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 若し人間というものが、布で作った着物のように、人の手で解けるものであったら、さよは良人を今こそ熱心に解体し始めたろう。

 そして、一つ一つの部分を、自分に納得の行くまで眺め、触り、引かえして見て、また元の形に纏めあげ、心から ( やすら ) おうとしたに違いない。けれども、これは空想に於てさい不可能なことである。彼女の前や横には、その点からは手のつけようのない良人が、外見には親しく近く、さよの心から見ると距離が近いだけ一層増す寂寞さで引添うている。

 その寂しく苦しい心持は、一ヵ月ばかり前、彼女が独りぽっちで家にいた時のとは全然異ったものであった。ある時は、良人さえ帰れば彼女は忽ち救われた。一日中の圧迫されるような陰気さは、彼の顔を見た刹那に消散した。が、今度のは正反対といえた。さよは、保夫が自分のすぐ傍に坐って、天地の間に唯一つの疑問も不安もないという風に湯上りの濃い髪を艶々させているのを見ると、却って絶望に近いほどの寥しさ、野蛮な焦躁に煽り立てられるのであった。

 彼女は、あばれる獣をやっと押えつけているような幾日かを送った。とうとう、辛棒がしきれなくなった。彼女は憐れに一心な顔付で良人につっかかって行った。

 例によって、それは夕食後のことであった。さよがひとりでに黙り込み、卓子に眼を落してばかりいた故か、保夫は早めに書斎に引取った。彼女は暫く後に残って、女中に口を利いたが、軈て良人の後を追うように書斎に行った。六畳の部屋は、短い鍵の手の廊下で離れのように庭に突出ている。保夫は、正面の濡れ縁に向って机を据えていた。夜の、何か濃い液体のような闇は、冴えた電燈が煌々と漲る敷居際でぴたりと押し返されている。彼の後姿は、光を浴びる肩の辺をしろじろと、前方の闇に浮上って見えた。

 さよは、静に机の傍に行った。保夫は、右手に青鉛筆を持ち、薄い仮綴じのものを読んでいる。――細かな横文字を無意味に眺め、さよは声をかけた。

「――おいそがしいの?」

 保夫は、背を延し、パラパラと頁を翻した。

「そういうわけでもないが……何故?」

「…………」

 さよは、夜気が身に迫るとでもいうように、単衣の袖を抱き合せた。保夫は、彼女の顔付を見、微かに表情を変えた。彼女は、藁半紙のようにごく粗末なパムフレットに目を据えたまま、思い込んだ調子で云い出した。

「ね、貴方――安心?」

「何が?――君のような出しぬけでは、返事に困るよ」

 保夫の言葉つきの裡には、充分な用意と、それを包んだ平静さ、子供扱いの気軽さを装う響きがあった。

「何だい?……地震」(一九二三年東京、湘南地方に大震があり、翌年になってもしばしば余震があった。)

「そんなことじゃないわ、地震なんか――私共のこと。――」

 さよは、顔を擡げて良人を正視した。

「貴方ちっともそんな心持はなさらないの? しんから安心?」

 保夫は煙草の煙をよけるように瞼をせばめた。

「何か僕達の生活に不安があるというの?」

 さよは、合点をした。

「私この頃堪らないの」

「……何も不安な処なんかないじゃあないか。僕はこんなに貞節のある良人だ! 君は君で一日じゅう眠ろうが起きようが自由な身の上だ!――僕は不安どころか、大いに幸福だと思う。特に、君なんかユートピア以上の生活だな」

 さよは、不愉快に良人の軽口の先を折った。

「冗談はあと。私は真面目よ。――貴方本当に私共の生活が充実しているとお思いになること? 大丈夫、完全なものだとお思いなさる? 私は、この頃、そう呑気でいられなくなったわ。……ひどく不安なの」

「……我儘だろう?」

 保夫は、さよの笑いを釣り出そうとして、誇張した表情までつけ足した。さよは、真剣で否定した。

「そうではなくてよ。決してそうではありません。二人で暮して行く以上、大事なことだから本気で聞いて下さる方がいいわ。

 私はね、この頃貴方が判らないの。貴方の心持の中心が、生きて行く蕊が、私とまるで別な、遠い処にあるようで苦しいの。それは勿論」

 彼女は、気を入れて聞き始めた保夫に説明した。

「同じような処もあってよ。同じに考えたり思ったりする事もあります。けれども、それは些細なことで、結局お互がどちらでもいいから、無意識に譲り合って行くのでそうなので、大元の処へ行くと、二つがすうっと離れねばならないようなの。お判りになる? 私の云うことが……。例えば、今、私がこんなことを云うまで、貴方一寸もそういう心持は感じていらっしゃらなかったでしょう? 自分が感じないばかりでなく、私が感じていることも、まるでお感じにならなかったでしょう?――それが離れていると私が云うところです」

「ふうむ。……然しそれは、君が僕の気持をよく理解しないからだろう。まだ――」

「そうか知ら。――私は逆のように感じてよ。貴方は、私共が世間で認める通り夫婦で、外から見た条件がちゃんと調っているのだけ知って安心していらっしゃるのじゃあないこと? 自分達の心の問題を放ぽり出して、他人のように外側だけ見て好い気になっているのは嫌よ。――私は根から安心したいのです。貴方と私とが、本当にこここそというところを確り持ち合って行きたいの」

「――いやに懐疑的だね」

 保夫は、手入れの好い髭の辺に、不似合な曖昧な迷惑げな表情を泛べて、さよを見た。

「こうやって生活しているという事実以外に、僕等の生活のあるべき訳がないじゃないか。それに……君の言葉は捕えどこがまるでない。遠いとか寂しいとか云わずに、どこか悪いところがあるなら明瞭に指摘すべきだ。それが君に出来ないなら、僕は、君の云うことに、はっきりした土台がないとしか思えないよ」

「悪いというものではないのです。なおすというより、もっと心の底に入るの。もっとむき出しで、鋭く感じる心が私は欲しいの。私に遠慮なく云わせれば、私のこの心持を論理の上で正しい形をとって説明させようとなさる、それが淋しいのです。判ったでしょう? 心のことよ。心直接感じるべきことなのよ!」

「じゃあ堂々廻りで結局、僕に云っても駄目だということじゃあないか!」

 保夫は、さよの胸を一杯にした冷やかな事務家的態度を示した。彼女は、辛うじて自分の涙もろさに打ち勝った。

「私は、駄目だと云って澄していられないのよ! 二人で生きて行くのなら、生きてゆくようにして行きたいのです。だから――」

「ね、さよ」

 保夫は、煙草を灰皿の上に揉み消し、熱くなってつめよるさよを遮った。

「生活の幸福というようなものは、愛と同じで、一種の信仰だよ。信仰次第でどうともなる。――君なんか、まだまだ生活がどんなものだか知らないのだ。……君だって僕の愛だけは、信じられるだろう? それがお互の生活の万事ではないか」

 彼は、何か云おうとするさよの手を執った。そして、

「さあ、理窟はやめて、可愛いさよにおなり」

と云いながら、彼女をひきよせて愛撫しようとした。彼女は、赧くなって、遂に涙をこぼした。

「そういう風に片づけては駄目。――貴方は、狡いわ!」

 彼女は、手を引こめて、きちんと坐りなおした。

「私だってお互が大切だと思うからこういうことも云い出すのです。愛している、愛しているって、百万遍お互に誓い合ったって、心の観音開きがいつでも行き違ってプカプカしていて、貴方平気? 平気でいらっしゃれるの?」

 さよは、せめてここで「いや、そんなことでは堪らない。そんなことをしては置けるものか!」と云って欲しかった。彼女は、その一言で、心半分は助かっただろう。彼女は、どこかでぴったり、率直な、むき出しな保夫の心にぶつかりたかった。それを願うばかりに、多くの言葉も費すのに、彼は、驚くべき冷静さで云った。

「それは君の想像だよ。――君ばかりが、閑にあかして捏ねあげたものの証拠には、見給え」

 彼は、凱旋者のような眼に微笑さえ湛えて云った。

「現にこうやって一つ家に生活している僕が一寸も感じていないことじゃあないか」

 さよは、我知らず、

「独断家!」

と叫んだ。

「貴方、よくそんな! 自分の判るだけしか人生は、人間の心はないと思っていらっしゃるの?」

「亢奮しない方がいい。――而も、僕は君にとって、決してあかの他人だとは思っていない。少くとも良人だ。良人である自分に、君の……妻である者の大切な心持が判らない筈がないじゃあないか。それだのに、低能でもない僕に感じられないとすれば、気の毒だが、君の方が根拠が薄弱だ」

 さよは、心の歯を喰いしばった。彼女は、出来ることなら擲りつけて、良人を独善的な、紳士的な、冷血な頑固さから突き出したかった。彼は、さよの心が、どんなに苦しんでいるか思い遣ろうともせず、卑俗な自分の頭の正確さに、寧ろ愉快を感じてさえいるではないか? さよは、獣のように呻いた。ホッテントットの女のように、良人に噛みつき擲り合って、しんまで事がさっぱりするのだったら、どんなに晴ればれするだろう。脳髄の皺がほんの少し多いばかりで、さよは、自分の指一本動かせなかった。彼女は、この苦しさが、擲り合いで片づかないものであるのを知っていた。また保夫は、打たれて打ち返す男ではなく、心に氷のような侮蔑を含んで眉毛も動かさないであろうことを知っていた。彼女は、燃え顫える激情を、ただ熱い数滴の涙にだけ溶して、淑やかに教養ある日本女性の典型のように、二つの手を膝に重ねていなければならないのだ。――彼女は、様々に思い乱れた。「夫婦というものは、どこでもこんな味気ないものなのだろうか。どうかして、体も心も安心して一つになってしまいたい、その判り切った願さえ、黙って堪えて行かなければならないのか」

 さよは、すすりあげながら、親子より親しい夫婦の中などという云いならわしを、絶望を以て思い起した。