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 保夫の側から見ると、さよは近頃特に濃やかに気の利く妻となって来た。

 彼女は、一つでも、未だ口に出して云われない彼の希望や要求を察して、仕とげたのを発見すると、ひどく ( よろこ ) んだ。普通妻が、良人の満足を見て自分も好い心持になるという以上のものが、さよにはあった。彼女にとって、そのことが出来たのは――保夫が、

「ほう、あるね。実はもうそろそろ買って来なければいけないと思っていたんだが」と、新しいオー・ド・コローンの瓶を手にとるのを見るのは――つまり自分の感じが間違ってはいなかった証拠であった。さよはそこから二重の嬉しさを得たのである。

 時によると、また、彼女は何か云い出そうとする保夫の口先を、

「あ、一寸待って。云わないで、云わないで」と、あわてて遮ることがあった。夕飯後、彼等は定って八時頃まで雑談した。夕暮の気持よい日には縁側に並んで腰をかけたり、庭をぶらついたりしながら。――そういう時、話の続きを中絶させて、さよは熱心に、

「あ! 一寸待って」

を叫ぶのであった。保夫は、兵児帯の後に両手をさし込んだまま、訝しそうに彼女を顧る。

「何故?」

「――その先は私が云うの」

 さよは、良人の顔から眼を離さず説明した。

「私がね、貴方がきっとこうおっしゃるだろうと思うことを云うの。当ったか当らないか、正直に教えて頂戴」

 そこで、さよはもったいぶり、場合によっては、

「――省――課書記官谷保夫は、今、彼の従弟の就職について云々」

と、冗談を混ぜて良人の考えや心持を話した。保夫は本気にならず、

莫迦 ( ばか )

と苦笑しながらも、さよによって読みあげられる彼の考えというものに耳を借した。さよは、妙に真剣で、頭の奥から糸でも繰り出すような眼付で話しながら、少しあやふやなところに来ると、

「そうじゃあなくって? 違って? まるで違うこと?」

と念を押す。全然見当の脱れた時、保夫はさも面白そうに高笑いした。そして、遠慮なく、

莫迦 ( ばか )

を連発して彼女を 揶揄 ( やゆ ) した。さよは、額の隅を掻いて敗亡を示した。当がはずれても、結局食後の座興として決して不適当なものではない。然し、十中七八まで保夫は彼女の言葉を正面から否定はしなかった。その代り、はっきり承認もしない。彼は、にやにやしながら、

「まあそう思うならそうして置くさ」

と云うのであった。

 この当て役が反対に保夫に振りつけられると、二人の会話は、さよがその役を持った時ほど快活に、熱をもっては進まなかった。

 彼女は良人に注文するだろう。

「きのう吉村さんがいらしった時ね、私、あの方について感じたことがあるのです。何だとお思いになって? 鈴木さんと比較して――当てて頂戴」

 保夫は、気も乗らなそうに煙草の ( けむり ) を吹いた。

「何の稽古が始るのかい。――吉村について感じたって……漠然としすぎて問題になりゃあしないよ」

 さよは、良人に興味を持たせたく、一生懸命に云った。

「吉村さんと鈴木さんとは同じ実業家でしょう。実業家といっても二人は実業につく動機がまるで異うと思ったの、そのこと――」

「厄介なことになったな」

 保夫は間に合わせな答をした。

「第一、男の見た男と、女の見た男とは大分違うよ」

「いやな方!」

 さよは、酸いような笑いを笑った。

「違うからこそ当てて頂戴と申上るのよ。あの二人は性格が随分異っているでしょう、その違いを私がどう感じたかということなのよ」

「さあ――大体何だろう、鈴木は神経質で、考え出すと眠れないという方だが、吉村はずっと太っ腹だろうな。大損をしてハッハッハッと笑うのは、吉村でなけりゃあ出来ない芸当だろうな」

 さよは、詰らなそうに良人を見た。彼女は諦めきれない風でつけ足した。

「私の云った要点とまるで違ってよ、それは」

「だって彼奴の性格はそうだよ。事実だから仕様がない」

 さよは黙り込んだ。彼女は何ともいえない物足りなさと淋しさとを感じた。せっかく一心に矢を射いても、いざというところで的がくらりと斜かいになり、徒に流れ矢となって落ちてしまう。さよは、せめてかっちり、要点だけは受けとめて欲しかった。返事は間違ってもよいから「お前のことだからこうでも思っただろう」というところから発足しなければ、焦点が合わないということ位、鋭く感じて欲しかった。

「この空虚な喰い違いを、何とも感じないのだろうか!」さよは、心の裏に寒さを覚えながら、愕き慍って良人の顔を見なおした。

 最初は、相当愛嬌をもって始められた当てっこ、さよの云う心の跋渉は、時が経つにつれ、次第に感情の複雑さを増した。同時に、幾分残酷なものにもなって来た。彼女は、これ迄、好い人というぼんやりした一つの型にはめて安心していた良人の性格を、自然細かに調べる機会を与えられた。そして、親達が、配偶として第一の条件のように云って聞かせてくれた好い人というものが、決して性格として頼れる面白いものでもなければ、まして自分が描いているように、溌溂と熱意ある生活の幸福などは、到底期待出来そうもなく思われ出したのであった。

 さよは、当てっこの奥に暗く凄い何かが募って来るのを感じた。彼女は、何気なく夕飯後、夕刊を見ている良人に云いかける。

「今日沢口の伯母様がいらっしゃってよ」

「ほう。何だって?」

「また幸雄さんのことをこぼしていらしったわ。あの人にも困るって。先達っての話は、自分から行って断ったのですって……」

 さよは、注意深く保夫の返事を待った。幸雄は従弟で、彼はその兄役をしていた。

「贅沢だな。この就職難のとき自分からいいくちを断るなんて……」

 保夫が、自分の予期通りのことを、呑気に云うのを見ると、さよは焦立たしさと悲しさとを同時に感じた。彼女は、複雑に、意地悪く動く自分の心持を、惨めに自覚しながら云った。

「伯母様に申上て置いたわ。今度幸雄さんがいらっしゃったら、きッと保夫がよくお話しするでしょうって。――そうでしょう? 貴方幸雄さんに、伯母さんを早く安心させるもんだよっておっしゃるでしょう?」

 保夫は、機械的に答えた。

「云わなくちゃあなるまい。――せっかく理財科まで出て遊んでいるのももったいないからな」

 さよは、「何故そんな上っ面で安心? どうしてもう一皮、幸雄さんの心持の下まで切り下げないで安心なのだろう!」という、歯痒い歯痒い心持を、やっと、

「幸雄さんはいい従兄を持って仕合わせね」

という皮肉に洩した。

 けれども、保夫は、彼の傍で、さよが、どんな感情に煮え立ち、それをどんな心持で制しているかは、まるで感じないように見えた。彼は苦労も不安もないらしく、艶の好い、型通り青年紳士の顔を、悠々居間の灯の下に浮上らせているのだ。――

 彼女が指先に絡めて編んでいた絹糸のように、慎ましく輝き、滑らかであった生活は、少くともさよの心の内で変化した。彼女は、良人と自分との調和ある沈黙の頷き合いは、散歩に出ようか出まいかということ、二人共が丁度同じ時番茶を飲みたいと思うこと等以外に、果してどこまで深く連絡があるかひどく疑わしい心持に、結婚後始めて逢着したのであった。