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二幕目 雜司ケ谷四ツ谷町浪宅の場 同伊藤喜兵衞内の場
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二幕目
雜司ケ谷四ツ谷町浪宅の場
同伊藤喜兵衞内の場

本舞臺、三間の間。平舞臺。正面、暖簾口。下手に杉戸の押入。よき所に床 の間。上の方、障子内に蚊帳つりてあり。六枚の屏風を立て、いつもの所に門口。一 體造作そこねし家作。雜司ケ谷、四ツ谷町、民谷伊右衞門、浪人住居の體。四ツ竹節 の合方に、幕あく。
[ト書]

(トこゝに伊右衞門、浪人の形にて、仕入れ張灯を張つてゐる。下の方に佛孫兵 衞、木綿やつし、老けたる拵へにて、うづくまりゐるを、宅悦、件の按摩の形にて、 取りなしてゐる體、よろしくあつて、)


宅悦

もし/\、伊右衞門樣、左樣でも御座りませうが、そこが御料簡ものでござりま する程に、もう、一兩日のところを。


伊右衞

いや/\、待つことはならぞ/\。いはば、あの小平めは、取逃げ駈落ち。捕へ 次第に、身が手打ちにせねば、腹がいぬわえ。このやうな賃仕事を致し居るも、浪人 暮しの、コリヤ慰みと申すものぢや。主人が榮えてゐらるれば、鹽谷の家中民谷伊右 衞門、きつと致した武士ぢやぞ。なんと心得てをるのぢや。返答次第で年寄りとは云 はさぬぞよ。


[ト書]

(ト細工をしかけ、立ちかかる。)


孫兵衞

ヘイ/\、御尤もでござります/\。どのやうに仰しやりましても、この方に一 言も申しやうはござりませぬは、小平めが不屆。只今も仰しやりつける、その取逃げ 致した代物は、まアまア何々でござりまする。


伊右衞

何と申して、おのれらが存じた品ではないわ。この民谷の家に、先祖より持ちつたへ居る蘇氣精と申す唐藥。コリヤ外々には少けない藥種。腰膝拔けたる難病にも、忽ち眼前の不思議。浪人の身の不自由ながらも、外手へさへ渡たさぬ品。それを盗むで駈落ちひろぎ、コレ。(思入れ。ト拵へそこねし一腰を出し、)
このがた/\丸を、忘れて失せたあいつが一腰。雜物といふはこればかりだ。近所の衆も氣の毒がつて、今朝早く小平めが行方の詮議。俺も常なら駈出すが、何をいふも折わるい女房の初産故、人手が欲しさ、雇つた小平め。却つて主に手をつかせる。思へば/\腹の立つ。捕へ次第に打ちぱなすぞ。請人め、左樣心得うせ居らうぞ。


[ト書]

(ト叱りづける。孫兵衞、思入れ。)


宅悦

御尤もでござります/\。按摩とりの私が口入で、雇に抱へた小平が駈落ち。 折惡いお内儀お岩樣の初産が血が納らないで、後の御病氣。その中での駈落ち。まこ とに私も旦那へ言譯がござらぬ。老爺どの、こりやまア、貴樣、なんと思はつしやる。


孫兵衞

イヤもう、なんと申してようござりませうやら。併し、常から私が忰ながらも、 正直者の、役に立たず。殊に取逃げ、駈落ちの、持つて參つたその品は、あなた樣の 御先祖から、お家に傳はるその藥種。アヽ、何とも以て。(ト思入れ。)


宅悦

サア、私もさう思ふ。錢金は取逃げの當り前。藥種を持つての駈落ちは。


孫兵衞

アヽ、そんならもしや古主の御病氣、彼方へ用ゆる心から、そのお藥を。


伊右衞

どうしたと。


孫兵衞

ハイ/\、憎い奴でござりまする。


伊右衞

これ、老爺、今申した蘇氣精は、僅かな物と思はうが、世間に稀なる代物故、藥 種問屋へ持つて行けば、十兩や十五兩には、直きになるわ。先祖よりの添書き、お醫 者方の極めもあり、相違ない品物だわ。しかし、それ程に願ふ事なら、その方に免じ て、一兩日の日延べは致しくれうわ。その中に行方が知れずば、取逃げの藥種の代り、 代金を持參致して、その上に濟ましてくれうぞ。左樣心得、歸れ/\。


孫兵衞

ハイ/\。それは有難うござりまする。只今から、きつとお尋ね出しまして、そ の上お詫びを申しませう。(思入れ。)
これお前、いかい苦勞をかけまするぞ。


宅悦

イヤ、もう、どうも迷惑ながら係合ひ。眞の人の世話は、こゝが怖い。


[ト書]

(ト此うち、孫兵衞、草鞋をはき、身ごしらへする。)


伊右衞

シテ、老爺が宅は、どの邊であつたな。


孫兵衞

エヽ、深川の寺町邊でござりますれば、眞に遠方でごりまする。


宅悦

歸りがけにも、氣を付けて尋ねながら行かつしやいよ。


孫兵衞

イヤ、もう、その心掛でござりまする。(思入れ。)
左樣なら旦那樣、お暇申し まする。


伊右衞

一兩日中に、きつと詮議して參れ。さうもないと、われもその分では差し置かぬ ぞ。


孫兵衞

ハイ/\、かしこまりました。(思入れ。)
お醫者樣、御厄介にござります。


宅悦

氣を付けてござれよ。


孫兵衞

ハイ/\。(思入れ。ト門口へ出て思入れあつて、)
常から正直な小平め、取逃げをし居るとは、眞にこれが、子は三界の首枷とはこゝの事。(思入れ。)
とはいふものゝ、藥とあれば、てつきりお主人の。(思入れ。)


宅悦

まだござらぬか。


孫兵衞

ハイ、お喧しうござりました。


[ト書]

(ト唄になり、菅笠を持ち、思案しながら向うへはひる。)


宅悦

さう云うても、あの老爺も、氣が氣であるまい。(思入れ。トこの時、蚊帳の中にて手をうつ。)
あい/\、お藥かな/\。


伊右衞

氣をつけて下さいよ。


宅悦

かしこまりました。


[ト書]

(ト屏風の中へはひる。伊右衞門思入れあつて、)


伊右衞

このなけなしのその中で、餓鬼まで産むとは氣のきかねえ。これだから素人を女 房に持つと、こんな時に亭主の難儀だ。


[ト書]

(ト小言を云ひ乍ら仕事にかゝる。宅悦出て來り、)


宅悦

サア/\、藥だ/\。暖めて上げませう。(ト七輪へ土瓶をかけ火を煽ぐ。)


伊右衞

お岩が藥か。生れ子の藥か。


宅悦

イエ/\、お岩樣のでござります。あの子は、ぐつとも仰しやらぬ。應鷹なお子 樣だ。その上、あれ程迄にお前樣に、よく似てござるとは、眞に種は爭はれぬもので ござりまする。


伊右衞

ナニ、俺に似てゐるか。


宅悦

左樣でござりまする。


伊右衞

親に似たら、定めし思ひやらる。


宅悦

ハヽヽヽ。


[ト書]

(ト思入れ。角兵獅子の合方になり、向うより秋山長兵衞、さんすいなる形、大 小にて、走り來り、門口より、)


長兵衞

伊右衞門どの、お宅か/\。小平めを見つけて來た/\。


伊右衞

これは秋山氏、見當りましたか。


長兵衞

左樣/\。先づ心當ては、下町邊と存じ付き、私が身寄りが築地にある故、あの 邊まで參り、新堀通りへかゝる道にて、見當りました。なんでもあいつは、深川邊へ 參ると見えました。


伊右衞

左樣/\。深川はあいつが親の内でござる。今まで老爺も呼びつけて置きました。


長兵衞

エヽ、左樣か。(思入れ。)
イヤ、何よりは貴殿が苦勞にさしやつた、ソレ藥は、是でござらう。(ト木綿の小風呂敷に包みし、藥包を渡す。)


伊右衞

これは忝い。眞に、これが返れば安堵す。シテ小平めは。


長兵衞

アレ/\、 あそこへ官藏どのが。見えさうなものだ。


[ト書]

(トまた、角兵獅子の鳴物になり、向うより關口官藏、浪人、件の形、伴助、中 間にて、小平の菊五郎をぐる/\卷きに縛り、髮も亂れ、着類も、破れし態なるを、 二人して、捨白にて手荒く引きずつて來る。)


小平

ハイ/\御免なされませ/\。


官藏

御免というて、濟むものかえ。


官藏伴助

うぬア、ふとい奴だなア。(ト此樣な捨白いひ乍り、連來り。)
サアはひりやアがれ。(ト内へ引立てはひる。)


伊右衞

これは官藏どの、御苦勞千萬。秋山氏に樣子を承はつてござる。何かと忝う存ずる。(思入れ。)
オヽ、伴助か。大儀であつたなア。


伴助

ヘイ/\。もし旦那、御安堵でござりませう。


官藏

コレ伊右衞門どの、身共なぞが出ますると直きに斯樣ぢやて。かの一藥も持つて ゐました。眞に見かけに似合はぬ太い奴でござる。


宅悦

これは/\、手前故にな、俺まで難儀をするわ。コレ、今まで老爺も呼びつけて 置いたが。まア/\、手前、どういふ心になつたのだ。


[ト書]

(ト云はれ、小平やう/\と顏をあげ、)


小平

口入して下すつたお前にまでも御苦勞かけまするも、ふつと致した出來心。モシ、 左樣なら、老爺も參つて歸りましたか。アヽ、氣の毒や。嘸、案じませうに。(思入れ。)
モシ旦那樣。持つて走りましたお藥も、長兵衞樣がお取上げなさりました。もう/\他に、何にも取りました品はござりませぬ。どうぞ御勘辨の上、穩便になされて下さりませ。ハイお願ひでござります/\。(ト思入れ。)


伊右衞

何、穩便に致してくれろとか。イヤ、比奴、不屆なことをぬかすな。おのれが取 逃げ駈落ちを、主の俺が、ナニ、穩便に致すものか。眞にこいつ呆れる程な太い奴だ。


官藏

左樣々々。殊に常から此奴が申すを聞けば、きやつが古主は、鹽谷の家中、お手 前の同輩、小汐田又之丞が小者との事。老爺は勿論、女房子までござると申すが、眞 に人は見かけによらぬものでござるテ。


伴助

左樣でござりまする。聞けば、こいつが内に、その又之丞殿とやらも、居候にゐ るとの話でござる。


伊右衞

ヤヽ、何といふ。同家中であつた又之丞が、こいつ小者か。(思入れ。)
ヤイ、小平め、おのれ、いよ/\左樣か。


小平

ハイ/\、それに違ひはござりませぬ。私が親どもは、又之丞樣の御家來筋。御 恩を受けしお主樣は、御浪人の上、この間の御難病。それを貢ぎに、私は雇奉公、女 房、伜、老爺まで皆それ%\に賃仕事やら商ひやら、身、貧な中へ主人の御病氣。そ の御用にも立たうと存じた故、盗みましたあのお藥。全く惡氣で致しませぬ。主人の 爲と、忠義の盗み。捕へられたは眞に天命。旦那樣、どうぞお助けなされて下さりま せ/\。(ト、いろ/\詫びるを聞いて、)


伊右衞

スリア何か。われが古主の又之丞が病氣につき、俺が家に持傳へた一藥を盗んで 來いと、又之丞が、われに頼んだのか。


小平

イエ/\、毛頭主人は存じませねど、こりや、私が出來心で。


伊右衞

出來心であらうが、忠義であらうが、人の物を盗まば。盗人。忠義で致す泥棒は、 命は助けるといふ天下の掟があるか。たはけ面め。一藥も取返し、取替への金子さへ 償はば、助けて遣らうが、その代りに、おのれが指は一本づつ折つて了ふわ。


長兵衞

これはよい慰みでござらう。然らば十本の指を殘らず折つて見ませうか。


官藏

命の代りに指十本。イヤハヤ、安いものでござるな。


長兵衞

私も稽古の爲に、折つて見ませう。


伊右衞

サア/\、手傳へ/\。


[ト書]

(ト皆々、小平へ立ちかゝる。宅悦捨白にて留める。小平思入れ。)


小平

アヽ、モシ/\、この上指を折られては、手が不自由で、主親を育くみます事と ても。


三人

それをおいらが、知るものか。


小平

お慈悲でござりまする。どうぞその儀を。


伊右衞

エヽ、喧ましい。猿轡でもはめさつしやい。


三人

合點だ/\。


[ト書]

(ト、三人、立掛かり、伴助、手ぬぐひを取つて、小平が口を結はへて、)


伴助

これで、ようござります。


官藏

指の試みに、鬢の毛から拔きませう。


長兵衞

こいつはよからう。


[ト書]

(ト皆々、立ちかゝつて、小平の小鬢の毛を皆々拔いて、煙草吹きかけ、種々さ いなむ。唄になり向うより、お槇、前幕の乳母にて、供の中間に、隅田川の卷樽と、 重詰物の風呂敷包持たせて、出て來り、門口へ來つて、)


お槇

ハイ、お頼み申しませう/\。


三人

アヽ、誰か來たぞえ。


伊右衞

客があらば、その野郎、押入へなりと打ちこめ。


三人

合點だ/\。うしやアがれ。


[ト書]

(ト小平を引立てゝ、下の方、杉戸の押入をあけ、打込んで戸をさす。その中宅 悦出迎ひ、)


宅悦

ハイ、どれからお出でなされました。


お槇

あの、妾は御近所の伊藤喜兵衞屋敷より參じました。お取次の儀を。


[ト書]

(トいふを長兵衞聞きつけ、)


長兵衞

アヽ伊藤殿よりのお使か。(思入れ。)
オヽ乳母のお槇か。サア/\、こちらへ 入りやれ入りやれ。


お槇

ハイ/\。左樣なら、御免なされませ。(ト内へ入り。)


長兵衞

伊右衞門殿、喜兵衞殿より使が來ました。


伊右衞

アヽ、左樣か。これへ/\。眞に御近所にあつて、御疎遠に仕る。御主人にもお 變りはないかな。


お槇

有難うござります。主人、喜兵衞初め、後家弓ことも、宜しうお言附け申されま した。承りますれば、御内室お岩樣御事、御産ありしと、お芽出度いお噂。この品は、 餘りお粗末にはござりますれど、お目にかけまする。又、御酒とお煮染はお夜伽遊ば されるお方へ、お慰みのため、お目にかけますると、遣はしましてござりまする。宜 しくお頼み申しまする。


[ト書]

(ト切溜に、煮染、卷樽、三重の祖重へ切餅、白味噌、鰹節の類を詰めたるを差 出す。伊右衞門思いれ。)


伊右衞

これは/\、いつも乍ら御叮嚀に、眞に痛み入りまする。忝なう存じまする。お 入れ物は、この方より持たせ遣はしませう。宜しく申して下され。


お槇

畏りました。(思入れ。)また一品のこの粉藥。これは即ち、手前隱居の家傳と ござりまして、調合致されまする血の道の妙藥。お岩樣におあげなされましても苦し うござりませぬと、態能遣はしましてござりまする。


[ト書]

(ト懷中より粉藥の包を出す。伊右衞門取つて、)


伊右衞

これはお心附けられ、忝う存ずる。早速に用ゐませう。コレ、手前白湯をしかけ てくれろ。


伴助

畏りました。


[ト書]

(ト七輪へ、別の土瓶へ水を入れてかけ置く。この時、屋臺の中にて赤子しきり に泣く。)


お槇

オヽ、やゝ樣が、いかうおむづかり遊ばしまする。シテ、御男子でござりまする か。


伊右衞

左樣/\。


お槇

それはお芽出度う存じまする。


[ト書]

(トこの中、やはり赤子、急はしく泣く。)


お槇

これはしたり、いかうおむづかり遊ばしますな。アヽ、大方蚤がせゝりまするも 知りませぬ。私が見て上げませう。


伊右衞

それは、かたじけない。何分宜しく。


お槇

ハイ/\。(思入れ。)コレ、こなたは、先へ歸つて云はうには、妾は只今に歸 りますと、お上へ申上げて下され。


中間

ハイ、畏りました。左樣ならば御免あそばされませう。


[ト書]

(ト唄になり、お槇、風呂敷包を持ち、屏風の中へ産婦見舞に入る。中間、向う へ入る。官藏、長兵衞、切溜を引出し、樽を引寄せ、)


長兵衞

伊右衞門どの、始めさつせい/\。


伊右衞

ハテ、急はしない手合だ。


[ト書]

(ト云ひながら、打寄つて酒を始める。角兵衞獅子になり、向うより利倉屋茂助、 大小風呂敷を肩へ掛け、質屋にて出て來り、づツと入り、)


茂助

伊右衞門樣、お留守かな。


伊右衞

イヤ、宿に居る。


茂助

これは、珍しうお宿ぢやな。こつちから、お宅かといふと、留守と云はつしやる から、お留守かと云つたらお宿とは、お珍しい儀でござりまする。もし、伊右衞門樣、 この間から、お貸し申しました蚊帳に布團に掻卷まで、代りも來ぬのに上げましたが、 あの代物の元利〆高、三分二朱。サ勘定なさるとも、品を返さつしやるとも、片付け て下さりませ。又その他に、去年中から不義理な借の五兩の一件。サゝ、片付けて貰 ひませう。さもないと今日は、この地面のお屋敷へ斷つて出ねばなりませぬ。サヽ、 どうでござりますな/\。


[ト書]

(トせたげる。伊右衞門思入れあつて、)


伊右衞

これはしたり、この間も取込みがある故、挨拶も延引致すが、いづれ近々の中に。


茂助

イエ/\、待て/\。イヤ待てませぬ/\。左樣なら是非がない。お地面のお屋 敷へお斷り申して。


[ト書]

(ト行かうとする。皆々留めて、)


長兵衞伴助

これさ、おいらが請合うたから、あの一件は。


茂助

イエ/\、お前樣方のお請合ひ、これまで一つもわかりませぬ。お構ひなされま すな/\。


[ト書]

(ト行かうとするを、伊右衞門思入れあつて、)


伊右衞

利倉屋、待ちやれ。


茂助

エ。


伊右衞

五兩の勘定致して遣らう。


茂助

エヽ、左樣ならあの五兩を。サア、受取りませうか。


伊右衞

イヤ、その金はないが、その代りにはこれを渡さう。


[ト書]

(ト藥の包、極め書き、殘らず付けて渡す。)


茂助

もし、これは何やら藥の包。アノ、これが五兩のかたになりまするか。


伊右衞

その唐藥は、民谷の先祖より持ち傳へたる蘇氣精。賣買ならば二十兩。その餘計 にもなる藥種。相違ないのはその添書。さる奧醫者の極めもある。不承であらうが、 利倉屋茂助、五兩の代り、預かつてくりやれ。


[ト書]

(ト押しつけられ、茂助よく/\見て、)


茂助

成程、お醫者方の御判のすわつたこの唐藥。さう仰しやれば違ひもあるまい。併 し、幸ひ私が、下質送るは深川の金子屋。亭主は以前藥種屋あがり、それへ見せたる その上にて。


伊右衞

僅か五兩だ。預かつておきやれ。


茂助

そんならこれは、まアこれで。(ト懷へ捻込み、)
サテ、これからは入替への代物、蚊帳と布團を持つて行きます。御免なされませ。(ト立ちかゝる。)


伊右衞

これはしたり、まだその他に借着の品を。


茂助

あの、三分二朱の勘定がすまぬと、棚卸しが片付きませぬ。御免なされませ。


[ト書]

(ト屏風の中へかゝるを、お槇出で來り、茂助を留めて、)


お槇

これ、町人どの、産婦のお居間へ、不躾な。聞けば何やら金子の掛りとな。コレ、 これで大方。ナ、サ、その儘置いて。


[ト書]

(ト思入れして、紙に包みし小判一兩をづつと茂助に握らす。茂助思入れあつ て、)


茂助

ヤ、コリヤこれ、小判。


お槇

サ、産所へ聞えて益なき事。それでは、こなさん。


茂助

アイ、言分もござりませぬ。眞にこれは大きにお世話でござります。


伊右衞

何やら斯やら、度々のお心付け、申さう樣もござらぬ仕合せ。


お槇

何しに、左樣な、御心配御無用に遊ばしませ。妾も、もう暇仕りませう。(ト門口へ行き。)


茂助

左樣なら、私も道までお供致しませう。伊右衞門樣、唐藥の儀は、下質へ見せた 上にてその御返事を。


伊右衞

何分預かつて貰はう。(思入れ。)
これは、お乳母どの、宜しう頼みます。大儀 でござつた。


お槇

ハイ/\。あなた方もおゆるりと。サ、茂助さんとやら。


茂助

ハイ、どりやお暇申しませうか。


[ト書]

(ト唄になり、お槇に、茂助付添ひ、向う入る。皆々殘つて思入れ。)


長兵衞

コレ/\、民谷氏、アノまあ伊藤の屋敷からは、こなたの所へ叮嚀に度々の折見 舞。一度は禮に行つたと云うて。


伊右衞

サ、さう思つても、あの屋敷へはどうも身どもは、世間の手前が。


官藏長兵衞

そりやまた、なんで。


伊右衞

ハテ、伊藤喜兵衞は高ノの家中、今は町家のあの屋敷。この伊右衞門は鹽谷の浪 人。それ故どうも、肩身がすぼまつて。


兩人

成程、そこもあるわえ。


[ト書]

(トこの時屋臺にて赤子泣く。伊右衞門聞いて、)


伊右衞

よく泣く餓鬼だ。蚤でも喰ふのか。


[ト書]

(ト思入れ。障子をあける。この中に吊り掛けし蚊帳、屏風。木綿布團の上に、 お岩産後の態。襟に麻を引つかけ、赤子を抱き、いぶりつけてゐる。此中合方。伊右 衞門見て、)


伊右衞

コレ、お岩、今日は快いか。どうだ。


長兵衞官藏

見舞に來ました。


[ト書]

(トこれにてお岩思入れあつて、)


お岩

有難うござりまする。産後と申し、この間の不順な陽氣。その故かして、一倍氣 持が。


[ト書]

(ト思入れ。此うち、抱き子の上へ、結構なる小裁の掛けてあるを伊右衞門見 て、)


伊右衞

これ、お岩、その小裁は見馴れぬ着物。そりやア、おぬしが。


お岩

イエ/\、こりや今、喜兵衞樣のお宅から、後家殿の内密で、妾が方へ心附け、 どうぞ、お前、禮に行て下さんせ。


伊右衞

ア、さうか。ハテ、あの内からは、氣の毒な程、物を送るが、どうも俺は氣が知 れぬて。


官藏 長兵衞

それだによつて、度々身どもが申すはこゝだ。以前は以前、今は浪人民谷伊右衞 門。敵同志の義理を捨て、あの屋敷へ行くがよからう。


お岩

お仰しやる通り、隣家のこと、どうぞお禮に行て下さんせ。


[ト書]

(ト伊右衞門思入れあつて、)


伊右衞

いかさま、お岩が云ふ通り、こりや一寸行かずばなるまいが、何をいふにも俺一 人では。


お岩

お前、その心なら、お二人を連れにして、


長兵衞

さうさ/\、おいらが一緒に、


官藏

行て進ぜう。


伊右衞

そんなら、直きに。思ひ立つ日を吉日と、行きませう/\。


兩人

さうさつしやい/\。


伴助

私がお供を致しませう。


宅悦

お留守は、私が居りまする。一寸お禮にお出でなさるがようござります。


[ト書]

(ト此うち、伊右衞門、大小を差し、古き羽織を着て、仕度する事あつて、)


伊右衞

イヤ行きは行かうが、まだ今日は飯を焚かずに置いた。これ、手前、飯を焚いて くれめえか。


宅悦

ハイ/\、なんでも致しませう。


伊右衞

併し、あの押入の奴を逃すなよ。(思入れ。)
これ、これがあいつの扶持方棒(ト思入れ。件の一本差しを見せ。)
ホンニこの粉藥は、今伊藤の屋敷から、お岩が所へ遣さしつた血の道の藥。これを飮むがよい。家傳ぢやといふことぢや。(ト粉藥を、お岩に渡す。)


お岩

左樣でござりまするか。今、お乳母どのが、その噂致されました。こゝへ下さり ませ。白湯がわいたら下さりませうが。(思入れ。)
モシ、お前は早う戻つて下さり ませえ。


伊右衞

直きに歸るわえ。サ、行きませう。コレ、飯を頼むぞよ。


宅悦

心得ました。


伊右衞

行くぞよ、お岩。


お岩

アイ、必ず早う。


伊右衞

何をしてゐるものか。(思入れ。)
サア、行きませう。


[ト書]

(ト唄。時の鐘になり、長兵衞、官藏、伴助、伊右衞門につき、向うへ、宅悦は 奧へ入る。後、合方。捨鐘。お岩後見送り、思入れあつて、)


お岩

常から邪慳な伊右衞門どの、男の子を産んだと云うて、さして喜ぶ樣子もなう、 何ぞと云ふと、穀つぶし、足手纒な餓鬼産んでと、朝夕にあの惡口。それを耳にもか ければこそ、針の蓆のこの家に、生疵さへも絶えばこそ、非道な男に添ひ遂げて、辛 抱するも、父さんの敵を討つて貰ひたさ。(ト思入れ。この時頭にさしたる鼈甲の誂の櫛落ちる。取上げ見て、)
コリヤ、これ、母樣のお遺品の三光のこの差櫛。物好きなされし菊重ね、胸に工風の銀細工。身、貧な中でも離さぬは、どうで産後のこの病 氣。とても命も危い妾、死んだ後にて妹に、せめて遺品と贈るのは、母の譲りのこの 差櫛。これより他に、この身についた。


[ト書]

(ト思入れ。また、赤子、しきりに泣くゆゑ、いぶりつけ/\、産所を離れ、よ き所へ來り、よろ/\として、)


[お岩]

アヽ、また眩暈がする。血の道の故であらう。この粉藥、まア/\、これなと、 たべて。


[ト書]

(ト思入れ。合方。蟲の音。時の鐘。お岩件の粉藥を茶碗へあけ、土瓶の白湯を つぎかけ、飮む事あつて、)


[お岩]

オヽこれで、ちツとは心持も癒らう。どりや、大事の赤子を。(ト抱き取らんとして、又ぞろ俄かに病氣起りし態にて、苦痛の思入れ。)
ヤヽヽヽ、今の藥を飮むと、 しきりに常より氣持が、アア、こりや顏が熱氣して、一倍氣合ひが、アヽ、苦しや/ \/\。


[ト書]

(ト思入れ。宅悦、奧より何心なく出で來り、)


宅悦

もし/\、お汁でもしかけませうかな。(ト、云ひさまお岩を見て、)
これはしたり、どうなされた/\、お前は。それ/\、顏色が變つて、どうやら樣子が。


お岩

今の粉藥、飮むとその儘。(思入れ。)
アヽ、苦しや/\。


宅悦

ナニ、粉藥をあがつて苦しいとは、藥違ひではないか。まア/\、風に當てゝは、 サヽ、こちらへござつて。(ト思入れ。種々介抱する。赤子泣く。お岩、苦しむ。宅悦、あちこちとしてゐるうち、押入の戸を漸々あけて、吹替の小平出ようとするを見 付け、)


宅悦

どつこい/\、逃がしはせぬぞ/\。(ト思入れ。戸をたて、思入れあり。)
一方防げば二方三方。いや、飛んだ留守を頼まれたわえ。


[ト書]

(ト思入れ。お岩、苦しむ。駈け寄つて介抱する。この見得、時の鐘にて、道具 大やうに廻る。)


本舞臺三間の間。伊藤喜兵衞が宅、座敷の體。床の間、違棚、更紗態の暖簾、 結構なる構。下の方生垣、柴折門、手水鉢宜しく飾りつけ、甚句の唄にて、道具、留 る。
[ト書]

(ト伊右衞門、上座に坐り、お弓後家の形。件のお槇、銚子、盃、鉢肴、取り散 らし、長兵衞、官藏、酒盛の體。伴助、甚句を躍りゐる。二重舞臺、よき所に喜兵衞、 眼鏡をかけ、隱居の態にて、銅盥にて小判を洗ひ、手箱へしまうてゐる。思入れにて 宜しく納る。伴助、踊り轉ぶ。皆々、笑ふ。)


長兵衞

イヤ、どうでも伴助は、越後生れゆゑ、甚句はきついものぢや。


お弓

とてもの事に、秋山樣、あなたもなんぞ、お隱し藝を拜見致したうござりまする。


長兵衞

イヤ、それは迷惑。身ども藝と申しては、聲色ばかりでござるて。


喜兵衞

それは一興。聲色は誰をつかはツしやる。


長兵衞

やはり築地が聲色をさ。


官藏

イヤモ、貴公の築地も、あまり流行におくれました。ちと鐵砲洲へでも轉宅さつ しやい。


長兵衞

その轉宅は、愛宕下ではござらぬか。


官藏

何を云はつしやる。


[ト書]

(ト笑ひになる。奧より若い衆、袴ばかりの若徒にて、吸物椀を三人前、用意し て運ぶ。)


お槇

お吸物が宜しうござりますが、あなた方へ上げませうか。


お弓

さうしてたも/\。


[ト書]

(トお槇、三人へ膳を据ゑる。伊右衞門、喜兵衞へ目をつけ、)


伊右衞

イヤ、御隱居、あなたのそれにて洗うておいでなさるゝは、目貫の類でござるか な。左樣かな/\。


喜兵衞

いえ/\、左樣な品ではござらぬ。これは親どもより、貯へまかりある小判小粒 でござるが、折々、斯樣に洗ひませぬと、金銀と申しても何とやら錆が出まするゆゑ、 斯樣に洗ひまするが隱居の役でござるて。ハヽヽヽ。


お弓

マヽお粗末にはござりますれどお吸物にて御酒一献。


お槇

おすごし遊ばされませ。


長兵衞

それは、御ざうさ。(思入れ。)
時に伊右衞門殿へ、膳が足らぬが、まア/\これなりと。


[ト書]

(ト手前の膳を伊右衞門に据ゑにかゝる。)


お弓

いえ/\、伊右衞門どのへは、他に上げまするお吸物がござりまする。まア/\、 あなた方、お粗末ながら。


三人

然らば、御馳走に相成りませう。


[ト書]

(ト銘々、蓋をあける。中には小粒、大分吸物にしてあり。三人。びツくりし て、)


長兵衞

この吸物は、まことに珍物。


官藏伴助

いや、恐入りました。


お弓

常から願ふ伊右衞門樣を、御同道なされて下されました、あなた樣方。どの樣に御 馳走申しても、決して、いとひはござりませぬ。お心にかなひましたら。(思入れ。)
槇や、お替へ申してあげや。


お槇

ハイ/\。サア/\、どなたもお替へなされませ。


三人

それは何より、よい御馳走でござります。(ト直ぐさま袂へ入れる。)


喜兵衞

いづれも方へ、御馳走は申せども、肝腎の伊右衞門殿へは、アヽ、何を御馳走に。


伊右衞

その御馳走が、拜見致したうござるて。


お槇

左樣御意なさりまするなら、別けてあなたへ御馳走は。(トあたりへ思入れあつて、)
お二人樣は、少しの間、この席を。(トこなし。兩人呑込み、)


三人

心得ました。然らばこの儘。


お弓

お付き申して。


お槇

サア、御案内仕りませう。


[ト書]

(ト合方になり、お槇を先へ、長兵衞、官藏、伴助、引添ひ、奧へはひる。三人 殘り、喜兵衞、洗うてゐる小判を手箱に載せ、伊右衞門の前へ差出し、)


喜兵衞

伊右衞門殿、不躾ながら此品、御受納なされて下さりまし。


伊右衞

見れば、多くの金銀を、拙者が前に差置いて、受納致せとお云やるは、何か仔細 の。(ト思入れ。)


お弓

その儀は、妾が、只今これにて。


[ト書]

(ト思入れ。合方變つて、ずんと立ちて、奧より、振袖のお梅の手を取り、宜き 所へおき、思入れあつて、)


[お弓]

これなる者は、病死致せし、妾が連合ひ、又市殿と二人が仲のお梅。


喜兵衞

これに居る身が娘、お弓が腹に設けましたる孫のお梅。どういふ縁にか、その許 樣を見染めましたが病の起り。養生のため淺草へ同道致して、またぞろや、その日も 又貴公を思はず。


お弓

お見受け申して、この子の悦び。サ、娘、常々思ふ心のたけを。


[ト書]

(トいはれて、お梅、恥かしき思入れあつて、)


お梅

母さんの其樣に、心をつけてのいつくしみ、何とお隱し申しませう。いつぞやよ り御近所へ宅替へなされし民谷樣。どうした事やらお目もじの、その時、ふつと恥か しい、女心のひと筋に、思ひつめたるこの身の煩ひ。


お弓

明暮思ふが戀病の、枕に付かねど顏容、日に増し痩せるその樣子。やう/\問へ ば、あなたのこと、忘れ兼ねたる娘氣の。


お梅

奧樣のあるお前樣、思ひ切らうと思うても、因果な事は忘れ兼ね、せめてあなた の召使ひ、水仕奉公致しても、妾は大事でござりませぬ。どうぞお側でお使ひなされ て下さりませ。


[ト書]

(ト恥かしき思入れ。)


喜兵衞

サヽ、お聞きの通り。ならう事なら婿にも取り、梅が願ひが叶へてやりたさ。


お弓

あれ程までに思うても、娘が心根、町人の身で暮しなば、お岩樣の手廻りに、お 使ひなされて下さるか、但し、あなたの妾にもと、遣はしたうは思うても、武士の家 にて世間の聞え、殊に連合ひ病死の上は、位牌の手前、どうも左樣な。


[ト書]

(ト思入れ。伊右衞門こなしあつて、)


伊右衞

いかさま、樣子承り、申し樣なき娘御の心根。云はゞ拙者も民谷の家へは入聟の、 義理ある女房お岩が手前、こればかりは氣の毒ながら。


喜兵衞

然らば孫めが、願ひもそれと。


お弓

かなひませぬも、みな尤も。この上わが身は、あなたの事を。


お梅

あい、思ひ切ります。きつと心を取直し、思切りますその證據は、ここでわたし は。(ト思入れ。帶の間より剃刀を取出し、)
南無阿彌陀佛。


[ト書]

(ト自殺せんとする。皆々、押し留め、)


喜兵衞

こりや、尤もぢや。そちが願ひの。


お弓

かなはぬ時はと、差し詰めし、娘心も武士の種。可哀や、そなたの願ひもこれで は。


[ト書]

(ト思入れ。この時、長兵衞、出かけゐて、)


長兵衞

これ、伊右衞門殿、こなたは大きな料簡違ひ。どうで死にかゝつてゐるあのお岩 殿。そんなら、遲いか早いか死んだあとでは、女房を持つは今の間だ。お二人の氣休 めに、こなたいつそ巣をかへる、その相談がよささうなものだぞよ。


伊右衞

イヤ/\、この上有徳になるとても、お岩を捨てゝは世間の手前。こればつかり は出來ますまい。


[ト書]

(トこれを聞き、喜兵衞、思入れあつて、手箱の金を殘らず出し、伊右衞門の前 へ又差出し、)


喜兵衞

さア、伊右衞門殿、殺して下され。この喜兵衞めを、殺して下さい/\。


[ト書]

(ト急いていふ。伊右衞門思入れあつて。)


伊右衞

お年寄りの突詰めた樣子、この相談がとゝのはねば、何故また殺せと仰せらるゝ な。


喜兵衞

サヽ、そこでござる。孫めが事が不便に存じ、婿に取らうも女房持ち。アヽ、どう かなと工夫をこらし、お弓にも知らせず、身が覺えたる面體崩る祕ゝ法の藥、お岩殿 に飮ませなば、忽ち相好變るは治定。その時こそは、こなたの女房に愛想がつき、別 れ引きにもなつたなら後へ持たせるこの孫と、惡い心が出た故に、口外せねど、さつ きこなたへ、血の道の藥と、乳母に持たせて遣はしたるは、面體變る毒藥同然。併し 命に別條なし。そればかりを取得にして、よもや罪にもなるまいと、お岩の所へやつ たるが、事叶はねば、身の懺悔。それだによつて殺して下さい。


お弓

すりや、その樣な恐しい、企みの元も、この子故。


お梅

逆罰當たるは、そりや眼前。


喜兵衞

こなたが得心ある時は、家の有金、殘らずこなたへ。


長兵衞

その据膳を食はぬは、こなたの料簡違ひ。


喜兵衞

腹が立つなら、殺して下さい。


伊右衞

ぢやと申して、あなたを此處で。


お梅

いつそ、私が。


[ト書]

(ト死なうとする。お弓、留める。)


喜兵衞

承知はないか。


伊右衞

さア、それは。


お弓

死ぬるこの子をどうぞ助けて。


伊右衞

ぢやと申して。


喜兵衞

然らば身どもを。


伊右衞

さア、それは。


兩人

さア。


伊右衞

さア。


三人

さア/\/\。


喜兵衞

邪ながら。


お弓

お返事を、(トきつといふ。伊右衞門、思入れあつて、)


伊右衞

承知仕りました。お岩を去つても娘御を申し受けう。


喜兵衞

すりや、御得心下されて。


お弓

さすれば、この子の。


喜兵衞

願ひも、叶うて。


伊右衞

その代りには、拙者が願ひ。


喜兵衞

して其許の願ひとは。


伊右衞

高ノのお家へ推擧の程を。


喜兵衞

承知致した。お頼みなうても、一家となれば。


伊右衞

御息女貰へば、聟舅。民谷の家名も、何時しか伊藤の。


お弓

思ひ立つ日の、今宵は吉日。


喜兵衞

内祝言も直ぐに今晩。承知でござるか。


伊右衞

いかにも致さう。(思入れ。)
女房お岩と、出入りの按摩。何とも以て。


喜兵衞

そりや、何事を。


伊右衞

いや、その儀は只今、貴公へ委しう。


長兵衞

先づ、何よりは是にて盃。仲人は身どもが。これ、お梅殿。


お梅

今更どうやら。(ト思入れ。)


お弓

さすが、おぼこな。


お梅

エ。


喜兵衞

そりや、婿殿ぢや。


[ト書]

(ト伊右衞門へ突きやる。お梅、轉けかゝり恥かしき思入れ。伊右衞門氣をか へ。)


伊右衞

女房でござる。變ぜぬ金打。


[ト書]

(ト小柄を取つて金打の態。兩人見て、)


喜兵衞

エ、忝い。


[ト書]

(ト手を合はす。時の鐘、唄になり、この道具、廻る。)


本舞臺。元の伊右衞門の世話場に戻る。こゝにお岩面體見苦しく變り、苦し み倒れゐる。宅悦、介抱してゐる體にて、道具留まる。
[ト書]

(トやはり蟲の音の合方。時の鐘。宅悦いろ/\介抱して、)


宅悦

イヤ、眞に飛んだ留守を頼まれた。モシ、お岩樣、どうでござります。氣持は好 うござりますか/\。


お岩

アヽ、なんぢややら、喜兵衞樣より下された、血の道の藥を飮むと、俄に顏が發 熱して、アヽヽ、苦しう覺えたわいの。


宅悦

いや、モウ、大きに案じました。まア/\、好いさうで、落ちつきました。(思入れ。)
これはしたり、もう、日が暮れたな。燈もつけずばなるまい。ドリヤ/\。(ト行燈を出し、燈をつけて、)
しかし、今の藥で何故あのやうに、俄に苦痛を。(トいひさま、行燈の明りに、お岩の顏を見て、恟りして、)
やア、お前は顏が。


お岩

ナニ、どうぞしたかいの。


宅悦

さア、ちつとの中に、まア、そのやうに。(ト思入れ。云はうとして、思入れ。)
サ、そのやうに癒るとは、アヽ、大方、そこが家傳の、良藥でござりませう。 (ト顏の事を云はぬ思入れ。)


お岩

妾も最前、俄の熱氣、あの、苦痛、少しは、癒つたやうぢやわいの。


宅悦

いや、お仕合せでござります。(思入れ。)
イヤ、燈はついたが、油が無かつた。私は、ちよつと、買つて來て上げませう。


お岩

さうして下され。この樣子ではなか/\妾は、歩行はかなはぬ。コレ、こゝにた しか、お錢が。(ト思入れ。あたりより、ほんの小錢五十ばかり通したるを探り取つて、)
これ持つて、早く頼みます。


宅悦

かしこまりました。(ト油注を取つて、)
まだ/\、歸つて來るまではござりま せう。


お岩

早う頼むぞや。


宅悦

あい/\。(ト思入れ。門口へ出て、思入れあつて、)
ハテ、奇態なことだな。さつきまでは何ともなく、ちつとの中、苦しむと思つたら、あれほどまでにも。


[ト書]

(ト内へ思入れ。お岩これを聞きつけ、)


お岩

まだ行かずかいの。


宅悦

ハイ、鼻緒が切れましたから。


[ト書]

(ト時の鐘。合方にて向うへ入る。お岩殘り、)


お岩

何ぢややら、伊藤樣から下されたお藥は、血の道には好いやうなれど、顏の熱氣 は、今に癒らず、惡いお酒など、たべた氣持ぢや。(ト思入れ。この時、赤子、泣出す。)
アヽ、また、せわるかいの。添寢して遣りませう。(ト赤子に添乳して、)
サヽ、今父さんがお歸りぢや。こゝでは、蚊が螫しまする。まア/\、蚊帳へはひつて。(ト思入れ。上の方、蚊帳の中へ入り、赤子をたゝきつけ、)
ドリヤ、添乳して遣りませうか。


[ト書]

(ト唄。時の鐘。向うより伊右衞門、思案の態にて出で來り、花道にて思入れあ つて、)


伊右衞

今の喜兵衞の話では、命に別條ない替り、相好變る良藥と申したが、もしや女房 が、あの後で。(思入れ。)
ものは試しだ。(ト門口へ來り、づツと内へ入り。)


お岩

油、買うて下されたか。(ト蚊帳の中より聲をかけて。)


伊右衞

いゝや、油は買ひに行かない。おれだ。


お岩

伊右衞門どのかえ。


伊右衞

どうだ。さつき貰うた藥は、血の道に好いか。


お岩

アイ、血の道には好いやうなれど、飮むとその儘發熱して、わけて面體、俄の痛 み。


伊右衞

熱氣が強くて、その顏が。


お岩

アイ痺れるやうに覺えたわいなア。


[ト書]

(ト蚊帳の中より出で來る。伊右衞門見て、恟りして、)


伊右衞

やア、變つた/\/\。ちつとの中に、その樣に。


お岩

何が、變つたぞいなア。


伊右衞

サ、變つたと云つたは、オヽそれ/\、おれが喜兵衞殿へ行つて來た中に、手前 は大きに顏色が好くなつたが、それもさつきの、藥の加減でがなあらう。イヤ、顏つ きが大きに癒つた。(ト呆れ、思入れ。)


お岩

私が顏つき、好いか惡いか知らねども、氣持はやつぱり、同じこと。一日、あけ しい閑も無う、どうせ死ぬるでござんせう。死ぬる命は惜しまねど、生れたあの子が 一人不便に思うて、妾は迷ふでござんせう。モシ、こちの人、お前、妾が死んだなら、 よもや當分。


伊右衞

持つて見せるの。


お岩

エヽヽヽ。


伊右衞

女房ならば直きに持つ。而も立派な女房を、俺ア、持つ氣だ。持つたらどうする。 世間にいくらも手本があるわえ。


[ト書]

(トずつかりと云ふ。お岩呆れし思入れあつて、)


お岩

コレ、伊右衞門殿、常からお前は、情を知らぬ邪慳な生れ。さういふお方を合點 で添うてゐるのも。


伊右衞

親仁の敵を頼む氣か。(思入れ。)
コレ、嫌だの、今時分、親の敵もあんまり古風だ。止しにしやれよ。俺は嫌だ。助太刀しようと受合つたが、嫌になつたの。


お岩

エヽ、そんなら今更、アノお前は。


伊右衞

ヲヽ、嫌になつた。嫌ならどうする。それで氣に入らずば、この内を出て行けよ。 他の亭主を持つて助太刀をして貰ふがよい。こればかりは嫌だの。


お岩

お前が嫌だと云はんしても、他へ頼む當て頼りもない、女の手一つ。さすれば、 願ひもかなはぬ道理。さりながら、妾に此處を出て行けなら、成程出ても參りませう が、後でお前は繼母に、あの子をかける心かいの。


伊右衞

コレ/\、繼母にかけるが嫌なら、あの餓鬼も連れて行け。まだ水子のあの餓鬼 と、新規に入れる女房と、一口に云へるものかえ。


お岩

スリヤ、こなさんは、女には實の我が子も。


伊右衞

見替へねえで、どうするものだ。われも俺を見替へたから、俺もわれを見替へるが、それがどうした。


お岩

エヽ、なんで、妾がアノ、お前を誰に見替へましたぞいの。


伊右衞

サア、その見替へた男は、アノ。


お岩

誰でござんす/\。


伊右衞

オヽ、それ/\、あの按摩坊主に見替へた。わりやア、あいつと間男してゐるな /\。


お岩

エヽ、何を云はしやんす。いかに妾がやうな者ぢやというて、マア、不義間男を しようぞいなア。


伊右衞

わりやアしまいが、俺が又、外で色事をしたらどうする。


お岩

サア、そりやア、男の名聞。どの樣な事さんせうが、願うて置いた敵討、力とな つて下さらば、何の、どの樣な事があつても。


伊右衞

構はぬと云ふ代りに、敵討を頼むのか。品によつたら、餓鬼まで出來た女房だか ら、助けてもやらうが、知つての通り、工面が惡い。コレ、何ぞ、貸してくれろよ。 急に入る事がある。と云うて何も質草が。(ト思入れ。あたりを見廻し、落ちてある櫛を見つけ、)
コレこれを借りよう。


[ト書]

(ト取上げる。その手に取りつき。)


お岩

アヽ、そりや、母さんの遺品の櫛。他へ遣つては。


伊右衞

ならねえのか。コレ、有樣はナ。俺が色の女が、平常挿す櫛がない。買つてくれ と云ふから、これを遣らうと思ふが、惡いか。


お岩

こればかりは、どうぞ許して。


伊右衞

そんなら、櫛を買ふだけの物を貸せ。又、その上にナ、俺も今夜は身のまはりが 入るから、入替物でも、工面せねばならぬ。なんぞ貸せ。サア、早く貸しやアがれ。


[ト書]

(ト手荒く突き飛ばす。お岩思入れあつて、)


お岩

何というても品もなし。いつそ妾が。(ト思入れ。着る物を脱ぎ下着ばかりになり、)
病氣ながらもお前の頼み、これ、持つて行かしやんせ。


[ト書]

(ト差出す。伊右衞門、よく/\見て、)


伊右衞

これでは足りねえ。もつと貸してくれろ。何もねえか。(思入れ。)
オヽ、あの蚊帳を持つて行かう。


[ト書]

(ト駈けよつて吊りかけある蚊帳を引ツぱづし、持つて行かうとする。お岩とり 縋つて、)


お岩

アヽ、モシ、この蚊帳がないとナ、あの子が夜一夜、蚊に責められて。


[ト書]

(ト蚊帳に取りつく。)


伊右衞

蚊が喰はば、親の役だ。逐つてやれサ。放せ/\。エヽ、放しやアがれよ。


[ト書]

(ト手荒く引つたくる。お岩、これに引かれて、たぢ/\となつて、蚊帳を離す。 と、指の爪は蚊帳に殘り、手先は血になり、どうと倒るゝ。伊右衞門振返り、)


伊右衞

それ、見たか。エヽ、イケあたじけねえ。しかし、これでも不足であらうが。


[ト書]

(ト唄。時の鐘。蚊帳と小袖を抱へて向うへはひる。お岩やう/\起上つて、)


お岩

これ、伊右衞門殿、その蚊帳ばかりは。(ト思入れ。あたりを見て、)
そんなら、もう、行かしやんしたか。あの蚊帳ばかりは遣るまいと、病みほうけても、子が可愛さ。放さじものと取りすがり、手荒いはずみに指さきの、爪は離れてこの樣に。(ト思入れ。指先、殘らず血のつきたる思入れにて、)
かほど邪慳な、こなさんの、胤とはいへどいとゞ不便に。


[ト書]

(ト思入れ。赤子泣く。お岩、よろ/\として、あたりを尋ね、土火鉢を出し、 蚊遣りを仕かける思入れ。此中、捨鐘の合方。向うより伊右衞門、件の品々肩にかけ 宅悦を引捕へ、引返し出で來り、花道にて、)


宅悦

モシ/\、旦那、それは餘りお情ない。さう致したらお岩樣と私とが、惡い浮名 が。


伊右衞

立てさせるのが、俺が仕事だ。首尾よく行けば、これ。(ト思入れ。囁く。)
ナ。


宅悦

エヽ、左樣なら、あなたは今宵アノ、内祝言を。


伊右衞

コレ口外するな。(思入れ。)
それ(ト包み金一分やる。)


宅悦

エヽ、この金を下されて、アノ、私に。


伊右衞

遣損ふと、やらかすぞ。


[ト書]

(ト切つて了ふと仕方してみせる。)


宅悦

アヽモシ、呑込みました/\。(思入れ。)


[ト書]

(ト伊右衞門、うなづき、又、引き返して入る。宅悦は、油注ぎを持ち、門口へ 來り、)


[宅悦]

お岩樣/\、さぞ、お待遠樣でござりませう。サヽ、油々。


[ト書]

(ト行燈へつぐ。お岩やう/\と蚊遣を煽りゐて、)


お岩

ヲヽ、戻つてか。そなたの後へ、伊右衞門殿が戻つてござんして、吊つた蚊帳ま で取上げて。


宅悦

アヽ、また、得手吉へやられましたか。ハテ、酷い心だ。アヽ、見ればお前は、 大分薄着に。


お岩

冷えては惡いと云ふ病氣。それも貸せとてこの樣に。


宅悦

剥いでござつたか。アヽ、困つたものだ。お前もいかい苦勞性。その御苦勞をな さるより、いつそ亭主を持ちかへる、工面をなさるが。(ト思入れ。云ひながら、しなだれ寄つて、お岩の手を取り、)
コリヤお前には、手の筋に惡い筋がござります。一體、これ/\、この筋が、女は亭主で苦勞の絶えぬ、これが筋ぢやて。そこでこの 筋を切るがようござります。切るとはその男の縁を切る事でござります。


[ト書]

(トお岩の手を握る。思入れ。お岩恟りして飛びのき、)


お岩

コレ、そなたはまア、武士の女房に、何でその樣に淫ら千萬。重ねて左樣な不行 跡なことしやると、今度は許さぬぞ。(トきつと云ふ。)


宅悦

モシ/\、お前樣ばかりがその樣に眞實をお盡しなされても、モシ、伊右衞門樣 はとうから心が變つて居ります。それを知らずに亭主にかゝつて、後で難儀をなされ ませうぞえ。それよりお前樣、私どもにナ。


[ト書]

(トいはうとする。お岩腹立ち、)


お岩

ナニ、亭主で難儀しようより、私どもととは、そりや誰が事。サ、聞き事、それ を申せ申せ。云はぬとわが身は、不義云ひかける慮外な奴、女でこそあれ武士の娘、 侍の妻ともいはるるこの岩が、品によつては。


[ト書]

(ト有り合ふ小平が一腰を取つて、スラリと拔いて立ちかゝるゆゑ、宅悦狼狽 へ、)


宅悦

これはしたり。あぶなうござります。


[ト書]

(ト此手を留めんとして、あちこちするうちはずみにて、白刄を誤つて、上の屋 臺のうちへ打込む宅悦うづくまつて、)


[宅悦]

モシ/\、嘘でござります。嘘でござります。今のやうに申したは、まことに嘘 でござります。お前の貞女を見ませうと、存じたからの皆いつはり。有り樣は、お腹 をお立てなさるな。只今迄とは事變り、お前のやうな、そでない顏の女では、私が樣 な者でも。アヽ、うとましや/\。何の罰にか、病氣の上に、その、まア、お顏は。 ハテ、氣の毒千萬なものだ。


[ト書]

(ト此臺詞の中、お岩思入れあつて、)


お岩

ナニ、妾が面が。(思入れ。)
さつきの樣に、熱氣と供に俄の痛み。苦しやあの時。


宅悦

サヽ、そこがお前は、さすがは女氣。喜兵衞殿から參つたる、血の道の藥は、ア リヤ皆嘘。人の面を變へるの良藥。それをあがつてお前の顏は、世にも醜い惡女の面。 それをお前は御存知ないか。疑はしくば、これ/\、こゝの、(ト思入れ。櫛疊より鏡を出し、)
これでお顏を御覽じませ。


[ト書]

(ト持ちそへて、鏡を見せる。お岩わが顏のうつるを見て、)


お岩

ヤ、着物の色合、つむりの樣子。こりや、これ、ほんまに妾が面が、この樣な惡 女の顏に。何で、まア、こりや、妾かいの/\。妾が眞に顏かいなう。(ト種々思入れ。)


宅悦

サヽ、それにも外に、作者がござるわ。即ち隣家の喜兵衞樣。手前の孫のお 梅どの、あの子の婿に伊右衞門樣を貰ひたいにも女房持ち。さすがは向うは金持でも、 ちつとはお前に義理もあり、斷らしつたを曲事と、血の道の藥と詐はつて、お前に飮 ませて顏を變へ、亭主に愛想を盡かさす工面。さうとは知らいでうか/\と、一ぱい 參つたお岩樣。近頃もつて氣の毒千萬。


[ト書]

(ト殘らす口走り、此中、お岩、だん/\に腹の立つ思入れにて、鏡にうつる顏 をよく/\見て、)


お岩

さうとは知らず、隣家の伊藤、妾が所へ心づけ、日毎に贈る眞實は、忝ないと思 ふから、乳母や端女へ最前も、この身を果す毒藥を、兩手を突いての一禮は、今々思 へば恥かしい。さぞや笑はん。口惜しいわいの/\。


[ト書]

(ト泣き伏す。宅悦さし寄つて、)


宅悦

愛想を盡かして伊藤の婿樣。お前と手を切るその爲に、どうぞ手前は女房と、間 男致せとお頼みを、ならぬと申せば、すつぱ拔き、よん所なう今の戯れ。お前の着類 をその樣に、非道に剥いでござつたも、あり樣は直ぐに今宵が内祝言。婿の仕度の入 替へに、持つてござつたお前の代物。その上、お前を私に、色を仕かけてくれろと、 お頼みは、即ち嫁をこの家へ、連れて來るにもお前が邪魔。それ故、私を頼んで間男。 そのお顏では、どうして色に。イヤ、御免だ/\。


[ト書]

(トこれを聞き、お岩きつとなつて、)


お岩

もうこの上は、氣を揉死に、息ある中に喜兵衞殿、この禮いうて。


[ト書]

(ト踉き/\、行かうとする。宅悦衝立にてとめて、)


宅悦

そのお姿でござつては、人が見たら狂人か。姿もそぼろなその上に、顏の構へも たゞならぬ。


[ト書]

(トお岩、鏡を取つて、よく/\見て、)


お岩

髮もおどろのこの姿。せめて女の身躾み、鐵漿なとつけて、髮も梳き上げ。喜兵 衞親子に詞の禮を。(思入れ。)
お鐵漿道具、揃へてこゝへ。


宅悦

産婦のお前が鐵漿つけても。


お岩

大事ない。サヽ早う。


宅悦

スリヤどうあつても。


お岩

エヽ、持たぬかいの。


[ト書]

(ト思入れ。じれていふ。宅悦びつくりして、)


宅悦

ハイ。


[ト書]

(ト思入れ。これより獨吟になり、宅悦、鐵漿つけの道具を運ぶ事。蚊いぶし火 鉢に、お鐵漿をかけ、爨炊なる半挿、粗末なる小道具、宜しく、鐵漿をつける事あり て、件の赤子泣くを、宅悦、駈寄りいぶりつける。此中、唄一つぱいに切れる。お岩、 件の櫛を取つて、思入れあり、)


お岩

母の遺品のこの櫛も、妾が死んだら、どうぞ妹へ。(思入れ。)
アヽ、さはさり乍らお遺品の、せめて櫛の齒を通し、もつれし髮を。オヽ、さうぢや、


[ト書]

(トまた、唄になり、件の櫛にて髮を梳く事。赤子泣く。宅悦抱いていぶりつけ る。此中、唄一つぱいに切れる。お岩、件の櫛をとつて、思入れあり。此中、お岩の 梳上げし落毛、前へ山の如くに、溜りしを見て、櫛も一つに持つて、)


お岩

今をも知れぬこの岩が、死なば正しく、その娘、祝言さするは、これ眼前。たゞ、 恨めしきは伊右衞門殿。喜兵衞一家の者どもゝ、ナニ、安穩に置くべきや。思へば/ \、エヽ恨めしい。


[ト書]

(ト持つたる落毛、櫛諸共、一ツに掴み、キツとねぢ切る。髮のうちより、血汐、 タラ/\と落ちて、前なる倒れし白地の衝立へその血かゝるを、宅悦見て、)


宅悦

ヤヽヽヽ、あの落毛から滴る生血は。(トふるへだす。)


お岩

一念、通さで置くべきか。


[ト書]

(トよろ/\立上り、向うを見つめて、立ちながら宜しく、息を引取る思入れ。 宅悦、子を抱き、駈けよつて、)


宅悦

コレ/\お岩樣、モシ/\。


[ト書]

(思入れ。ト思はずお岩の立身へ手をかけて、ゆすると、その體、よろ/\して、 上の屋臺へ、バツタリ倒るゝ。そのはずみ、最前投げたる白刄、程よきやうに立ち掛 りゐて、お岩の喉のあたりを貫きし態にて、顏へ血はねかゝりし態にて、よろ/\と 屏風の間を跟き出て、よき所へ倒れ、呻いて落入る。宅悦、狼狽へ、すかし見て、)


宅悦

ヤア/\、あの小平めが白刄があつて、思はず、とゞめも。こりや、大變/\。


[ト書]

(トうろたへる。この中、凄き合方。捨鐘。この時誂への猫。一匹出て、幕あき の切溜へかゝる。宅悦、見て、)


[宅悦]

この畜生め、死人に猫は禁物だわ。シツ/\/\。


[ト書]

(ト思入れ。追廻す。猫逃げて、障子のうちへ駈けこむ、宅悦、追うて行く。此 時、ドロ/\にて、障子へ、タラ/\と血かゝるを、とたんに欄間よきあたりへ、猫 の大きさ位なる鼠一匹、件の猫をくはへ走り出て、猫は死んで落ちる。宅悦、慄へ/ \、見る事。此時鼠は、ドロドロにて、火となつて消ゆる。)


[宅悦]

こりや、この内には居られぬ/\。


[ト書]

(ト抱き子を捨てゝ、向うへ逃げて行く。揚幕より、伊右衞門、衣服を着替へ、 綺麗にして出で來り、宅悦に行當り、見て、)


伊右衞

ヤ、われは按摩か。どうした。お岩は連れて逃げたか。首尾はよいか/\。


宅悦

アヽ、モシ/\、お前のお頼みだが、そこどころぢやござりませぬ/\。


伊右衞

アヽそんならまだ、逃げないのか。エヽ埓のあかない奴だ。コレ、俺は伊藤の屋 敷にて、内祝言をして來てナ。大方あのお岩は、われが引出してくれたであらうと思 つたから、今夜向うから花嫁を連れて來るが、お岩がうせては、サヽ大變だ/\。


宅悦

左樣さ。大變でござります。大きな鼠が。(思入れ。)
いや、大變/\。あの、まア、鼠が。


[ト書]

(ト慄へ/\、向うへいひる。伊右衞門見送り、)


伊右衞

何だ、あいつは。鼠々と、後もぬかさず逃げて失せたが、それにしてもお岩を追 出す、その相手は誰にしような。(ト思入れあつて、)
オヽ、有るぞ有るぞ。あの中間の小平めを間男にして、あいつら二人をたゝき出し、いづれ今夜中に、お梅をこゝへ。(ト門口へ來り、)
お岩、どこにゐる。お岩/\。


[ト書]

(ト呼立つる。此時、足下にて赤子泣く。恟りして飛びのく。)


[伊右衞]

こりや、どうだ、この餓鬼を道傍へ。すんでのこと踏殺さうとした。お岩/\。


[ト書]

(ト呼ぶ。思入れ。薄ドロ/\にて大きなる鼠出て赤子の着物を啣へて引く。又 ぞろ鼠出て、件の鼠の尾を啣へて、だん/\と鼠連らなり、後ずさりに赤子を引いて 行くを見つけ、)


[伊右衞]

ヤヽヽヽ、こりや鼠が、この餓鬼を。エエ、とんだ畜生だ。シイ/\。(ト思入れ。追ひ散らす。)
うぬが餓鬼を、鼠が引くのも知らないか。コレ、お岩/\。(思入れ。ト赤子の泣くのをかゝへて、たづね廻り、女の死骸を見付けて、)
ヤヽ、こりやこれ、お岩が死骸。喉に立つたは、小平めが赤鰯。そんなら、あいつが殺したか。それにしてもあの押入れ。(思入れ。ト駈けよつて下の押入をあけ、内より、件の小平を引出し思入れあつて、)
こいつが繩目は、やはりその儘。そんなら、こいつが、よもやお岩を。(ト思入れして、)
こいつを相手に。


[ト書]

(ト云ひざま、繩目をとく。小平急き込んで伊右衞門にすがり、)


小平

旦那樣、エヽ、こなたはの/\。


伊右衞

何だ、こいつは。俺がどうした。


小平

いや/\/\。兩手も口も、かなはねば、お岩樣をこの樣に、氣を揉死に殺した も、皆お前のさつしやる業。コレ、何もかも、あの按摩がお岩樣に向ひ、隣屋敷の喜 兵衞樣と、云ひ合はせたる一部始終。殊に面體忽ちに相好替へたも、藥の業。現在女 房を今更に、宿なしにして其身の出世。どうしてそれが榮えませう。エ、お前樣は見 下げ果てたお人だなう。(トきつと云ふ。)


伊右衞

喧しいわえ、駄折助め。お岩が死んだもうぬが刄物。そんなら主の女房を、うぬ、 殺したな/\。


小平

アヽ、滅相な。たつた今まで兩手も口も結はへられ、どうして左樣な。


伊右衞

それでも、それ/\、兩手が動くわ。そんならお岩は、うぬが殺した/\。


[ト書]

(トまくしかけて云ふ。小平、伊右衞門へ種々に云つてもきかぬ故、思入れあつ て、)


小平

さう云はつしやりますなら、お岩樣を殺したは、私が咎になつて人殺しになりま せう。その替りには、もし、旦那樣、どうぞ盗んで走りましたアノ唐藥蘇氣精。あの お藥を私に。


伊右衞

箆棒め。あの唐藥はさつき質屋へ、五兩の質にやらかして、こゝには無いわ。


小平

そんなら藥は、あの質屋に。先さへ知るれば參つて願うて。


[ト書]

(ト門口へ行かうとする。伊右衞門、後より拔打ちに小平を斬る。その手に縋つ て、)


[小平]

こりや、お前、なんでまア、私を。


伊右衞

知れたこと、お岩が敵だ。殺しましたとたつた今、わりや人殺しになつたぞよ。 殊に隣家の企みの樣子、聞いたとあれば猶更に、生けておかれぬ、小佛小平。民谷が 刀で往生ひろげ。


[ト書]

(トまた斬りつけ、立廻よろしく。小平、數ケ所の疵を受け、伊右衞門にすがつ て、)


小平

わどか一夜の雇でも、假の主故、手出しをすれば。


伊右衞

主に刄向ふ道理だわ。それだによつて嬲切り。お岩が敵だ。くたばれ/\。


[ト書]

(トずた/\に斬倒しゐる。此中、木魚入りの合方。向うより長兵衞、官藏、出 て來て、この樣子を見て、)


長兵衞官藏

ヤ、こりや小平めを、伊右衞門殿。


伊右衞

何かを聞いたこの小者。殊に死んだるお岩が不義の。


長兵衞官藏

ヤ、そんなら内儀のお岩どの。


伊右衞

相好變つて、こいつと二人、この家を逃げんと、ひろいだ不義者。


長兵衞官藏

聞けば聞く程、野太い野郎め。シテこの死骸は。


伊右衞

世間へ見せしめ。二人の死骸、戸板へ打ち附け、姿見の川へ流して、直ぐに水葬。


[ト書]

(ト押入れの杉戸を引きぬき、小平の死骸を件の杉戸へひつぱつて、釘にて打ち つける。この時、薄ドロ/\。仰向けになりし小平太のひつぱられし兩手の指、蛇の 形となり。うごめく。兩人見て、)


官藏

あれ/\、兩手の指が殘らず。


長兵衞

どうやら、蛇に。


伊右衞

何をたはけた。


[ト書]

(トこの時向うより、伴助、走り來り門口より、)


伴助

伊右衞門樣/\、喜兵衞樣より花嫁御が、只今これへ御家内一緒に。


伊右衞

それは早急。然らば二人が死骸は奧へ。


長兵衞

心得ました。


伴助

ヤ、小平が死骸に、お岩樣。そんなら二人は。


伊右衞

間男心中。二人を戸板で、直ぐにどんぶり。仕事は奧で。


三人

呑込みました。


伊右衞

見られまいぞ。


[ト書]

(ト、唄。時の鐘になり、長兵衞、官藏は、小平の死骸を杉戸のまゝ、さし擔ひ、 伴助は、お岩の死骸をひつ抱へ、何れも奧へはひる。この唄を借り、向うより中間二 人に箱提灯、喜兵衞の紋付にて出る。喜兵衞、袴羽織にて、お梅が手を引き、後より 乳母お槇、中間二人、釣臺に絹地の夜具、六枚屏風などを、さし擔ひ、出で來る。門 口へ來て、)


喜兵衞

伊右衞門殿/\、喜兵衞が參つた。(ト醉うたる態。)


伊右衞

これは/\。御隱居には、早速にお梅を同道。サヽ、これへ/\。


お梅

アヽ、モシ、只今も申しまする通り、最前致せし内祝言。それさへあるに、あな たのお宅へ。


喜兵衞

ハテ、大事ない。伊右衞門殿も、家内に間違ひ出來致し、内をまかなふ者なき故、 縁者となつたを幸ひに、武家にあるまじい引越女房。夜具も屏風も、持たせて參つた。 サ、大事ない大事ない。


お槇

左樣ではござりませうが、何を申すも、お年のゆかぬお子樣を。


喜兵衞

ハテ大事ないといふに。


[ト書]

(思入れ。トお梅が手を無體に引ツぱり内へ入り、皆々、座につく。)


喜兵衞

時に伊右衞門殿、いよ/\貴公の申されし通り、お岩どのには。


伊右衞

先刻内祝言の砌り、お話し申した男と違ひ、手前の小者の小平と云ふもの、又ぞ ろ、きやつと不義間男。殊更露顯と存じつき、産婦の女を同道し、乳呑を捨て置き家 出致せし憎ツくき二人。さすれば直ぐにお梅どの、今晩よりして留めおきまする。舅 御にも、左樣お心得なされて下さりませ。


喜兵衞

アヽ又他に男がござつたか。イヤ、それは不埓千萬な儀でござるな。しかし此方 がためには、誠にあうたり、かなうたり。


お槇

先刻も左樣なお話。よもやとは存じましたれども、あの御病氣の御樣子で、どう して家出なされしやら。まア/\、それは格別。差當りまして御男子樣が。


伊右衞

イヤ、眞に小兒に弱りきるぢや。


喜兵衞

サ、それ故、身どもゝ今晩から、留守居がてらに、泊つて進ぜる。明日は早々、 乳母を尋ねて進ぜよう。コリヤ、槇よ、勝手よき所へ、おれが床を取つてくれい/\。


お槇

畏りました。(ト思入れ。下の方へ持參の夜具を敷く事。屏風を立ておき、)
ハイ/\、御隱居樣のお床を、これへ延べましてござりまする。


喜兵衞

シテ、婿殿と孫めが寢間はな。


伊右衞

只今まで、お岩がまかりあつた床の中。きやつへの面當、やはりあれへ臥りませ う。


喜兵衞

成程、それもよくござらう。(思入れ。)
コリヤ/\梅よ、これは、そちが守りぢや程に、大事にそれをかけて居ようぞ。(ト赤地の錦の守を渡す。)


お梅

左樣なら、こりや離さずにかけませうが、心掛りは、アノお岩さんの事が。


お槇

左樣ではござりますれど、まア/\、それは格別。お寢間ばかりは。


伊右衞

ハテ、大事ない。身がよいと申すに、誰が何と申すのぢや。(ト腹立ちの態。)


お槇

イエ/\、誰も左樣は申しませぬ。左樣ならお前樣は。(トお梅が手を引き、上の方件の床の上へつれゆき、)
今宵は此處で日頃のお願ひ。


お梅

それぢやと云うて、モシひよつと、私が事故お岩樣。


お槇

ハテ、それを仰しやると、あなたの願ひが。


[ト書]

(ト屏風を引廻す。赤子泣く。)


伊右衞

ハテ、折惡い。あの乳呑み。


喜兵衞

身どもが今宵は乳のない乳母。かんがく致して、寢させて進ぜう。(ト赤子を抱き、下の方の床の上へあがる。)


伊右衞

然らば、舅御、何分宜しう。


お槇

して、私は。


喜兵衞

今宵の仕末を、娘にも話してくりやれ。


お槇

畏りました。そんなら私は、芽出度うお開き申しませう。


伊右衞

乳母も休みやれ。


お槇

ハイ、ゆるりとおしげりなさりませ。


[ト書]

(ト唄。時の鐘になり、提灯持ち先に、お槇供廻り、殘らず向うへ入る。喜兵衞 も屏風引廻す伊右衞門一人殘り、思入れあつて、)


伊右衞

ハテ物事もこれ程うまくゆくものか。


[ト書]

(ト思入れ。正面暖簾口より長兵衞、官藏顏を出し、)


長兵衞

伊右衞門殿、戸板の二人を。


伊右衞

早稻田のあたりの、流れへ突き出し。


兩人

不義の成敗。


伊右衞

これ。


[ト書]

(ト思入れ。兩人、顏を引く。)


[伊右衞]

サテ、これからが新枕。娘の手いらず。ドリヤ、永上に掛らうか。


[ト書]

(思入れ。ト凄き合方になり、時の鐘。上の方の屏風へかゝり、)


[伊右衞]

お梅どの、さぞ待遠に。


[ト書]

(ト屏風引き開ける。床の上にお梅うつむいてゐる態。伊右衞門、近よつて、)


[伊右衞]

これ、花嫁御、うつむいてばかり居ることはない。恥かしくとも、顏をあげ、日 頃の戀のかなうた今宵、そんなら芽出度く、こちの人、わが夫かいのと笑うて云やれ な。(ト寄り添ふ。)


お梅

アイ。(思入れ。)
こちの人、わが夫かいの。


[ト書]

(ト顏を上げ、件の守を差出す。お岩の顏にて、伊右衞門を恨めしさうにきつと 見つめてげらげらと笑ふ。伊右衞門はぞつとせし思入れにて、あたりなる刀引取り、 拔討ちに、ぼんと首討つ。この首、前の縁へ見事に落ちると、お梅の本首出て、薄ド ロ/\首のあたりへ鼠出て、群がる。伊右衞門、首をよく/\見て、)


[伊右衞]

ヤヽヽヽ、やつぱりお梅だ。コリヤ、はやまつて。


[ト書]

(トつか/\と行き、邊の差添を尋ね、腰にぼツこみ、刀、引き下げ、つか/\ と行く。屏風引きのける。喜兵衞、赤子を抱き、掻卷を着てゐる。伊右衞門近寄つて ゆり起し、)


[伊右衞]

これ舅殿、珍事がござる。アノ間違で。


[ト書]

(ト喜兵衞を引起す。その顏小平の顏にて、抱き子を喰ひ殺せし體にて、口は血 だらけ。伊右衞門の顏を見つめて、)


小平

旦那樣、藥を下され。


伊右衞

ヤ、おのれア、小平か。現在小兒を。


[ト書]

(ト云ひさま、拔討に首打落す。よきところへ、喜兵衞の本首、血にそみて出る。 蛇一疋本首に纒ひ、うごめく。伊右衞門よく/\見て、)


[伊右衞]

ヤヽヽヽ、切つたる首は、やつぱり舅。かゝる祟りに、うか/\こゝには。


[ト書]

(ト門口へ駈出す。戸は閉りある故、さらりと開けて、出んとする。又ぞろこの 戸しやんと閉る。伊右衞門、びつくりしてたぢ/\と後ずさりに來り、ふつと息をす る。ドロ/\にて、心火立上る。伊右衞門見て、ぎよつとして、)


伊右衞

ハテ、執念の。


[ト書]

(思入れ。トつとなるを、木の頭。)


[伊右衞]

なまいだ/\/\。


[ト書]

(ト手を合はせ、回向する。これをきざみにて、)


拍子幕