University of Virginia Library

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 四辺はもう六月であった。

 さよは、独りになると、いよいよ濃い青葉のちらちらする縁側に出、鮮やかな紫陽花の若葉の色だの、ガラス鉢の水を緋や白に照して泳ぎ廻る金魚だのを眺めながら、種々な考えに耽った。

 これほど心を捕われることから見ても、さよは、自分がどの位良人に執着しているか、はっきり解った。けれども、何故執着しているのか。愛しているから。それなら彼のどこを何を愛しているのかと自問自答して行くと、彼女は、苦しい心持になった。良人と切りはなせない絆を感じる心持と、彼の物足りなさ、詰らなさ、自分の求めるものが決して彼の裡にはないという事実とは、彼女の心の裡で厳然と対立した。さよにとって悲しいことは、これ等の気持を、洗いざらい良人に打ち明けられないことであった。黙って、独りで何か解答を見出さなければならない。それも、二人でではなく、自分だけが何とか変化しなければならない――さよは、保夫が彼自身の平々凡々にはまるで気がつかないのを知っていた。また、彼女が何とか云ったところで、決して素直に十七八の青年のように自らを顧みて涙を落すような質でもないのを知っていた。保夫は、さよから見ると、かんじきを足につけて生れて来た人のように思えた。かんじきは、どんな深い雪の上を歩いても、決して彼を溺らせたり立往生をさせたりはしない。彼女は、自分の足にそんな重宝なものがついていないことを見出した。それ故、彼の行く道を ( ) いて行こうとすると、あがきがつかない程、ずぶりずぶりと潜り込む。最後の目当ては一つとしても、さよは、自分の道具がついていない足にかなう路をさぐり出さなければならないのを感じた。これが無形な心の問題であるだけ、良人は、彼女がもう 二進三進 ( にっちもさっち ) も行かなくなって、泣きかけで佇んでいるのを知らなかった。彼女がよしそれを訴えたとしても、かんじきのある彼は、彼女がそれを持たないことを思わず「そんなことがあるものか。来る気さえあれば来られるのだ」と云うだろう。

「だって駄目よ、私には駄目なのよ」と云っても、さよは、良人に出して示すべきものは、手近かな視覚に訴えることの出来ない、形象のない、自分の生れつきであるのを侘しく、途方にくれて感じたのであった。

 入梅前のせいか、よく半透明な白い磨硝子を張りつめたように明るい空から、光った細い雨が、微かな音を青葉に濯いで降った。さよが、椅子の腕木に頬杖をついて眺めると、古風に松の下に置かれた巨い庭石の囲りに、濃茶をかけたような青苔が蒸していた。天から、軽く絶え間なく繰りおろす細い雨脚は、苔の面に触れたかと思うとすっと消える。後から来たのも、すっと消える。いくらでも、いくらでも、青苔は凝っと動かず降る程の六月の昼の雨を吸い込んで行く。――

 見守っているうちに、さよの瞳がだんだんうるんで来た。涙が蓮の葉の露のように藤色のセルの胸をころがり落ちた。彼女は、自分達が何のために、何を目当てにその日その日を一つ屋根の下で生きて行くのかと思った。保夫は、外側からだけ見れば、疑いもなく毎朝出掛けて行くべき役所と、判を押す書類と、ふかすべきウェストミンスタを持っていた。けれども、しんのしんの生きる目的、意味と思うものはどこに持っているのだろう。それ等の一つ一つに小分けにこめられているのか。または、釜しきか何かのように、そういう外廓だけは如何にも確り、ちゃんと出来ているが、中心はすぽ抜けなのではなかろうか。自分は、彼との生活のどこに安心し ( ) りかかる場所を見つけられるのだろう。……

 或る考えに脅かされ、さよは殆ど椅子から立ち上りそうにした。彼女は、落付きのない眼を動して、救いでも求めるように、濡れきった庭や、廊下や、仄暗い庭を見廻わした。外には、自然も人間も圧しくるむような雨が煙って降っている。点滴の音が単調に聴え出した。――さよは、立って廊下の端まで歩いて行った。何かに押し戻されるように柱の下まで来、彼女はそこに佇んだまま、燈火の光が庭の水たまりに写ってチラチラし始める頃まで動かなかった。夜、彼女は出来るだけ平和に良人の抱擁を拒んだ。ひとりにされると、彼女は暗闇の裡で声を殺し劇しく泣いた。さよは、自分がこういう気持で対している良人の子を孕むことを想うと、恐怖と ( はずか ) しさとで手足が氷のようになった。彼女は闇に瞠った眼尻からぼたぼた涙をこぼしながら、自分で何故ともわからない緊張を以て、良人の穏やかな寝息に注意を凝した。