怨霊借用
泉鏡花 (Onryo shakuyo) | ||
一
婦人は、座の 傍 ( かたわら ) に人気のまるでない時、ひとりでは 按摩 ( あんま ) を取らないが 可 ( い ) いと、 昔気質 ( むかしかたぎ ) の誰でもそう云う。 上 ( かみ ) はそうまでもない。あの 下 ( しも ) の事を言うのである。 閨 ( ねや ) では別段に注意を要するだろう。以前は影絵、うつし絵などでは、 巫山戯 ( ふざけ ) たその光景を見せたそうで。―― 御新姐 ( ごしんぞ ) さん、……奥さま。……さ、お横に、とこれから腰を 揉 ( も ) むのだが、横にもすれば、 俯向 ( うつむけ ) にもする、一つくるりと返して、ふわりと柔くまた横にもしよう。水々しい 魚 ( うお ) は、真綿、羽二重の 俎 ( まないた ) に寝て、術者はまな 箸 ( ばし ) を持たない料理人である。 衣 ( きぬ ) を 透 ( とお ) して、肉を揉み、筋を 萎 ( なや ) すのであるから 恍惚 ( うっとり ) と身うちが溶ける。ついたしなみも粗末になって、下じめも解けかかれば、帯も緩くなる。きちんとしていてさえざっとこの趣。…… 遊山 ( ゆさん ) 旅籠 ( はたご ) 、温泉宿などで 寝衣 ( ねまき ) 、浴衣に、 扱帯 ( しごき ) 、 伊達巻 ( だてまき ) 一つの時の様子は、ほぼ……お互に、しなくっても 可 ( よ ) いが想像が出来る。 膚 ( はだ ) を左右に揉む拍子に、いわゆる 青練 ( あおねり ) も 溢 ( こぼ ) れようし、 緋縮緬 ( ひぢりめん ) も 友染 ( ゆうぜん ) も敷いて落ちよう。按摩をされる 方 ( かた ) は、 対手 ( あいて ) を 盲 ( めくら ) にしている。そこに姿の油断がある。足くびの時なぞは、一応は職業行儀に心得て、 太脛 ( ふくらはぎ ) から曲げて引上げるのに、すんなりと 衣服 ( きもの ) の 褄 ( つま ) を巻いて包むが、療治をするうちには双方の気のたるみから、 踵 ( かかと ) を 摺下 ( ずりさが ) って褄が波のようにはらりと落ちると、包ましい膝のあたりから、白い踵が、空にふらふらとなり、しなしなとして、按摩の手の 裡 ( うち ) に糸の乱るるがごとく 縺 ( もつ ) れて、 艶 ( えん ) に 媚 ( なまめ ) かしい 上掻 ( うわがい ) 、 下掻 ( したがい ) 、ただ 卍巴 ( まんじともえ ) に降る雪の中を 倒 ( さかし ) に 歩行 ( ある ) く風情になる。バッタリ 真暗 ( まっくら ) になって、……影絵は消えたものだそうである。
――聞くにつけても、たしなむべきであろうと思う。――
が、これから話す、わが 下町娘 ( したまちっこ ) のお 桂 ( けい ) ちゃん――いまは嫁して、河崎夫人であるのに、この行為、この状があったと言うのでは決してない。
問題に触れるのは、お桂ちゃんの母親で、もう一昨年頃 故人 ( なきひと ) の数に入ったが、 照降町 ( てりふりちょう ) の 背負商 ( しょいあきな ) いから、やがて宗右衛門町の角地面に問屋となるまで、その大島屋の身代八分は、その人の働きだったと言う。体量も二十一貫ずッしりとした 太腹 ( ふとっぱら ) で、女長兵衛と 称 ( たた ) えられた。―― 末娘 ( すえっこ ) で可愛いお桂ちゃんに、 小遣 ( こづかい ) の 出振 ( だしっぷ ) りが面白い……小買ものや、芝居へ出かけに、お母さんが 店頭 ( みせさき ) に、多人数立働く小僧中僧 若衆 ( わかしゅ ) たちに、気は配っても見ないふりで、くくり 頤 ( あご ) の福々しいのに、円々とした 両肱 ( りょうひじ ) の 頬杖 ( ほおづえ ) で、薄眠りをしている、一段高い帳場の前へ、わざと澄ました顔して、(お母さん、少しばかり。)黙って金箱から、ずらりと 掴出 ( つかみだ ) して渡すのが、 掌 ( てのひら ) が大きく、慈愛が余るから、…… 痩 ( やせ ) ぎすで 華奢 ( きゃしゃ ) なお桂ちゃんの片手では受切れない、両の掌に積んで、銀貨の小粒なのは指からざらざらと 溢 ( こぼ ) れたと言う。……亡きあとでも、その常用だった粗末な手ぶんこの中に、なおざりにちょっと半紙に包んで、(桂坊へ、)といけぞんざいに書いたものを開けると、水晶の浄土 珠数 ( じゅず ) 一 聯 ( れん ) 、とって十九のまだ嫁入前の娘に、と 傍 ( はた ) で思ったのは大違い、粒の揃った 百幾顆 ( ひゃくいくつ ) の、皆真珠であった。
姉娘に養子が出来て、養子の魂を見取ってからは、いきぬきに、時々伊豆の湯治に出掛けた。――この温泉旅館の井菊屋と云うのが 定宿 ( じょうやど )
で、十幾年来、 馴染 ( なじみ ) も深く、ほとんど親類づき合いになっている。その都度秘蔵娘のお桂さんの 結綿 ( ゆいわた ) 島田に、 緋鹿子 ( ひがのこ ) 、 匹田 ( ひった ) 、 絞 ( しぼり ) の 切 ( きれ ) 、色の白い 細面 ( ほそおもて ) 、目に 張 ( はり ) のある、眉の優しい、純下町風俗のを、山が育てた白百合の精のように、袖に包んでいたのは言うまでもない。……「……その大島屋の 先 ( せん ) の大きいおかみさんが、ごふびんに 思召 ( おぼしめ ) しましてな。……はい、ええ、右の小僧按摩を―― 小一 ( こいち ) と申したでござりますが、本名で、まだ 市名 ( いちな ) でも、斎号でもござりません、……見た処が余り 小 ( ちっ ) こいので、お客様方には十六と申す事に、師匠も言いきけてはありますし、当人も、左様に人様には申しておりましたが、この川の下流の 釜 ( かま ) ヶ 淵 ( ふち ) ――いえ、もし、 渡月橋 ( とげつきょう ) で見えます白糸の滝の下の……あれではござりません。もっとずッと下流になります。――その釜ヶ淵へ身を投げました時、――小一は 二十 ( はたち ) で、従って色気があったでござりますよ。」
「二十にならなくったって、色気の方は大丈夫あるよ。――私が手本だ。」
と言って、肩を揉ませながら、快活に笑ったのは、川崎 欣七郎 ( きんしちろう ) 、お桂ちゃんの夫で、高等商業出の秀才で、銀行員のいい処、年は四十だが若々しい、年齢にちと相違はあるが、この縁組に申分はない。次の 室 ( ま ) つき井菊屋の奥、 香都良川添 ( かつらがわぞい ) の十畳に、もう床は並べて、膝まで沈むばかりの 羽根毛 ( はね ) 蒲団 ( ぶとん ) に、ふっくりと、たんぜんで 寛 ( くつろ ) いだ。……
寝床を 辷 ( すべ ) って、窓下の 紫檀 ( したん ) の机に、うしろ向きで、紺地に茶の 縞 ( しま ) お召の 袷羽織 ( あわせばおり ) を、 撫肩 ( なでがた ) にぞろりと掛けて、道中の髪を 解放 ( ときはな ) し、あすあたりは 髪結 ( かみゆい ) が来ようという 櫛巻 ( くしまき ) が、 房 ( ふっさ ) りしながら、清らかな 耳許 ( みみもと ) に 簪 ( かんざし ) の 珊瑚 ( さんご ) が薄色に透通る。……男を知って二十四の、きじの雪が一層あくが抜けて色が白い。眉が意気で、口許に情が 籠 ( こも ) って、きりりとしながら、ちょっとお転婆に 片褄 ( かたづま ) の緋の 紋縮緬 ( もんちりめん ) の崩れた 媚 ( なまめ ) かしさは、田舎源氏の――名も通う―― 桂樹 ( かつらぎ ) という風がある。
お桂夫人は知らぬ顔して、間違って、愛読する……泉の作で「山吹」と云う、まがいものの戯曲を、軽い頬杖で読んでいた。
「御意で、へ、へ、へ、」
と 唯今 ( ただいま ) の 御前 ( ごぜん ) のおおせに、恐入った 体 ( てい ) して、肩からずり下って、背中でお 叩頭 ( じぎ ) をして、ポンと浮上ったように顔を 擡 ( もた ) げて、鼻をひこひこと 行 ( や ) った。この謙斎坊さんは、座敷は暖かだし、精を張って、つかまったから、十月の末だと云うのに、むき身 絞 ( しぼり ) の 襦袢 ( じゅばん ) 、 大肌脱 ( おおはだぬぎ ) になっていて、綿八丈の襟の左右へ 開 ( はだ ) けた毛だらけの胸の下から、 紐 ( ひも ) のついた 大蝦蟇口 ( おおがまぐち ) を 溢出 ( はみだ ) させて、揉んでいる。
「で、 旦那 ( だんな ) 、身投げがござりましてから、その釜ヶ淵……これはただ底が深いというだけの事でありましょうで、以来そこを、 提灯 ( ちょうちん ) ヶ淵――これは死にます時に、小一が 冥途 ( めいど ) を照しますつもりか、持っておりましたので、それに、夕顔ヶ淵……またこれは、その小按摩に様子が似ました処から。」
「いや、それは大したものだな。」
くわっ、とただ口を開けて、横向きに、声は出さずに按摩が笑って、
「ところが、もし、顔が黄色膨れの頭でっかち、えらい 出額 ( おでこ ) で。」
「それじゃあ、夕顔の方で迷惑だろう。」
「御意で。」
とまた一つ、ずり下りざまに 叩頭 ( おじぎ ) をして、
「でござりますから 瓢箪淵 ( ひょうたんふち ) とでもいたした方が 可 ( よ ) かろうかとも申します。小一の 顔色 ( かおつき ) が青瓢箪を 俯向 ( うつむ ) けにして、底を一つ叩いたような 塩梅 ( あんばい ) と、わしども家内なども申しますので、はい、背が低くって 小児 ( こども ) 同然、それで、時々相修業に肩につかまらせた事もござりますが、手足は大人なみに出来ております。 大 ( おおき ) な 日和下駄 ( ひよりげた ) の 傾 ( かし ) いだのを 引摺 ( ひきず ) って、――まだ内弟子の小僧ゆえ、身分ではござりませんから羽織も着ませず……唯今頃はな、つんつるてんの、 裾 ( すそ ) のまき上った手織縞か何かで陰気な顔を、がっくりがっくりと、振り振り、(ぴい、ぷう。)と笛を吹いて、杖を 突張 ( つっぱ ) って流して 歩行 ( ある ) きますと、御存じのお客様は、あの小按摩の通る時は、どうやら毛の薄い頭の上を、 不具 ( かたわ ) の烏が一羽、お寺の山から出て附いて 行 ( ゆ ) くと申されましたもので。―― 心掛 ( ここころがけ ) の 可 ( よ ) い、勉強家で、まあ、この湯治場は、お 庇様 ( かげさま ) とお 出入 ( でいり ) さきで稼ぎがつきます。流さずともでござりますが、何も修業と申して、朝も早くから、その、(ぴい、ぷう。)と、橋を渡りましたり、路地を抜けましたり。……それが死にましてからはな、川向うの 芸妓屋 ( げいしゃや ) 道に、どんな三味線が聞えましても、お客様がたは、按摩の笛というものをお聞きになりますまいでござります。何のまた聞えずともではござりますがな。――へい、いえ、いえそのままでお 宜 ( よろ ) しゅう……はい。
そうした貴方様、勉強家でござりました癖に、さて、これが療治に 掛 ( かか ) りますと、希代にのべつ、 坐睡 ( いねむり ) をするでござります。古来、 姑 ( しゅうとめ ) の目ざといのと、按摩の坐睡は、遠島ものだといたしたくらいなもので。」
とぱちぱちぱちと指を 弾 ( はじ ) いて、
「わしども覚えがござります。修業中小僧のうちは、またその 睡 ( ねむ ) い事が、大蛇を枕でござりますて。けれども小一のははげしいので……お客様の肩へつかまりますと、――すぐに、そのこくりこくり。……まず、そのために 生命 ( いのち ) を果しましたような次第でござりますが。」
「何かい、歩きながら、川へ 落 ( おっ ) こちでもしたのかい。」
「いえ、それは、 身投 ( みなげ ) で。」
「ああ、そうだ、――こっちが坐睡をしやしないか。じゃ、客から 叱言 ( こごと ) が出て、親方……その師匠にでも叱られたためなんだな。」
「……不断の事で……師匠も 更 ( あらた ) めて叱言を云うがものはござりません。それに、晩も夜中も、坐睡ってばかりいると申すでもござりませんでな。」
「そりゃそうだろう――朝から坐睡っているんでは、半分死んでいるのも 同 ( おんな ) じだ。」
と欣七郎は笑って言った。
「春秋の潮時でもござりましょうか。――大島屋の大きいお 上 ( かみ ) が、半月と、一月、ずッと 御逗留 ( ごとうりゅう ) の事も毎度ありましたが、その御逗留中というと、小一の、持病の坐睡がまた激しく起ります。」
「ふ――」
と云って、欣七郎はお桂ちゃんの雪の 頸許 ( えりもと ) に、 擽 ( くすぐ ) ったそうな目を 遣 ( や ) った。が、夫人は振向きもしなかった。
「ために、主な 出入場 ( でいりば ) の、御当家では、方々のお客さんから、叱言が出ます。かれこれ、大島屋さんのお耳にも入りますな、おかみさんが、可哀相な盲小僧だ。……それ、十六七とばかり御承知で…… 肥満 ( こえふと ) って 身体 ( からだ ) が 大 ( おおき ) いから、小按摩一人肩の上で寝た処で、 蟷螂 ( かまぎっちょ ) が留まったほどにも思わない。 冥利 ( みょうり ) として、ただで、お 銭 ( あし ) は遣れないから、肩で船を 漕 ( こ ) いでいなと、毎晩のように、お慈悲で療治をおさせになりました。……ところが旦那。」
と暗い方へ、黒い口を開けて、一息して、
「どうも 意固地 ( いこじ ) な……いえ、不思議なもので、その時だけは小按摩が決して坐睡をいたさないでござります。」
「その、おかみさんには電気でもあったのかな。」
「へ、へ、飛んでもない。おかみさんのお 傍 ( そば ) には、いつも、それはそれは綺麗な、お美しいお嬢さんが、大好きな、小説本を読んでいるのでござります。」
「娘ッ子が読むんじゃあ、どうせ 碌 ( ろく ) な小説じゃあるまいし、碌な娘ではないのだろう。」
「 勿体 ( もったい ) ない。――香都良川には月がある、 天城山 ( あまぎやま ) には雪が降る、井菊の霞に花が咲く、と土地ではやしましたほどのお嬢さんでござりますよ。」
「按摩さん、按摩さん。」
と欣七郎が声を刻んだ。
「は、」
「きみも土地じゃ古顔だと云うが。じゃあ、その座敷へも呼ばれただろうし、療治もしただろうと思うが、どうだね。」
「は、それが、つい、おうわさばかり伺いまして、お療治はいたしません、と申すが、 此屋 ( こちら ) 様なり、そのお座敷は、手前同業の正斎と申す…… 河豚 ( ふぐ ) のようではござりますが、腹に一向の毒のない男が持分に承っておりましたので、この正斎が、右の小一の師匠なのでござりまして。」
「成程、しかし狭い土地だ。そんなに逗留をしているうちには、きみなんか、その娘ッ子なり、おかみさんを、途中で見掛けた――いや、これは失礼した、見えなかったね。」
「旦那、 口幅 ( くちはば ) っとうはござりますが、目で見ますより聞く方が 確 ( たしか ) でござります。それに、それお通りだなどと、途中で皆がひそひそ遣ります処へ出会いますと、 芬 ( ぷん ) とな、何とも申されません匂が。……温泉から上りまして、梅の花をその…… 嗅 ( か ) ぎますようで、はい。」
座には今、その白梅よりやや 淡青 ( うすあお ) い、春の 李 ( すもも ) の 薫 ( かおり ) がしたろう。
うっかり、ぷんと嗅いで、
「 不躾 ( ぶしつ ) け。」
と思わずしゃべった。
「その香の 好 ( よ ) さと申したら、通りすがりの私どもさえ、 寐 ( ね ) しなに 衣 ( き ) ものを着換えましてからも、身うちが、ほんのりと 爽 ( さわや ) いで、一晩、極楽天上の夢を見たでござりますで。一つ部屋で、お傍にでも居ましたら、もう、それだけで、 生命 ( いのち ) も惜しゅうはござりますまい。まして、人間のしいなでも、そこは 血気 ( ちのけ ) の若い 奴 ( やつ ) でござります。死ぬのは本望でござりましたろうが、もし、それや、これやで、釜ヶ淵へ 押 ( おっ ) ぱまったでござりますよ。」
お桂のちょっと振返った目と合って、欣七郎は肩越に按摩を見た。
「じゃあ、なにかその娘さんに、かかり合いでもあったのかね。」
怨霊借用
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