞

此剛惡も見やう見眞似の。


直助

誰を見眞似に。


伊右衞

お主がしぐさを。


直助

アノわしが平常を。


伊右衞

見習つた爲よ。


直助

眞に感心。(思入れ。)
奇妙。


[ト書]

(ト唄。時の鐘になり、直助、思入れあつて下座へはひる。)


伊右衞

いらざる所に、うせたばかり。おれも、殺生。(思入れ。ト此時、釣糸をびく/\引く。手早く、引上げて、)


[伊右衞]

南無三、餌を取られた。


[ト書]

(ト竿替へる思入れ。禪の勤めになり、向うより秋山長兵衞、頬冠りに面を隱し、 キヨロキヨロとして、出て來り、伊右衞門を見つける。)


長兵衞

民谷氏、こゝにござつたか/\。


伊右衞

これさ、密かに/\。(ト思入れ。)


長兵衞

コレ/\、伊右衞門殿、こなたが、お岩と小平を殺し、又、その上に喜兵衞親子 も、殘らずこなたのしたこと。俺ら主從三人へ、思ひがけなき疑ひかゝり、もう此上 は身ばれと存じ、此處から直ぐにお上へ訴へ、あの人殺しは民谷が業、伊右衞門でご ざりますると貴公の舊惡、一々云ひ上げ、俺らが身拔けをせねばならぬ。必ず後で恨 まつしやるな。伊右衞門殿、斷りましたぞ斷りましたぞ。


伊右衞

コレ/\、そりやお手前、これまで懇に致した效がないと云ふもの。いはば、例 へに云ふ如く、人の噂も七十五日。その中には又、どのやうな風が。


長兵衞

コレ/\、そのあらましを申出す、それをこなたのいはるゝが、定めて嫌であら うと存じ、當分我等は遠國へ、影を隱すつもり。それでよからう/\。


伊右衞

サヽ、さう致せば手前も安堵。


長兵衞

然らば、こなたの安堵の代り、路金を貸しやれ。


伊右衞

ナニ、路金を。コレ日頃から苦しがりの身ども、どうして、金が。


長兵衞

工面は出來まい。出來ずばこの儘訴へに。


伊右衞

アヽコレ、そはれをこなたが。


長兵衞

いはぬ代りに路金少々。


伊右衞

どうして金は。


長兵衞

貸さずば直ぐに。(ト行きかゝる。)


伊右衞

アヽコレそれ云はれては。


長兵衞

路金はどうだ。


伊右衞

サア。


兩人

サア/\/\。


長兵衞

路金の工面は出來ぬのか。


[ト書]

(トいはれ、伊右衞門思入れあり。此時、お熊が渡せし書物を出し、)


伊右衞

コレ、この書物は、直師樣の御判のすわつた、墨附同然。おれが母から、かうい ふ廻りで。コレ。


[ト書]

(ト引寄せ、囁く。長兵衞、呑込み、)


長兵衞

成程、さう云ふ手堅い書物なら、路金の代りに當分身どもが。


伊右衞

預けるからは、金が出來たら、その時、引替へ。


長兵衞

承知した。民谷氏。(ト書物を懷中する。)


伊右衞

秋山殿。


長兵衞

氣を付けさつしやい。


[ト書]

(ト時の鐘、蟲の音の合方。書物を持つて長兵衞、向うへ走り入る。伊右衞門、 後を見送り、)


伊右衞

よしなき秋山うせたばつかり、口ふさぎに大事の墨附、あいつに渡してこの身の 舊惡。ハテ要らざる所へうせずとよいに。(ト思入れあり。)
南無三暮れたな。どりや、竿を上げようか。


[ト書]

(思入れ。ト凄き合方。薄ドロ/\時の鐘。此時雨窓を下ろして暗くなり、伊右 衞門、竿を上げてしまふ。此時、菰をかけし杉戸流れよる。伊右衞門、思はず引寄せ て、)


[伊右衞]

覺えの杉戸は。


[ト書]

(ト引寄せて、菰をとる。こゝにお岩の死骸、肉脱せし拵へ。此時、薄ドロ/\ にて、兩眼見開きゐて、鼠の喰へし最期の守を持つてゐる。伊右衞門、思入れあ り。)


伊右衞

お岩/\、コレ女房、許してくれろ。往生しろよ。


[ト書]

(思入れ。トこの時、お岩、伊右衞門をきつと見つめ、守袋をさしつけ、)


お岩

民谷の血筋、伊藤喜兵衞が、枝葉を枯さん、この身の恨み。


[ト書]

(ト守を差出し、手つまる故、伊右衞門怖毛立つて、手早く件の菰をかけて、)


伊右衞

まだ浮ばぬな。南無阿彌陀佛/\。この儘川へ突出したら、鳶や鴉の。(思入れ。)
業が盡きたら佛になれ。(ト戸板を引返し見る。後には、藻を被りゐる小平の死骸、伊右衞門見定めんとする。薄ドロ/\顏にかゝりし藻はばら/\と落ちて、小平の顏、兩眼を見ひらき片手をだし、)


小平

お主の難病、藥を下され。


[ト書]

(トヂロリと見やる。伊右衞門ぎよツとして、)


伊右衞

またも死靈の。


[ト書]

(ト拔打ちに死骸に斬りつける。ドロ/\にて、この死骸、忽ち骨となつて、ば ら/\と水中へ落ちる。伊右衞門、ほつと溜息ついて、ぎつとなる。と此時、バツタ リ音して、正面の稻叢押分け、直助權兵衞鰻かきを持つて、覗ひ居る。土手下の樋の 口より、與茂七、序幕の非人の形になり、桐油に包みし廻文状を襟にかけ、糸だてに 卷きし、一腰をかゝへ、覗ひ/\高土手に上る。伊右衞門、覗ひ見て、件の廻文状に 手をかけ、直助權兵衞、この中へ入る。三人、一寸立廻り。これより鳴物暗鬪になり、 三人暗がりの立廻り。直助權兵衞、鰻かきにて打つてゆく。與茂七、拔打ちに切る。 鰻かき切り折る。權兵衞と燒印ある柄の方、與茂七の手へ納まる。廻文状は、直助權 兵衞の手へ入る。三人、立廻りよろしく、足下に落ちありし魚籃を取つて三人手をか け、取上げる。薄ドロ/\になり、魚籃は忽ち人の面となり、籠の中より、心火、燃 上がり、此あかりにて三人、顏を見合はせ、はツとする。心火消え、ドロ/\打上げ、 暗くなる。木の頭。三人、三方へ別つてホツト思入れ。これをきざみにて、三方見や つて宜しく、)


拍子幕