怨霊借用
泉鏡花 (Onryo shakuyo) | ||
二
「飛んだ事を、お嬢さんは何も御存じではござりません。ただ、死にます晩の、その 提灯 ( ちょうちん ) の火を、お手ずから 点 ( つ ) けて遣わされただけでござります。」
お桂はそのまま机に 凭 ( よ ) った、袖が直って、 八口 ( やつくち ) が美しい。
「その晩も、小一按摩が、御当家へ、こッつりこッつりと入りまして、お帳場へ、 精霊棚 ( しょうりょうだな ) からぶら下りましたように。――もっとももう時雨の頃で――その 瓢箪 ( ひょうたん ) 頭を 俯向 ( うつむ ) けますと、(おい、霞の五番さんじゃ、今夜御療治はないぞ。)と、こちらに、年久しい、半助と云う、 送迎 ( おくりむかえ ) なり、 宿引 ( やどひき ) なり、手代なり、……頑固で、それでちょっと 剽軽 ( ひょうきん ) な、御存じかも知れません。威勢のいい、」
「あれだね。」
と欣七郎が云うと、お桂は黙って 頷 ( うなず ) いた。
「半助がそう申すと、びしゃびしゃと青菜に塩になりましたっけが、(それでは 外様 ( ほかさま ) を伺います。)(ああ、行って来な。内じゃお座敷を廻らせないんだが、お前の事だ。)もっとも、(霞の五番さん)大島屋さんのお上さんの 他 ( ほか ) には、好んで 揉 ( も ) ませ 人 ( て ) はござりません。――どこをどう廻りましたか、宵に来た奴が十時過ぎ、船を 漕 ( こ ) いだものが故郷へ立帰ります時分に、ぽかんと帳場へ戻りまして、 畏 ( かしこま ) って、で、帰りがけに、(今夜は 闇 ( やみ ) でございます、提灯を一つ。)と申したそうで、(おい、来た。)村の衆が出入りの便宜同様に、気軽に何心なく出したげで。――ここがその、少々変な 塩梅 ( あんばい ) なのでござりまして、先が盲だとも、盲だからとも、 乃至 ( ないし ) 、目あきでないとも、そんな事は一向心着かず……それには、ひけ頃で帳場もちょっとごたついていたでもござりましょうか。その提灯に火を 点 ( とも ) してやらなかったそうでござりますな。――後での話でござりますが。」
「おやおや、しかし、ありそうな事だ。」
「はい、その提灯を霞の五番へ持って参じました、小按摩が、逆戻りに。――(お桂 様 ( さん ) 。)うちのものは、皆お心安だてにお名を申して呼んでおります。そこは御大家でも、お 商人 ( あきんど ) の 難有 ( ありがた ) さで、これがお 邸 ( やしき ) づら……」
嚔 ( くしゃみ ) の 出損 ( でそこな ) った顔をしたが、 半間 ( はんま ) に手を留めて、 腸 ( はらわた ) のごとく 手拭 ( てぬぐい ) を手繰り出して、 蝦蟇口 ( がまぐち ) の紐に 搦 ( から ) むので、よじって 俯 ( うつ ) むけに額を 拭 ( ふ ) いた。
意味は推するに難くない。
欣七郎は、 金口 ( きんぐち ) を 点 ( つ ) けながら、
「構わない構わない、俺も素町人だ。」
「いえ、そういうわけではござりませんが。――そのお桂様に、( 暗闇 ( くらやみ ) の心細さに、提灯を借りましたけれど、盲に何が見えると、帳場で笑いつけて火を貸しません、どうぞお慈悲……お 情 ( なさけ ) に。)と、それ、 不具 ( かたわ ) 根性、 僻 ( ひが ) んだ事を申しますて。お上さんは、もうお床で、こう目をぱっちりと見てござったそうにござります。ところで、お娘ごは何の気なしに点けておやりになりました。――さて、霞から、ずっと参れば玄関へ出られますものを、どういうものか、廊下々々を大廻りをして、この……花から雪を掛けて千鳥に縫って出ましたそうで。……井菊屋のしるしはござりますが、陰気に 灯 ( とも ) して、暗い廊下を、黄色な鼠の霜げた小按摩が、影のように通ります。この提灯が、やがて、その夜中に、釜ヶ淵の上、土手の夜泣松の枝にさがって、小一は淵へ、 巌 ( いわ ) の上に 革緒 ( かわお ) の足駄ばかり、と聞いて、お 一方 ( ひとかた ) 病人が出来ました。……」
「ああ、娘さんかね。」
「それは……いえ、お優しいお嬢様の事でござります……親しく出入をしたものが、身を投げたとお聞きなされば、可哀相――とは、……それはさ、思召したでござりましょうが、何の義理 時宜 ( じんぎ ) に、お煩いなさって 可 ( よ ) いものでござります。病みつきましたのは、雪にござった、独身の御老体で。……
京阪地 ( かみがた ) の方だそうで、 長逗留 ( ながとうりゅう ) でござりました。――カチリ、」
と言った。按摩には 冴 ( さ ) えた音。
「カチリ、へへッへッ。」
とベソを掻いた顔をする。
欣七郎は引入れられて、
「カチリ?……どうしたい。」
「お 簪 ( かんざし ) が抜けて落ちました音で。」
「簪が?……ちょっと。」
名は呼びかねつつ注意する。
「いいえ。」
婀娜 ( あで ) な夫人が言った。
「ええ、滅相な……奥方様、唯今ではござりません。その当時の事で。…… 上方 ( かみがた ) のお客が 宵寐 ( よいね ) が覚めて、退屈さにもう一風呂と、お出かけなさる障子際へ、すらすらと廊下を通って、大島屋のお桂様が。――と申すは、唯今の花、このお座敷、あるいはお隣に当りましょうか。お娘ごには叔父ごにならっしゃる、富沢町さんと申して両国の質屋の 旦 ( だん ) が、ちょっと 異 ( おつ ) な寸法のわかい御婦人と 御楽 ( おたのし ) み、で、 大 ( おおき ) いお上さんは、苦い顔をしてござったれど、そこは、長唄のお稽古ともだちか何かで、お桂様は、その若いのと知合でおいでなさる。そこへ――ここへでござります…… 貴女 ( あなた ) のお座敷は、その時は別棟、向うの霞で。……こちらへ遊びに見えました。もし、そのお帰りがけなのでござりますて。
上方の御老体が、それなり開けると 出会頭 ( であいがしら ) になります。出口が次の間で、もう床の入りました座敷の 襖 ( ふすま ) は暗し、また雪と申すのが御存じの通り、当館切っての 北国 ( ほっこく ) で、廊下も、それは 怪 ( け ) しからず陰気だそうでござりますので、わしどもでも手さぐりでヒヤリとします。暗い処を不意に開けては、若いお娘ご、 吃驚 ( びっくり ) もなさろうと、ふと遠慮して立たっせえた。……お通りすがりが、何とも申されぬいい匂で、その香をたよりに、いきなり、横合の暗がりから、お白い 頸 ( えり ) へ 噛 ( かじ ) りついたものがござります。」……
「…………」
「声はお立てになりません、が、お桂様が、少し 屈 ( かが ) みなりに、 颯 ( さっ ) と島田を横にお振りなすった、その時カチリと音がしました。思わず、えへんと 咳 ( せき ) をして、御老体が 覗 ( のぞ ) いてござった障子の破れめへそのまま手を掛けて、お開けなさると、するりと向うへ、お桂様は庭の池の橋がかりの上を、両袖を合せて、小刻みにおいでなさる。 蝙蝠 ( こうもり ) だか、蜘蛛だか、 奴 ( やっこ ) は、それなり、その角の片側の 寝具部屋 ( やぐべや ) へ、ごそりとも言わず消えたげにござりますがな。
確 ( たしか ) に、カチリと、 簪 ( かんざし ) の落ちた音。お拾いなすった間もなかったがと、御老体はお 目敏 ( めざと ) い。……翌朝、気をつけて御覧なさると、欄干が取附けてござります、 巌組 ( いわぐみ ) へ、池から水の落口の、きれいな小砂利の上に、巌の根に留まって、きらきら水が光って、もし、小雨のようにさします朝晴の日の影に、あたりの小砂利は 五色 ( ごしき ) に見えます。これは、その簪の 橘 ( たちばな ) が 蘂 ( しべ ) に抱きました、真珠の威勢かにも申しますな。水は浅し、拾うのに 仔細 ( しさい ) なかったでございますれども、御老体が飛んだ苦労をなさいましたのは……夜具部屋から、 膠々 ( にちゃにちゃ ) 粘々を筋を引いて、時なりませぬ 蛞蝓 ( なめくじ ) の大きなのが一匹……ずるずるとあとを輪取って、 舐廻 ( なめまわ ) って、ちょうど簪の見当の欄干の裏へ 這込 ( はいこ ) んだのが、屈んだ鼻のさきに見えました。――これには難儀をなすったげで。はい、もっとも、簪がお娘ごのお 髪 ( ぐし ) へ戻りましたについては、御老体から、大島屋のお上さんに、その辺のな、もし、従って、小按摩もそれとなくお遠ざけになったに相違ござりません、さ、さ、この上方の 御仁 ( ごじん ) でござりますよ。――あくる晩の夜ふけに、提灯を持った小按摩を見て、お煩いなさったのは。――御老体にして見れば、そこらの 行 ( ゆき ) がかり上、 死際 ( しにぎわ ) のめくらが、 面当 ( つらあて ) に形を 顕 ( あら ) わしたように思召しましたろうし、立入って申せば、小一の方でも、そのつもりでござりましたかも分りません。勿論、当のお桂様は、何事も御存じはないのでござります。第一、簪のカチリも、咳のえへんも、その御老体が、その後三度めにか四度めにか湯治にござって、(もう、あのお 娘 ( こ ) も、 円髷 ( まるまげ ) に結われたそうな。実は、)とこれから帳場へも、つい 出入 ( でいり ) のものへも知れ渡りましたでござります。――ところが、大島屋のお上さんはおなくなりなさいます、あとで、お嫁入など、かたがた、三年にも四年にも、さっぱりおいでがござりません。もっともお栄え遊ばすそうで。……ただ、もし、この頃も承りますれば、その上方の御老体は、今年当月も御湯治で、つい 四五日 ( しごんち ) あとにお立ちかえりだそうでござりますが。――ふと、その方が御覧になったら、今度のは御病気どころか、そのまま気絶をなさろうかも知れませぬ。
――夜泣松の枝へ、提灯を下げまして、この……旧暦の霜月、二十七日でござりますな……真の暗やみの 薄明 ( うすあかり ) に、しょんぼりと 踞 ( かが ) んでおります。そのむくみ加減といい、瓢箪頭のひしゃげました 工合 ( ぐあい ) 、肩つき、そっくり 正 ( しょう ) のものそのままだと申すことで……現に、それ。」
「ええ。」
お桂もぞッとしたように振向いて肩をすぼめた。
「わしどもが、こちらへ伺います途中でも、もの好きなのは、見て来た、見に行くと、高声で往来が騒いでいました。」
謙斎のこの話の 緒 ( いとぐち ) も、はじめは、その事からはじまった。
それ、 谿川 ( たにがわ ) の瀬、池水の調べに 通 ( かよ ) って、チャンチキ、チャンチキ、 鉦入 ( かねい ) りに、笛の音、太鼓の 響 ( ひびき ) が、流れつ、 堰 ( せ ) かれつ、星の 静 ( しずか ) な 夜 ( よ ) に、波を打って、手に取るごとく聞えよう。
実は、この温泉の村に、 新 ( あらた ) に町制が敷かれたのと、 山手 ( やまのて ) に遊園地が出来たのと、名所に石の橋が竣成したのと、橋の欄干に、花電燈が 点 ( つ ) いたのと、従って景気が 可 ( よ ) いのと、 儲 ( もうか ) るのと、ただその一つさえ祭の太鼓は 賑 ( にぎわ ) うべき処に、 繁昌 ( はんじょう ) が 合奏 ( オオケストラ ) を 演 ( や ) るのであるから、鉦は鳴す、笛は吹く、続いて踊らずにはいられない。
何年めかに一度という書入れ日がまた快晴した。
昼は屋台が廻って、この玄関前へも練込んで来て、 芸妓連 ( げいしゃれん ) は地に並ぶ、 雛妓 ( おしゃく ) たちに、町の 小女 ( こおんな ) が 交 ( まじ ) って、一様の花笠で、湯の花踊と云うのを 演 ( や ) った。屋台のまがきに、藤、 菖蒲 ( あやめ ) 、 牡丹 ( ぼたん ) の造り花は飾ったが、その紅紫の色を奪って目立ったのは、 膚脱 ( はだぬぎ ) の 緋 ( ひ ) より、帯の 萌葱 ( もえぎ ) と、伊達巻の 鬱金 ( うこん ) 縮緬 ( ちりめん ) で。揃って、むら 兀 ( はげ ) の 白粉 ( おしろい ) が上気して、 日向 ( ひなた ) で、むらむらと手足を動かす形は、 菜畠 ( なばたけ ) であからさまに狐が踊った。チャンチキ、チャンチキ、田舎の小春の 長閑 ( のどけ ) さよ。
客は一統、女中たち 男衆 ( おとこしゅ ) まで、 挙 ( こぞ ) って式台に立ったのが、左右に分れて、妙に隅を取って、 吹溜 ( ふきだま ) りのように 重 ( かさな ) り合う。 真中 ( まんなか ) へ 拭込 ( ふきこ ) んだ大廊下が通って、奥に、霞へ架けた 反橋 ( そりはし ) が庭のもみじに燃えた。池の水の青く澄んだのに、葉ざしの日加減で、 薄藍 ( うすあい ) に、 朧 ( おぼろ ) の銀に、青い金に、鯉の影が悠然と浮いて泳いで、見ぶつに交った。ひとりお桂さんの姿を、肩を、 褄 ( つま ) を、帯腰を、彩ったものであった。
この夫婦は――新婚旅行の意味でなく――四五年来、久しぶりに――一昨日温泉へ着いたばかりだが、既に一週間も以前から、今日の祝日の次第、献立 書 ( がき ) が、 処々 ( ところどころ ) 、 紅 ( くれない ) の二重圏点つきの 比羅 ( びら ) になって、辻々、塀、大寺の門、橋の欄干に 顕 ( あら ) われて、 芸妓 ( げいしゃ ) の 屋台囃子 ( やたいばやし ) とともに、最も注意を引いたのは、仮装行列の 催 ( もよおし ) であった。有志と、二重圏点、かさねて、飛入勝手次第として、祝賀委員が、審議の上、その仮装の優秀なるものには、三等まで賞金美景を呈すとしたのに、読者も 更 ( あらた ) めて御注意を願いたい。
だから、踊屋台の引いて帰る囃子の音に誘われて、お桂が欣七郎とともに町に出た時は、橋の上で弁慶に出会い、豆府屋から出る 緋縅 ( ひおどし ) の武者を見た。床屋の店に 立掛 ( たちかか ) ったのは五人男の随一人、だてにさした尺八に、 雁 ( かり ) がねと札を着けた。犬だって浮かれている。石垣下には、 鶩 ( あひる ) が、がいがいと鳴立てた、が、それはこの川に多い 鶺鴒 ( せきれい ) が、仮装したものではない。
泰西の夜会の例に見ても、由来仮装は夜のものであるらしい。委員と名のる、もの 識 ( しり ) が、そんな事は心得た。行列は午後五時よりと、比羅に 認 ( したた ) めてある。昼はかくれて、不思議な星のごとく、 颯 ( さっ ) と 夜 ( よ ) の幕を切って 顕 ( あらわ ) れる 筈 ( はず ) の処を、それらの英雄 侠客 ( きょうかく ) は、 髀肉 ( ひにく ) の 歎 ( たん ) に堪えなかったに相違ない。かと思えば、 桶屋 ( おけや ) の息子の、竹を削って 大桝形 ( おおますがた ) に組みながら、せっせと小僧に手伝わして、しきりに紙を 貼 ( は ) っているのがある。通りがかりの馬方と問答する。「おいらは 留 ( や ) めようと思ったが、この景気じゃあ、とても 引込 ( ひっこ ) んでいられない。」「はあ、何に化けるね。」「 凧 ( たこ ) だ……黙っていてくれよ。おいらが 身体 ( からだ ) をそのまま大凧に張って 飛歩行 ( とびある ) くんだ。両方の耳にうなりをつけるぜ。」「 魂消 ( たまげ ) たの、一等賞ずらえ。」「黙っててくんろよ。」馬がヒーンと 嘶 ( いなな ) いた。この馬が迷惑した。のそりのそりと 歩行 ( ある ) き出すと、はじめ、出会ったのは緋縅の武者で、続いて出たのは雁がね、飛んで来たのは弁慶で、争って 騎 ( の ) ろうとする。 揉 ( も ) みに揉んで、太刀と 長刀 ( なぎなた ) が左右へ開いて、尺八が馬上に跳返った。そのかわり 横田圃 ( よこたんぼ ) へ振落された。
ただこのくらいな 間 ( ま ) だったが――山の根に演芸館、花見座の旗を、今日はわけて、山鳥のごとく飜した、町の角の 芸妓屋 ( げいしゃや ) の前に、先刻の囃子屋台が、 大 ( おおき ) な 虫籠 ( むしかご ) のごとくに、紅白の幕のまま、 寂寞 ( せきばく ) として 据 ( すわ ) って、踊子の影もない。はやく 町中 ( まちなか ) 、 一練 ( ひとねり ) は練廻って 剰 ( あま ) す処がなかったほど、温泉の町は、さて狭いのであった。やがて、新造の石橋で列を造って、町を 巡 ( まわ ) りすました後では、揃ってこの演芸館へ練込んで、すなわち放楽の乱舞となるべき、仮装行列を待顔に、 掃清 ( はききよ ) められた 状 ( さま ) のこのあたりは、 軒提灯 ( のきぢょうちん ) のつらなった中に、かえって不断より寂しかった。
峰の落葉が、屋根越に――
日蔭の冷い 細流 ( せせらぎ ) を、軒に流して、ちょうどこの辻の 向角 ( むこうかど ) に、二軒並んで、 赤毛氈 ( あかもうせん ) に、よごれ 蒲団 ( ぶとん ) を 継 ( つぎ ) はぎしたような 射的店 ( しゃてきみせ ) がある。 達磨 ( だるま ) 落し、バットの 狙撃 ( そげき ) はつい通りだが、二軒とも、揃って屋根裏に釣った幽霊がある。 弾丸 ( たま ) が当ると、ガタリざらざらと蛇腹に伸びて、天井から 倒 ( さかさま ) に、いずれも女の幽霊が、ぬけ上った青い額と、 縹色 ( はなだいろ ) の細い 頤 ( あご ) を、ひょろひょろ毛から突出して、背筋を中反りに 蜘蛛 ( くも ) のような手とともに、ぶらりと下る仕掛けである。
「 可厭 ( いや ) な、あいかわらずね……」
お桂さんが引返そうとした時、 歩手前 ( あしてまえ ) の店のは、 白張 ( しらはり ) の 暖簾 ( のれん ) のような汚れた 天蓋 ( てんがい ) から、 捌髪 ( さばきがみ ) の垂れ下った中に、藍色の 片頬 ( かたほ ) に、薄目を開けて、片目で、置据えの囃子屋台を 覗 ( のぞ ) くように見ていたし、 先隣 ( さきどなり ) なのは、釣上げた 古行燈 ( ふるあんどん ) の 破 ( やぶれ ) から、穴へ入ろうとする 蝮 ( まむし ) の尾のように、かもじの 尖 ( さき ) ばかりが、ぶらぶらと下っていた。
帰りがけには、 武蔵坊 ( むさしぼう ) も、緋縅も、雁がねも、一所に床屋の店に見た。が、雁がねの 臆面 ( おくめん ) なく白粉を塗りつつ居たのは言うまでもなかろう。
――小一按摩のちびな形が、現に、夜泣松の枝の下へ、仮装の 一個 ( ひとつ ) として 顕 ( あらわ ) れている――
按摩の謙斎が、療治しつつ欣七郎に話したのは――その夜、食後の事なのであった。
怨霊借用
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