University of Virginia Library

三 聞けば聞く程筋のわからぬ戀路のはじめと悟りの終り能々たゞして見れば 世間に多い事

 其時お妙は長江を渡る風輕く雲を吹ておぼろにかすむ春の夜の月大空に漂よふ 樣に滿面の神彩生々と然も柔しく、藍田を罩むる霞あたゝかに草を蒸してほやりほや りと光り和らぐ玉に陽炎立つ如く兩眼の流光ちらちらと且嬉し氣に。聞いて玉はれ露 伴樣、妾幼少より東京に生長て父母まづしからず、家計ゆたかなるにまかせて、露を 薄の頭簪に何ぞと問ひし頃は蝶と愛られ、風を縮緬の振袖に厭ひし頃は花といつくし まれ、浮世に樂み長閑なりし年立ち年暮れて冬を送り春を迎ふ る度毎、買つて貰ふ羽子板と共に脊丈段々と大きくなりしが、十四の秋父樣圖らず卒 れ玉ひしより悲しさ遣る方なく、芝居見る外には泣きたるためし少なき身もひたすら に涙もろくなり、果敢なき野邊に一條の煙りを觀じて後は三度の御膳に向ふたびに、 父上の平常坐り玉ひし所むなしく明きて完全たる前齒の一本拔けたる如くしよんぼり と、母樣ばかり、心淋しく箸持つ力も衰へ玉ひたるやうに召上りながら我が母樣を見 て悲しむと同じく母樣も我を顧み玉ひて、御胸痞へたるや御飯の量少なく白湯のみい たづらに飮して私かに瞼の潤ひさし玉ふに我口中の者の味いつしか消えて奥齒咬みし めしまゝに開く事難かりし。われそれより自然と垂籠り勝に日を費やし、平素好きた る三味の色絲彈き鳴さむともせず、琴の師匠にも忌中の休課したる儘遠ざかりて、母 樣が持玉ひし草紙くさ%\に馴れ泥み、有る事無き事かきつらねる册子の中に幽なる 樂みをなせしが、終に癖となりて彼是見盡せし後は薄雪住吉伊勢竹取或は求め或は借 りて三年の中に解らぬながら源氏狹衣にまで讀み至り、其間つくづく人情の濃き薄き を考へ世の態の眞實虚妄を覺え、むかしより男といふ者のあさましく、意一時なさけ 一時、思ひ込み強けれど辛防弱く、逢ふを悦こべど別れを悲し まず、媚めかしく佞らへるをかしき女を好み、戀を榮華のわざくれ三昧、犬猫の色美 しきを愛る樣に女の髪容よきを愛る者なるをさとり、我縁もなき男なれど源氏業平の 如き戲け者を憎く思ふ事深く、嫉妬するにもあらねど其戲け者に迷ひ焦れし種々の女 どもを齒痒き馬鹿と心の内に思ひけるが、十八の年母樣もまた老の病危ふくなり玉ひ、 兄弟もなき身の氣弱く朝に晩に腹中に泣ながら神佛を頼み御介抱申せし甲斐なく、我 亡き後は是を見て一生の身の程を知れと行水に散り浮く花を青貝摺りせし黒漆の小箱 を與へられしまゝの御往生、悲しともつらしとも言ふ言葉を知らぬ歎き。漸く御葬式 濟して後、彼小箱を開き見れば何時の間に認め置かれしやら一通の御書置、是ほどま でに我を可愛う思しめされしありがたさと先づ涙こぼれながら讀み見れば、噫其時の 心持今思ひ出しても慄然とする程、恐しさ口惜さ悲しさ情無さ味氣無さ胸惡さあさま しさ心細さ、厭といふ厭な心持一時に込上て氷水全身に打かけられたる如く、又猛火 に眉毛燒かるゝ如く冷汗脇の下に湧きて身ぶるひ止め得ず、氣も暗く眼も暗くゆら/ \とゆらぐ玉緒絶果んばかりなりしが夫より愈々浮世を厭ひて。 イヤ御話しの中途ですが其黒漆の小箱の中の文に記しありし事如何なればそれほどま でにお前樣を驚ろかせしか。マア御聞きなされ其文に記しありし事をわたくしの口か ら申すもつらし、扨も我年は十九の春を迎へて空に更行ば親類のやうに親達と交際し 誰彼、我を嫁にせん、我婿を世話せんといひ來るを早くもあさましき人情の詐り、盛 りは十年の色、用は一時の財貨にひかれての申し込と猜して、一々きびしく家の僕に 謝絶せ、ひたすら母を慕ひまゐらせ、あはれ此身の朽ちよかし靈魂のみとなりて母樣 の御傍近く行かんものとあせり、つく%\生命も惜からず、世間に何の樂みなく、讀 耽りし數々の草紙も打すて又見ず、男と面を会すさへ忌み嫌ふ樣になりて、蓮葉なる 下女共が年若く美しき俳優なぞの噂まで苦々しく覺えければ、自然と自分は髪に油の 香も止めず櫛の齒を入れて髪の恰好氣にするまでもなし、ましてや前差に鼈甲の斑の 詮議根掛に鹿の子の色のよしあしなんど問ひもせず質しもせず、紅脂白粉はまるで忘 れつ、帶に苦勞をせしはむかし下駄に鼻緒を苦勞せしもむかし、羽織の色がどうであ らうと着物の取合せどうであらうと一切女のたしなみを捨て、おもしろからぬ心中常 に涙を湛へて天地も薄黒く見え花は咲いても萎れたる我、鳥は 歌うても默然たる我、皎々と澄む月に對つても濁り水の我には影清く宿らず、陰々 濛々と寢て起きて食うて少しも何の業なさず、身をじだらくの吾儘にまかせ、神を恨 み佛を恨み人を恨み天地を恨みて悶え苦しむ一念増長するばかり、遂には神を憤り佛 を憤り今世に若し正體在さば針の先で衝てやりたきまでに心逼り來りて、道理を見れ ば何の燈心の繩張り、道理も更に恐しからず、人情を察れば高が氷柱に彩色の一時、 人情も夢うれしからず、胸中に霜雪寒く殘りて慘らしき觀念絶ゆる間なくありしが或 日の事立派なる蝋塗人車我家の門に着きて髯毛うるはしき官員風の男案内を請ふに名 刺を見れば何某局長奏任一等の御方當世の利物と評判ある人なれば我後見ともなりて 家事萬端取り賄なひし老僕出でて御用の筋を何ぞと承まるに。唐突の參上甚だ失禮な れど傳手の無きまゝ是非なく直ちに申し入れます、付かぬ事を御聞申すが當家の御主 人御年頃なるに未だ何方とも縁談の御約束なきや、實は拙者舊藩主の若殿見ぬ戀にあ くがれて玉ひて是非に所望いたされ居る譯、と申した許りにては御分りあるまじきが、 今年の春若殿郊外を散歩せられし折或る墓地を通りかゝられ、 不圖乞食共の話しを聞かるれば、今歸つたあの娘、器量美しい許りか孝心のいぢらし さ見えて母親の墓の前に蹲踞りたるまゝ動き得ず、涙は雨のふる程泣て/\、若い身 にも似ず、生命惜からねば早く母親の御傍に行たしとの述懷、何と今時珍らしい氣立 の女ではないかと一人が云ふを又一人がひきとつて、貴樣今日初めて彼娘に氣が付い たか、あれは毎月の事、去年の何月なりしか彼娘の母の此處に葬られてから毎月の命 日怠る事なく此處に來てあの通りの悲歎、他所で見ても可愛想なありさま、殊更今日 などは顏も大分痩せて血色も惡し、大方家に居ても始終泣いてばかり居る事であらう かとの噂、耳に入るより若殿ゾツとし玉ひて誘はれし涙が一滴、是ぞ戀の水上思ひの 泉ゆめ/\浮きたる御心にあらず、戀が爲せる探索其後御名前御住所まで何時の間に か聞知り玉ひ、ます/\焦れて遂に父上の許しを乞はれ、父君の御依頼によりて兎も 角も拙者中にたち周旋の勞を取るべく今日態々參上したり、内々承まはれば未だ何方 とも御縁談きまりたるにもあらぬよし、何と此話し能々御考へ下さるまいか、媒人口 たゝくではなけれど拙者舊藩主の御嫡子、爵位財産は世間の沙汰でも御存じなるべし、 殊に先年獨乙國に留學せられて學位まである若殿、華族間にて 行末望みのある方、全く浮きたる戲れ言大名氣質の吾儘なる縁談申し入るにあらず、 四民同等の今日實以て後々は侯爵夫人と我等もあがめ申すべき所存、戀のはじまりの 次第を考へられても成るべくは色よきお返事を玉はりたしとて歸りたる後、老僕は躍 り上りて喜び、平常皺びたる顏の其時は光りをなし我に向ひて縁組承知せよと説き すゝむるに。我一度はやんごとなき人に戀れたりと聞てカツと上氣し、又一度は是も 男の例の一時の熱やがては褪める色好みの心鄙しと蔑視み、又一度は母の書遺思ひ出 して忽ち身ぶるひを生じ、厭々々々、縁談など聞く耳もたずと強く云へば老僕は驚き、 是ほど結構な縁談いやと云はるゝは片腹痛しと理をせめ言葉を盡して我を諫むれど少 しも動かねば是非なく謝絶申して、情知らぬ者どもと蔭言さるゝを厭はざりし。され ども我其時より何となく二心になりて然程むごくは男を嫌はず、むごかりし心いつし か和らぎて髪かたちをも治むるやうになりしが、三月ほど經て又彼何某局長見えられ、 我後見に向ひて、過し日の話し纏まらぬ以來流石活溌に聰明に渡らせ玉ひし若殿御動 靜ガラリと變り玉ひ外出もし玉はず、書見もし玉はず、花にも月にも嗟嘆の御聲ばかり、望みは絶えし此世に絶ぬ玉の緒のあるは悲しき事 の限りぞ、あるに甲斐なき生命誰が爲にかながらへんなどと喞ち玉ひて次第々々に三 度の御食すゝまず、晝はうとうと眠り玉ひて夜は寢難に輾轉玉ふ、あはれとは是なり と思ひて御付の者慰さめまゐらせ、愚とはそれなりとさとして父君叱り玉へど唯々消 なば消ぬべし露の身の散りなば人のあはれとや見ん、つれなき人の恨めしからでうと まれし我こそうとまし、とくとく捨てばや生命と朝夕の獨り言、聞かれて母君の堪へ 玉はず再度拙者を召して此御使ひ、何卒よろしく御推諒ありて、御不足の廉あらば御 遠慮なく申さるべし一々御指揮に隨ひ申すべければ此戀成就する樣と情を盡し道理を 責めての話し、其時我ふすま越しに聞て思はず泣きしが、老僕が我に向ひて返事相談 する時には又彼母上が殘し玉ひし書置の事思ひ出して唯々つれなく、縁を結ぶは厭な りと云ひ切つて數多の人に憎まるゝを關はざりし。此度は最早思ひ切て來るまじと思 ひしに又一月ほどたち、彼人來りて、若殿終に浮世をあぢきなく思はれしあまりうつ ら/\と病ひの床に打臥され其後枕上らず、療治の詮方もなく父君母君今は共に最愛 の御嫡子に引かされて心よわく、共に御心配のありさま餘所に 見るさへ痛まし、願はくは思ひ返してよき返事聞せ玉ふようとりなし玉はれ、是は若 殿御病床の中にて書捨てられし反故ながら戀の切なる事あらはれて隱れず、せめては 是をだに見せまゐらせて少しはあはれを汲まるゝたよりともなれかしと持ちて參りし なり、又是は若殿いまだ御病氣になり玉はざりし前の寫眞なるが最も併せてまゐらす べし、御返事は明日また伺ひに上るべし、且は又其折御返事は如何にもあれ、若殿が 生命かけてまで戀れし方の寫眞一枚玉はりたしと云殘して歸りければ老僕又我に色々 説諭し是非に此縁結ばれよ、淺からぬ因縁なるべしなど泣いて勸むれど我剛情に承知 せねば少しは怒りて立去りしあとに殘せし寫眞、見るに氣高く美しき御顏ばせ、いと しさも生じたるばかりか短册に筆も歩み健ならずして

燈し火も暗うなりゆく夜半の床にこゝろきえ%\人をしぞ思ふ

と覺束なく記されたるを見て吾魂魄もゆら/\となりしが母君の遺書思ひ出して 又かゝる貴人に近づくべきにもあらずと、翌日も酷く返事させ寫眞も送らず、かくて 十日程過ぎて吾家の門に慌だしく車を寄せて彼官員轉ぶ如く走せ入り眼付さへ常とは變りて涙ぐみながらつれなき此處の戀れ人め、今日は是 非々々兎角の返事に及ばず邸第まで來られよ若殿生命今宵を過さずと醫師の鑑定、父 君母君我等までの歎き察しても玉はれ殊に今朝若殿の口ずさまれし一首

厭はれし身はうきものと知りながら尚捨てがたき‥‥‥‥

と後の一句を殘して血を吐かれし御ありさま、肺病もつまりは戀故よしや女は鬼 なりと箇程まで思はれてまだつらく當るべきやと、半分は恨み半分は怒りて我を引立 行かんとするに、我は又身を切らるゝより切なけれど愈々剛情に行かじといふをりし も、亦車の音して御付の人を後になし、容儀繕ろひ玉ふこともなく馳せ入られし上品 の夫人、氣も半亂に。お妙さまとはあなたか、我が子が今臨終の際一目おまへ樣を見 たしと利かぬ舌を無理に動かしての望み、此通り手を合はして願ひます是非に來てと 侯爵夫人ともいはるゝ尊とき人に拜まれて、心は洪水に漂よはされたるごとく、うろ /\するを無理に引立られ車の上も夢路をたどるやうにて立派なる御邸の中に入れば、 人々聲を限りに呼ぶ響き、早や切々と悲み泣く女の聲も聞ゆるに、夫人は慌てゝ幾間 を通り過玉へば我も煙にまかれ其跡に跟て病室に入りける。見 るに痩枯れ玉ひたる御ありさま今とりつめて危かりしを呼生られて母君の顏見玉ひ、 さめ%\と泣かるゝ痛はしさ、是も誰故、我故と思へば沒體なく消えも入りたきを夫 人に推し出されて若殿の御側近く參り、我を忘れて涙つゝみ切れず御手を取りしまゝ 何の理由とは知らず泣伏せば、若殿も涙ながら我を見玉ひて御言葉はなく、握られし 手に微弱き力を籠めて我身に幽玄なる働きを與へられしまま、其儘我は絶入て夢の如 くなりしが其後呼生されたれど若殿は遂に蘇生らせ玉はず、我は身も世にあられず立 歸へりてより後其人をのみ思ひてなまじひに生殘りしを口惜くます/\天地を恨み憤 りて狂亂となり、七日の夜獨り吾家の持佛の前に看經したる時、朦朧とあらはれ玉ひ し御姿のあとを慕ひて脱出で何處ともしらず迷ひあるく眼には幻影をのみ見て實在の 物を見ず、あさましく狂うて此山中に我しらず來りしが圖らず道徳高き法師に遇ひ奉 り一念發起して坐禪の庵を此處に引むすびしばかり、溪の水嵩増して春を知り峰の木 の葉の飜つて冬を悟る住居、閑寂の中に群妙を觀じて頭を廻らし浮世を見れば皆おも しろき人さま%\、慘酷かりし昔時の胸の氷碎けて東風吹く空に絲遊のあるか なきかの身もおもしろく、佛も可愛く凡夫も可愛くお前樣も眞 に可愛し、天地に一つも憎きものなく樹の間に巣くふ鳥も可愛く土に穴する狐も可愛 し、心華開發して十方世界薫しくおもしろき唯識の妙理味ひ更に濃く、泥水相分れて 清淨に澄めば天上の月宿る瓔珞經のおもむきを得て愈々面白し、我をあはれと人が云 ふもおもしろく我を厭よといふもをかし、お前樣を可愛と思うたればこそ抱いて寢て といひしに厭がられしは愈々をかし、昔時は我死ぬほど人に戀はれてもつらくあたり、 今は我死ぬほど人に厭がられても可愛し、一心の變化同じ天地を恨みもし樂みもする ことをかしけれと長々しく語りつくせど更に我其故を悟らず。もし/\お妙さま其話 の中の骨となりし行水に散り浮く花の青貝摺せし黒塗の小箱の中の遺書は何事なりし か其を聞かでは話分らず。ハテ野暮らしい其を聞く樣では貴君もまだ人情しらず、其 書置讀んで後慘くなりしといへば云はずと知れし事、世を捨てよといふ教訓、浮世を 捨てねばならぬ譯をかきしるせしに極つた事。怪しからぬ事浮世を捨てねばならぬ譯 なし。イヤ/\妾等一類の人間是非とも浮世を捨てねばならず浮世を捨てねば安心の 道おぼつかなし、さればこそ初は神をも佛をも恨みし也。扨も 分らぬ話。イエ/\能く分かつた話、深山の中にのたれ死せずばならぬ妾等の身の上、 浮世の人は眼くらく、種々のあはれを悟りながら、情なき妾等の身の上には月日も全 く暗く花鳥も全くおもしろからぬを知らず、されば彼若殿に我身を早く任せざりしも 若殿の子孫をして我如くあさましからしめざらんとの眞實の心、其時の苦しさ推量し たまへ、と沈みたる調子に答へながら急に語氣を變て、ホヽホヽおもしろからぬ長話 最早やめに致しませう、言ふもうるさく語るも盡じ、戀と恨みは隣り同志、これまで /\これまでなりや繰言もと云さして又榾を添ふる容顏の美麗さ、水晶屈原の醒めた る色ならで瑪瑙淵明の醉へるがごときありさまなり。頓て又かすかに我を見て、あら 本意なき夜の短うて可惜明放れなば假初ながらの縁も是まで、君は片科川に浮く花、 香は急流に伴つて十里を飛ぶ速やかに、我は其川の岸に立つ柳、影は水底に沈んで一 歩を動ぎ難し、逢ての喜び別離のつらさ戲けし戀の後朝ばかりにはあらずといふ。時 しもあれ朝日紅々とさし登て家も人も雲霧と消え、枯れ殘りたる去歳の萱薄の中に雪 沓の紐續ぎかけしまゝ我たゞ一人にして足下に白髑髏一つ。さても昨夜は法外の小 説を野宿の伽として面白かりし、例令言葉は無くとも吾伽を爲 せし髑髏是故にこそ淋しからざりし、是も亦有縁の亡者、形の小さきは必らず女なる べし、女の身にて此處にのたれ死、弔ふ人さへ無きはあはれ深しと其髑髏をうづめ納 め、合掌して南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛、お蔭さまで昨夜は面白うござりましたと禮 をのべ、段々川邊を下り小川村に來り温泉宿に入りて、此山奧に入りしまゝ出て來ざ りし人なかりしやと問へば亭主けゞん顏して暫く考へ。不思議の事を問はるゝものか な、オヽ去年の事なりしが乞食の女あさましく狂ひ/\て山深くの方へ入りし事あり しが日光の方へは行かざりしよし、何處へ行きしかと今に其噂あり、それを尋ねら るゝかと云に。それ/\其女の樣子知るだけ詳しく語れと逼れば老父苦い顏して我を ヂロ/\見ながら。年は大凡二十七八、何處の者とも分らず、色目も見えぬほど汚れ 垢付たる襤褸を纏ひ破れ笠を負ひ掛け足には履物もなく竹の杖によわよわとすがり、 話すさへ忌はしきありさま總身の色黒赤く、處々に紫がかりて怪しく光りあり、手足 の指生姜の根のやうに屈みて筋もなきまで膨れ、殊更左の足の指は僅に三本だけ殘り 其一本の太さ常の人の二本ぶりありて其續きむつくりと甲まで ふくらみ、右の足の拇指の失せし痕微かに見え、右の手の小指骨もなき如く柔らかさ うに縮みながら水を持つて氣味あしく大きなる蠶の如なり、左の手は指あらかた落ち て拳頭づんぐりと丸く、顏は愈々恐ろしく銅の獅子半ば熔ろけたるに似て眉の毛盡く 脱け、額一體に凸く張り出して處々凹みたる穴あり、其穴の所の色は褪めたる紫の上 に溝泥を薄くなすり付けたるよりまだ/\汚なく、黄色を帶びて鼠色に牡蠣の腐りて 流るゝ如き

[_]
汁ヂク/\と溢れ其
[_]
汁に掩はれぬ所は赤子の舌の如き紅き肉酷らしく露はれ、鼻柱坎け欠て其處に も膿
[_]
汁をしたゝか湛へ、上脣溶け去りて粗なる齒の黄ばみ たると痩せ白みたる齒齦と互に照り合ひてすさまじく暴露れ、口の右の方段々と爛れ 流れたるより頬の半まで引さけて奧齒人を睨まゆる樣に見え透き、髪の毛都て亡けれ ば朱塗の賓頭廬幾年か擦り摩られて減りたる如く妙に光りを放ち、今にも潰え破れん とする熟柿の如く艷やかなるそれさへ見るにいぶせきに、右の眼腐り捨りて是にも膿 尚乾かず、左の眼の下瞼まくれて血の筋あり/\と紅く見ゆる程裏反り、白眼黄色く 灰色に曇り、黒眼薄鳶色にどんよりとして眼球半は飛出で、人をも神をも佛をも逆目 に睨む瞳子急には動かさず、時々ホツと吐く息に滿腔の毒を吐 くかと覺えて犬も鳥も逃避ける、況て人間は一目見るより胸惡くなり、其惡き臭を飯 食ふ折に思ひ出しては味噌汁を甘くは吸ひ得ず、膿汁を思ひ出しては珍重せし鹽辛を 捨てける。されば誰も彼も握り飯與ふる丈の慈悲もせず、其女の爲す儘に任せしに彼 呂律たしかならぬ歌のやうなる者あはれに唸るを聞けば、世に捨てられて世を捨てゝ、 叱々と覺束なく細々と繰り返しては喘はしく、ハツタと空を睨みて竹杖ふりあげ道傍 の石とも云はず樹とも云はず打叩きては狂ひ廻り、狂ひ躍ては打叩き瞋恚の炎に心を 焦き、狂ひ狂ひて行方しれず。

[_]
Rohan Zenshu (Tokyo: Iwanami Shoten, 1952, vol. 1; hereafter as Rohan Zenshu) reads 膿.
[_]
Rohan Zenshu reads 膿.
[_]
Rohan Zenshu reads 膿.