University of Virginia Library

       五

 土地の風説に残り、ふとして、浴客の耳に伝うる処は……これだけであろうと思う。

 しかし、少し余談がある。とにかく、お桂さんたちは、来た時のように、一所に二人では帰らなかった。――

 風に乗って、飛んで、宙へ消えた幽霊のあと始末は、半助が赤鬼の形相のままで、 蝙蝠 バット を吹かしながら、射的店へ話をつけた。 此奴 こいつ ふんどし にするため、野良猫の三毛を 退治 たいじ て、 二月越 ふたつきごし 内証 ないしょ で、もの おき で皮を したそうである。

 笑話の翌朝は、引続き快晴した。近山裏の谷間には、 初茸 はつたけ の残り、 から びた 占地茸 しめじ もまだあるだろう、山へ行く浴客も少くなかった。

 お桂さんたちも、そぞろ 歩行 ある きした。 掛稲 かけいね に嫁菜の花、大根畑に霜の濡色も暖い。

 畑中の坂の中途から、 巨刹 おおでら の峰におわす大観音に詣でる広い道が、松の中を のぼ りになる 山懐 やまふところ を高く うね って、枯草葉の こみち が細く分れて、立札の道しるべ。歓喜天御堂、と ゆびさ して、……福徳を授け給う……と記してある。

「福徳って、お金ばかりじゃありませんわ。」

 欣七郎は 朝飯 あさはん 前の道がものういと言うのに、ちょいと軽い 小競合 こぜりあい があったあとで、 参詣 おまいり の間を一人待つ事になった。

「ここを、……わきへ っては 可厭 いや ですよ……一人ですから。」

 お桂さんは いきおい よく乾いた草を分けて じ上った。欣七郎の目に、その姿が 雑樹 ぞうき に隠れた時、夫人の前には再びやや急な石段が あら われた。軽く あえ いで、それを上ると、小高い皿地の中窪みに、垣も、折戸もない、 破屋 あばらや が一軒あった。

 出た、山の に松が一樹。幹のやさしい、そこの見晴しで、ちょっと下に待つ人を見ようと思ったが、上って来た方は、 紅甍 こうぼう

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粉壁 ふんぺき と、そればかりで夫は見えない。あと三方はまばらな農家を一面の畑の中に、弘法大師
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奥の院、四十七町いろは道が見えて、向うの山の根を香都良川が光って流れる。わきへ引込んだ、あの、辻堂の小さく見える処まで、昨日、 ひる ごろ 夫婦 ふたり 歩行 ある いた、――かえってそこに、欣七郎の中折帽が眺められるようである。

 ああ、今朝もそのままな、野道を挟んだ、飾竹に祭提灯の、稲田ずれに、さらさらちらちらと風に揺れる処で、欣七郎が 巻煙草 まきたばこ を出すと、 燐寸 マッチ を忘れた。……道の奥の方から、帽子も かぶ らないで、土地のものらしい。霜げた若い男が、 蝋燭 ろうそく を一束買ったらしく、手にして来たので、湯治場の心安さ、 遊山 ゆさん 気分で声を掛けた。

「ちょいと、燐寸はありませんか。」

 ぼんやり 立停 たちどま って、二人を じっ て、

「はい、 わし どもの たもと には、あっても 人魂 ひとだま でしてな。」

 すたすたと分れたのが、 小上 このぼ りの、 あぜ を横に切れて入った。

「坊主らしいな。……提灯の蝋燭を配るのかと思ったが。」

 俗ではあったが、うしろつきに、欣七郎がそう云った。

 そう言った笑顔に。――自分が引添うているようで、 現在 いま 、朝湯の前でも乳のほてり、胸のときめきを幹でおさえて、手を遠見に かざ すと、 出端 でばな のあし もと あやう さに、片手をその松の枝にすがった、浮腰を、朝風が美しく 吹靡 ふきなび かした。

 しさって つま を合せた、夫に対する、若き夫人の優しい身だしなみである。

 まさか、この破屋に、――いや、この松と、それより こずえ の少し高い、 つい の松が、破屋の横にややまた 上坂 のぼりざか の上にあって、根は分れつつ、枝は連理に つらな った、濃い みどり 色越 いろごし に、額を捧げて御堂がある。

 夫人は 衣紋 えもん を直しつつ近着いた。

 近づくと、

「あッ、」

 思わず、 忍音 しのびね を立てた―― 見透 みすか す六尺ばかりの枝に、 さかさま に裾を巻いて、毛を おどろ に落ちかかったのは、虚空に消えた幽霊である。と見ると顔が動いた、袖へ毛だらけの脚が生え、脇腹の裂目に獣の尾の動くのを、狐とも思わず、気は たしか に、しかと犬と見た。が、人の香を慕ったか、そばえて幽霊を みちらし、まつわり振った、そのままで、裾を いて、ずるずると寄って来るのに、はらはらと、 あわただ しく きびす を返すと、坂を落ち下りるほどの さえなく、帯腰へ 附着 くッつ いて、ぶるりと触るは、髪か、顔か。

 花の吹雪に散るごとく、裾も袖も輪に廻って、夫人は朽ち腐れた破屋の縁へ 飛縋 とびすが った。

「誰か、 誰方 どなた か、誰方か。」

「うう、うう。」

 と 寝惚声 ねぼけごえ して、 破障子 やぶれしょうじ

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を開けたのは、頭も、顔も、そのままの小一按摩の怨念であった。

「あれえ。」

 声は死んで、夫人は倒れた。

 この声が聞えるのには 間遠 まどお であった。最愛最惜の夫人の、消息の遅さを案じて、 急心 せきごころ に草を じた欣七郎は、歓喜天の御堂より先に、たとえば 孤屋 ひとつや 縁外 えんそと の欠けた 手水鉢 ちょうずばち に、ぐったりと あご をつけて、朽木の台にひざまずいて縋った、青ざめた幽霊を見た。

 横ざまに、 ステッキ で、 たた き払った。が、 人気勢 ひとげはい のする 破障子 やれしょうじ を、 及腰 およびごし 差覗 さしのぞ くと、目よりも先に鼻を った、このふきぬけの戸障子にも似ず、したたかな酒の香である。

 酒ぎらいな紳士は眉をひそめて、 手巾 ハンケチ で鼻を おお いながら、 そっ と再び のぞ くと ひと しく、色が変って 真蒼 まっさお になった。

 竹の皮散り、貧乏徳利の ころが った中に、小一按摩は、夫人に かじ りついていたのである。

 読む方は、筆者が最初に言ったある場合を、ごく 内端 うちわ に想像さるるが い。

 小一に仮装したのは、この山の ふもと に、井菊屋の畠の畑つくりの老僕と日頃懇意な、 一人棲 ひとりずみ の堂守であった。

大正十四(一九二五)年三月