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十一
  

  

十一

 さびしい生活、荒涼たる生活は再び時雄の家に 音信 ( おとず ) れた。子供を持てあまして ( やかま ) しく ( しか ) る細君の声が耳について、不愉快な感を時雄に与えた。

 生活は三年前の ( むかし ) ( わだち ) にかえったのである。

 五日目に、芳子から手紙が来た。いつもの人 ( なつ ) かしい言文一致でなく、礼儀正しい 候文 ( そうろうぶん ) で、

「昨夜 ( つつが ) なく帰宅致し候 ( まま ) 御安心 被下度 ( くだされたく ) ( ) ( たび ) はまことに御忙しき折柄種々御心配ばかり相懸け候うて申訳も 無之 ( これなく ) 、幾重にも 御詫 ( おわび ) 申上候、御前に御高恩をも謝し奉り、 御詫 ( おわび ) も致し度候いしが、 兎角 ( とかく ) は胸迫りて最後の会合すら ( いな ) み候心、お察し被下度候、新橋にての別離、 硝子戸 ( ガラスど ) の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候ようの心地致し、今 ( なお ) まざまざと御姿見るのに候、山北辺より雪降り候うて、 湛井 ( たたい ) よりの山道十五里、悲しきことのみ思い ( ) で、かの一茶が『これがまアつひの住家か雪五尺』の名句痛切に身にしみ申候、父よりいずれ御礼の文奉り度 存居 ( ぞんじおり ) 候えども今日は町の 市日 ( いちび ) にて手引き難く、 乍失礼 ( しつれいながら ) 私より 宜敷 ( よろしく ) 御礼申上候、まだまだ御目汚し度きこと沢山に有之候えども激しく胸騒ぎ致し候まま今日はこれにて筆 ( ) き申候」と書いてあった。

 時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋れた山中の田舎町とを思い ( ) った。別れた後そのままにして置いた二階に上った。懐かしさ、恋しさの余り、 ( かす ) かに残ったその人の 面影 ( おもかげ ) ( しの ) ぼうと思ったのである。 武蔵野 ( むさしの ) の寒い風の ( さかん ) に吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音が ( すさま ) じく聞えた。別れた日のように東の窓の雨戸を一枚明けると、光線は流るるように射し込んだ。机、本箱、 ( びん ) 紅皿 ( べにざら ) 、依然として元のままで、恋しい人はいつもの様に学校に行っているのではないかと思われる。時雄は机の 抽斗 ( ひきだし ) を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って ( にお ) いを ( ) いだ。 ( しばら ) くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに ( から ) げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた 蒲団 ( ふとん ) ── 萌黄唐草 ( もえぎからくさ ) の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の ( えり ) 天鵞絨 ( びろうど ) 際立 ( きわだ ) って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを ( ) いだ。

 性慾と悲哀と絶望とが ( たちま ) ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。

 薄暗い一室、戸外には風が 吹暴 ( ふきあ ) れていた。