University of Virginia Library

 こういう一つの偶然な実験――体や神経の疲労がひどい時には、ある色彩が頭でわかっても、その色の感じを感覚的には感じられないという珍らしい経験をもって、私はそれから市ケ谷に移された。

 そこで又計らず他の経験をかさねた。

 あすこにはラジオがある。コンクリートの広い廊下のはずれの高いところに一つラジオの拡声器が据えつけてあって、朝ラジオ体操のかけ声を鳴り響かす。そして、たまに音楽の中継なども聴かすのであるが、どういうセットをつかっているのであるか、私のいた方のラジオでは第一放送と第二放送とがごっちゃになって聞えた。新響の放送であろうと思われるような交響楽が鳴り出して、諧調ある美しい音に神経が突然快くゆるめられたと思う間もなく、「ああ打ちました! 打ちました!」などと叫ぶアナウンサアの声がわり込み、音楽と野球実景放送とがしばらくあやめも分らずもつれ合ったあげく、拡声器はブブブ、ヒューと、自身の愚劣さを嘲弄するように喚いて、終には一二分何も聞えないようになってしまうのであった。

 ああいう沈黙生活の中で音楽は実に大きいうるおいであり、ほとんど一つの生理的必要である。体がポーと熱し本ばかり読んでいる頭は、恍惚に誘われようと欲して音波にしたがう準備をはじめる。ところが、そういう事情で、こちらに期待する感情が自然な要求として強ければ強いだけ、時代ばなれのしたラジオの乱脈はもどかしい。しかも、こちらは、愚劣な雑音の氾濫を頭から浴びせられているばかりで、それを調整するために自分の手を出すことはもちろん、やかましいスウイッチを切る自由さえも与えられていない。それは役所の日課の時間割によって、忠実になされているのであるから。私はしまいに、ラジオで音楽が鳴り出すと、決して終りまで心持よく聴くことなどを初めから期待しないという抵抗力をつけた。さもなければ、緊張と中絶との全然受動的なくり返しで、かえって気が疲れるのである。

 ガアガアと反響のつよい建物中をあれ狂っていたラジオが消えると、ホッとした休安を感じつつ、ある日曜の午後、私はかつて音に関して自分の注意をひいたことのある一つのことを思い出した。それは、ひどく疲れた時には、同じピアノの同じ鍵の音が変に遠方に余韻なく聞えることである。そのとき私は奇妙に思って、一つ音を何度も同じつよさで鳴らして聴いてみたが、鼓膜が耳の中で厚ぼったくなったような感じで、どうしても本当の音がきこえなかった。次の日になって疲れが癒ったらピアノの音は平常の音量と音色とをもって聞くことができた。その後、一二度ためして見て疲労の一定の限度までは、音は正しく聴かれ、音楽として味わうことができるが、疲れがそれ以上になると、少くとも私は音楽に無反応に陥るらしいのである。

 この音楽的音についての自身の経験は前にいった色彩の感覚と疲労との関係についての実験と自然連関した。そして、私に、生活と芸術的創造、その鑑賞などについての新しい省察を刺戟した。折から、友人が、日本詩歌のリズムを心理学的な実験によって研究した本を差入れてくれた。東京帝大の心理学実験室でなされたこの仕事は、題目としては過去において七五調が永年日本人にしたしまれて来たその心理学的根拠をしらべたものであった。私はだんだん読んで行くうちに、非常に感興を覚え、この種の科学的研究は、新しく、そして科学的な社会観の上に立って芸術を創造し、そういう創造力を開発してゆくために、もっともっと多方面にわたって活溌になされてゆかなければならないと信じるようになったのである。