University of Virginia Library

一 旅は道連の味は知らねど世は情ある女の事々
但しどこやらに怖い所あり難い所

 我元來洒落といふ事を知らず數寄と唱ふる者にもあらで 唯ふら/\と五尺の殻を負ふ蝸牛の浮かれ心止み難く東西南北に這ひまはりて覺束な き角頭の眼に力の及ぶだけの世を見たく、いざさらば當世江口の君の宿假さず宇治の 華族樣香煎湯一杯を惜み玉ふとも關はじよ、里遠しいざ露と寢ん草まくらとは一歳陸 奧の獨り旅夜更て野末に疲れたる時の吟、それより露伴と戒名して頓て脆くも下枝を 落なば、摺附木となりて成佛する大木の蔭小暗き近邊に何の功をも爲さざる苔の碧み を添へん丈の願ひにて、囈語にばかり滴水とく/\試みに浮世そゝがばやと果敢なき 僭上、是れ無分別なる妄想の置所、我から呆るゝほど定まらぬ魂魄宇宙に彷徨し三十 年來、自ら笑ふ一生定力なく行藏多くは業風に吹ると古人の遺されし金句に、歳の市 立つ冬の半夜、蝙蝠騒ぐ夏の夕暮などは膽を冷し骨を焚く感じ を起す事もありしが三日坊主の一時精進、後はゆつたりのつたりにて、丁度明治二十 二年四月の頃は中禪寺の奧、白根が嶽の下、湯の湖のほとりの客舎に五目ならべの修業を兼て病痾を養ひ居たりしに、有難き温泉の功能、 忽ち平癒するや否、丈夫素より存す衝天の氣などいきり出して元來し道を歸るを嫌ひ、 御亭主是から先へ行く道は無いかと問へば。どうも此處は行留りの山の中、見らるゝ 通り前は前白根奧白根雲の上に頭を出して居る始末、登山は夏さへ六かし、其續き横 手の方は魂精峠と俗に呼ぶ木叢峠、此頂上は上野下野兩國の境界、山々折り累なりて 當方より越る六里の間に暖湯飮むべき家もなし、殊更時候大分違ひて、大澤徳治良あ たりは、野州の名花八汐の眞盛りなれど此近邊はそれもまだ咲かず、況して峠は一面 の雪五尺六尺谷間には積り居りて道も碌には知れず、今年になつてから越した人は指 の數に足らぬ位、到底遊び半分なぞに行かるべき地にあらず、御客樣是非もなし中禪寺までお戻りあつて足尾とか庚申山とか里近き孫山でも見物 致されよとの言葉。おのれ我を都會育ちの柔弱者と侮つたりや、其儀ならば旋毛曲り の根性天の邪鬼の意氣地見せつけ呉れんと詰らぬ事に僞勢張り、股引もなき細臑踏み はだけて。其峠何程の事あらん燒飯作れ草鞋買うて來よ、少しばかり難儀でも同じ道 を歸るより面白からう、鼻歌を山の神に聞せて越ん。さて/\途方もない事、雪沓な らでは中々凍ゆべし、強てとならば國境まで案内者やとはるべし、然し名産の肉じゆ蓉取つて腎藥にでもせんとの御思召ならば時節惡し、醉興は 要らぬ者と昔時よりの教もあるものを。面倒な事愚圖々々せずと我云ふ通りにせよ、 案内者はやとふべし雪沓も買ふべしと罵りて裾其の儘にグイ と端折り、沓しつかりと穿き締め、身の丈六尺許りの樵夫を案内として心いさましく 登りける。四五町ばかり來て見れば成程人は嘘つかぬ者、一面の雪表面は凍りて下は 柔なり、段々と登り行く勾配急になり屡々滑るに少し萎みて、見れば案内者は猪の毛 皮の沓はきて鐵雪橇に踏答へ悠々と歩む憎さ。負じと我も息張りて追付ば其大男ふり かへりて。此通りの雪なれば道も何もある譯では無ければ谷を傳はりて行くだけの分、 あなた樣若し堪忍強く小時の難澁を忍ばれるなら一層勾配の烈 しき代り頂上へ達する近道を行きませうかと尋られ。エーまゝの皮さう仕ようと決斷 し、又登る一里餘り、樅の木柘の木タモの木ドロの木唐松など生ひ茂りて蔭暗く、此 山の本名木叢峠の名は體をあらはして森々と物凄く、梢を渡る風に露はら/\と領に 落ち、顏を撲つ空翠は引く息に伴なつて胸惡し。雪に記せる兎鹿の足跡漸く減りて、 耳に音信し鳥の聲も次第次第に絶え、身は攀ぢ登るの苦しさに汗ばみながら心を掩ひ し五慾の塵衣は一枚一枚剥るゝ如く、昨日の榮華縱横無盡に神通を逞しくせし第六識 魔王は眷屬見方を失ひて薄ら淋しく、何といふ事はなけれど世界よりの落武者となつ たる樣に心臆せられて、人間老衰の曉五官半死して最期に近よりたらん時此境界に似 通ふ者あらば何程なさけなく如何程力弱く如何程頼み少なき者ならん乎とそゞろ悲し く思ふ時、岩を透すまで鋭き鳥の聲眞黒の梢より射出され、ギヨツとして頸を縮むる 途端眼にはくら/\と湧き亂るる唐草樣の者見えし。是にてお別れ申します、此處兩 國の境界即ち頂上也、是より左り手左り手と谷を傳ひ下らるれば一つの沼あり、其沼 の左をまたまた下らるれば片科川の水源、是ぞ坂東太郎と後に 呼ばるゝ、それに傍て行れなば温泉湧き出る小川村といふに着べし、此處より其林ま でまだ四里餘少しも人家なし、能々氣を注けて迷はぬ樣致されよ、さらばと案内者の 云ふに又一段の淋しさを増し、今朝の似非勇氣挫け果て茫然と見下すに曇り空の日の 光り力なく、常は見ゆると聞し會津の方の山々も雲がくれて見えず、流石に足の爪先 佇む間に冷を覺えける。

 案内者に別かれて獨り下る覺束なさ。雪沓なれば滑り/\、薄ら氷に向臑疵つ き、岩角に頬を擦り、雪流に埋められし木の枝に衣を裂き、行けども行けども迷うた りや沼の邊りに出ず。樺の木折りて火を燒き、あたりながら燒飯を取り出して食ふに 木屑を噛樣にて甘からねど餓を凌ぎたれば色々方角を考へ正して進む。元より時計も 持たぬなれば時刻分らず、頻りと氣を焦る中ほの暗くなつて來たれば、是れは大變、 又々曾て荒山に行き暮したる時のやうになりては叶はじと急ぐ程に沼のほとりに來た り。嬉しやと思へば日は冬の沒り易く、雪は最早無けれど沓の底は切れて足は痛し。 折ふしブツリと沓の紐きれて悲しと道の邊に坐りて夫を繕ひ繋がんとするに、アツ燈 の光り幽に動ぐを見付、嬉しや嬉しやとたどり行けば、丸木の掘立柱、笹葺き の屋根したる小家、尚蕾の堅き山櫻の大木の根方に立り。所が らとて時候のかくも變る者ぞと驚かれぬ。萩の垣結ふ丈の事もせずして枝折戸の面倒 も嫌へるにや、家の横手に幅一間許りの小河流るればかけひして水呼ぶ世話も要らぬ と見えたり。此樣にしても世は渡らるゝ者と有りがたく、尚近く寄て火の洩るゝ戸の 際に立ち、中禪寺の湯元より峠越して道に迷ひし者盡く疲れ果て、殊さら夜になりて 難儀いたしますが小川村まではまだどれ程の道法でござりますか、且は雪沓を切らし て歩み難く困りますに草鞋一足御讓り下さるまいかと云へば。それはお氣の毒な事小 川まではもう二十町ばかり川に添うて行かれさへすれば間違ひなし、お履物をお切ら しなされては眞に御難儀ならんが生憎草鞋一足もない事恥かし、然し私しのはき捨の 草履にても宜しくば參らせませうと云ふは不思議や、なまめかしき女の聲、かゝる山 中に似合しからず。されど是も獵師か何ぞの娘ならん、唯弱りたるは足の裏痛み惱み て右の小指左りの拇指は生爪まで剥がしたれば是より二十町到底あるけず、出來る事 なら一夜の宿を頼まんと。眞に申し兼ねたれど小川まで二十町と承はりては疲れたる 身の中々に歩み難く、痛所さへあれば憫然と思し召て一夜の宿 りを許したまへ。それは思ひも寄らぬ事、女子ばかりなればと云ひながら板戸引き開 け身體を半分出す女年は二十四五なるべし、後面に燈を負ひて後光さす天女の如く其 色の皎さ其眼のぱつちりとしたる、其眉つきの長く柔和なる、其口元の小さく締まり たる、其髪の今日洗ひたる乎と覺えて結もせず後に投げ掛けて末の方を引裂きたる白 紙にて一寸纏めたる毛のふさ/\としてくねらざる美しさは人にあらず。おのれ妖怪 かと三足ほど退つて覗へば女も我をつく%\と見て。傷ましやお前樣の風情御足のあ ちこち怪我なされしか紅き者も見ゆるに御袖も草木に障へられてか綻び切れ、御顏色 もいたく衰へ苦し氣に居らせらるゝに成程是より小川まで僅かの道なれど行き惱み玉 ふべし、留め難き所なれども世捨人にもあらぬ御方に假の宿りに心止むなとも申し難 ければ枉げて一夜を明させ申すべし、強くお斷絶り申すもつらし、いざ爰に御腰かけ られよ、御洗足の湯持ちて參らんと云はれて氣味の惡るさ。今更逃出さんも流石なれ ば持前のづう/\しく腰打掛けて有難しと禮いふ中、小桶に熱き湯汲み來りて甲 斐々々しく洗ひくれんとするを。是は恐れ入り升ナニ自分で濯ぎます。イエ/\御遠 慮なしにサア御足をお伸ばしあそばせと問答する暇に指の股の 泥まで綺麗に落ちて疊の上にあがり、丁寧に挨拶すれば、女莞爾と笑ひながら。山中 なれば御馳走も出來ねど幸ひ小川村と同じ脈の温泉の背戸の方に湧き居れば一風呂御 這入りあつて一日の疲勞をお休めなされ、サア此方へござれ御背中を流しませうか。 ハテ狐にでも誑さるゝではないかと内々危ぶみ居る我手を取る樣にして。湯殿へと申 しても片庇廂雨露を凌ぐばかりいぶせけれど、湯は天然の靈泉まことに能く暖まりま すといふ口上嘘らしくなく、底まで見え透く清き湯槽、大事なからうと這入れば無類 の心持遙に湯元より結構、晝間のつらかりしも忘れ悠々と揚つて來るを待ち付けて。 女、御召憎うはござりませうが御着物の綻びを縫うてあげます間是をと後より引きか けて呉れるは、ぼてつかぬフラネルの浴衣に重ねたる黒出八丈の綿入れ、女物なれば 丈ありてユキ無く兩手のぬつと出るは可笑けれど深切かたじけなし、餘程ふしぎな取 り扱ひ、どうした運ならんと怪みながら少し煙にまかれて。ハイハイ是はどうも恐縮。 御帶にも岩角の苔が付いて居りますれば可笑くとも之をと笑ひながら出すは緋縮緬の しごき。ハイ/\と帶にして是も大方藤蔓か知れぬと觀念し、 座敷へ來て居爐裏の傍に坐る肩へ羽折り呉るゝは八反の鼠小辨慶のねんねこ。湯覺を なされて若しお風邪でも召ては何處ぞのお方に濟みませぬと味な口きゝ、どん/\と 柴折くべ自在にかけし鍋の沸き立つを取り下して定めし御空腹でござんしたらう、サ ア御膳も出來ましたがお氣の毒なは麥飯、暖い丈を取り柄に山家の不自由をお許しな され、と取り出す蝶足の膳、盛て呉るゝ山獨活の味噌汁香氣椀に溢る。禮云ひながら 我は甘く食へば女も。妾も御一緒に片付けて仕まひましよかと最と無造作に喰ふに膳 なく、椀を爐縁に置んとして流石に馴ずやたゆたふを。此膳をお用ゐなされと突やれ ば。そんならおとり膳とやらに、オホヽ、御免なされと顏も赤めず、宵よりの所業 一々合點の行かぬ事どものみなり。

 さて飯も了りたれば女は我に關はず、手ばしこく膳椀とり片付けて火影ゆらぐ 行燈の下に坐り、我衣物の綻びを綴くる樣、十年も連添うたる女房の樣に見榮も色氣 もなく仕こなす不思議さ。さりとては何物ならん、世を捨てたる女かと見れば黒髪匂 やかにして尼にもあらず、世を捨てざる女かと見れば此容色を問ふ人もなき深山の獨 り住訝かしく、何にせよ口不調法なる我口惜く問出づる詞を知 らず、樣々考ふる中女は綻び繕ひ了りて其まゝ疊み置き、爐の傍に來て我とさしむか ひ笑まし氣に。若き御方の何故の御旅行か知ねど定めし面白き事もござりましたらう にチトお聞かせなされと、却つて向うより切り掛けられ。イヤ/\我等凡夫の癖に山 あるきは好なれど歌の一つも讀み得ねば面白き所あつてもお話し申す言葉拙し、お前 樣こそ見受る所御風流の御生活、由緒あるお方とは先程より思ひましたがさりとては 盛りの御身を無殘の山住み、如何なる仔細か御話しなされてよき事ならば。ホヽ中々 の事賤の女に何の由緒のありませう、唯妾しは妙と申す氣輕者去歳より此處に移りし ばかり、おまへ樣は。露伴と名乘る氣輕者。扨は氣輕と云はるゝか。如何にも。何の 上の氣輕。我は何とも知らず山に浮かれ水に浮かさるゝだけの氣輕、おまへ樣は。浮 世を厭ふだけの氣輕。ハテ怪しからぬ、浮世を眞誠に厭ひ玉ひなば御頭をもごつそり と剃り丸め玉ひ、墨染の衣に御身をやつされ、朝は山路に花を採り夕は溪流に閼伽を 汲みて供ぜられ、看經念佛の勤めあるべきに珠數さへ持ち玉はざる許りか、昔しの人 は美しき面に焚鐵當たるさへあるに、お前樣は誰に見よとての黒髪、油こそ無けれし なやかに、友仙の御下着紅こそなけれ仇めかしく色作らせら るゝ事疑はし、世を疎み玉ふとは詐り、深く云ひ替せし殿御を恨むる筋の有るかなど にて口舌の餘り強玉うての山籠り、思はせぶりの初紅葉あきぐちから濃うなるといふ 色手管、是は失禮圖に乘て饒舌りました。アラ此人の口の憎さ、其樣な浮たる事には あらず全く世をば避け厭ひて。マザ/\とした御戲談、さらば世を厭ふとは如何なる 譯と押返して問ば。要らぬ事尋ねて可惜夜の更るに御休みなされと身を起して戸棚よ り出すは綿まづしき痩せ蒲團かと思ひの外、緋緞子の蒲團、淺黄綸子の掻卷紅羽二重 の裏付けて臘虎の襟、驚かるゝ贅澤。サア御寢なれと我を押やりて、小屏風立てまは すに是非なく話しを中途にして。然らばお先へ御免蒙ると横になれば、蓬莱の夢見さ うな雲鶴の錦の丸枕に茶を詰めあるやゆかしき香、鼻の頭に立つ不審、どうも眠ら れゝばこそ、ソツと屏風の外を覗けば爐の傍に尚端然と坐して何やらを讀み居る美し さ人形の樣なり。一時間も經ど我は尚寢られねば又覗くに矢張動かず、二時間も過ぎ て又伺ふに女は元の通り、眞夜中頃にも心猶冴えて後先揃はぬ此家の始末を考へなが ら又覗けば頻りと火箸もて灰掻き起し居れど柴木最早盡きて爐 の暖ならず、木叢峠の麓なれば流石に寒氣を覺えてや、獨り言に温泉にでも入らんと 云ひ捨てゝ湯殿の方へ行きたるが小時して歸れば爐の火は全く細々となりしに尚其傍 に端然と坐りたる樣、何の用ありとも見えず、全く寢るべき夜具なき故と知れたれば、 我男の身として自分ばかり暖まり居るをさもしき樣に思ひなし、今眼さめたる振して 突と起出れば。御手水かと案内するに連れ、用たして戻りがけ心付たる顏して。お妙 さままだおよらずか。ハイ。誰人を待るゝ戀か知らねど大分夜も更けましたらうに。 ホヽ御調戲なさらずと能うおやすみなされ。イヤ違ひましたら幾重にもお詫をします が、お獨り住の御樣子、其處へ推して一泊を願ひましたれば御臥床を奪ひましたかと も危ぶみます、若し萬一左樣なれば我等こそ男の身、野宿の覺もござれば柱にもたれて眠る一夜位苦にもならざれ、お前樣さうして居られては 心苦しゝ、寢温もりの殘りしは氣味あしくも思しめさんがどうかお休みなされと云へ ば顏少し赤め。御言葉の通り眞に夜具一揃より持たざれどおとめ申したる時より妾し は斯うして夜を明して大事ないと思ひ定めましたれば御構ひなく。それではどうも。 さう仰しやらずと。我らが困ります。妾しが困ります。マアお 前樣御臥みなされ。マア/\あなた御寢なれ。其では際限なし、我等男でござる。痩 我慢致して是より御暇申す、女性に難儀させて我心よく眠らば、一生の瑕瑾後日朋友 の手前も恥かしく、夜道まだ/\樂な事なり。それ程までに仰せらるゝを背き難し、 あなたに夜道歩行せましては妾しの心遣ひ皆空となる事なれば御言葉には從ひませう が、それではあなたに寢床暖めて頂いた樣な者、のめ/\と其にくるまつてあなたを 火もなき爐の傍に丸寢さしては假令ば妾し夢に戀人に逢ふとも面白からず、妙も女で ござんす、妾し一生の瑕瑾持佛の手前はづかしく、どうしてもあなたを能うお臥ませ 申さでは。其樣に言葉を廻されてはどうして良いやら譯が分らず、無骨者の我等閉口 しますに。ホヽ閉口なされたら温順く妾しの云ふ事を聞てお臥みあれ。イヤイヤ拙者 の申す通りになされ。マア頑固に剛情を張られずとも。頑固でも何でも拙者の申す事 聞かるゝがよい。ハイハイ到底あなたの頑固には叶ひませぬからあなたの申さるゝ通 りに致しませう。ホヽホヽ、まあ怖い顏をして。怖い顏は生れ付です。怒られたの。 イエ御厚意に向つて何の怒りませう、唯少し眞面目になつた許り。ホヽ可愛らしい眞 面目に。ハイ眞面目に。妾しも眞面目に申しませう、サア露伴 樣。何。殿御の仰しやる事さへ通れば女子の云ふ事は通らずともよいと思はるゝか。 何。御自分の御言葉だけを無理やりに心弱い妾しに承知させて妾しの眞實には露かゝ らぬと酷らしうおつしやるか。知らん。知らんとは御卑怯な、サア此方へござれ御一 緒に臥みませう、妾しもあなたの御言葉を立てますればあなたとて妾しの一言を立て て下さつたとて御身體の解くるでもあるまい汚るゝでもござるまいに何故さう堅うな つて四角ばつてばかり居らるゝか、エヽ野暮らしいと柔かな手に我手を取りて睛も動 かさず平氣に引立てんとする其美しさ恐ろしさ、我膽も凍るばかり慄然として眼を瞑 ぎ脣を咬み切め、心の中にて『げつ海茫々たり首惡色慾に如 くは無く塵寰擾々たり犯し易きは惟邪淫あり拔山蓋世の雄此に坐して身を亡ぼし國を 喪ひ、繍口錦心の士こゝに因りて節を敗り名を墮す、始は一念の差たり遂に畢世贖ふ莫きを致す、何ぞ乃ち淫風日に熾んに して天理淪亡するや當に悲むべく當に憾むべきの行を以て反て計を得たりとなし而し て衆怒衆賤の事恬として羞を知らず、淫詞を刊し麗色を談じ、目 は道左の嬌姿に注ぎ腸は簾中の窈窕に斷ゆ、或は貞節或は淑徳、嘉すべく敬すべきを 遂に計誘して完行なからしめ、若くは婢女、若くは僕妾、憫む べく憐むべきに竟に勢逼して終身をけがすを致し、既に親族 をして羞を含ましめ、猶子孫をして垢を蒙らしむ、總て心昏く氣濁り、賢遠ざかり佞 親しむに由る、豈知らんや天地容し難く神人震怒し、或は妻女酬償し、或は子孫受報 す、絶嗣の墳墓は好色の狂徒にあらざるなく、妓女の祖宗は盡く是れ 貪花の浪子なり、富むべき者は玉樓に籍を削られ、貴かるべき者も金榜に名を除 かる、笞杖徒流大辟、生ては五等の刑に遭ひ地獄餓鬼畜生、沒しては三途の苦を受く、 從前の恩愛此に至つて空と成り、昔日の風流而も今安にか在る、 其後悔以て從ふなからんよりは蚤く思うて犯す勿きに胡れぞ、謹で青年の佳士、黄卷 の名流に勸む覺悟の心を發し色魔の障を破らん事を、芙蓉の白面は帶 肉の 髏に過ぎず、美艷紅妝乃ち是れ殺人の利刀なり縱ひ花の如く玉の如くの貌に對しても常に姉の如く妹の如くするの心 を存して未行者は失足を防ぐべく已行者は務て早く囘頭せよ、更に望む、展轉流 通し迭に相化導し、必らず在々齊しく覺路に歸し人々共に迷津を出しめば首惡既に除き萬邪自ら消し、靈臺滯りなく世榮遠きに垂れん矣』とう ろ覺えの文帝遏慾文を唱へける我見地の低き鄙しさ。