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4. 四

 お手紙、書かうか、どうしようか、ずゐぶん迷つてゐました。けれども、けさ、 鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ、といふイエスの言葉をふと思ひ出し、奇妙に 元氣が出て、お手紙を差し上げる事にしました。直治の姉でございます。お忘れかし ら、お忘れだつたら、思ひ出して下さい。

 直治が、こなひだまたお邪魔にあがつて、ずゐぶんごやつかいを、おかけした やうで、相すみません。(でも、本當は、直治の事は、それは直治の勝手で、私が差 し出ておわびをするなど、ナンセンスみたいな氣もするのです。)けふは、直治の事 でなく、私の事で、お願ひがあるのです。京橋のアパートで罹災なさつて、それから 今の御住所にお移りになつた事を直治から聞きまして、よつぽど東京の郊外のそのお 宅にお伺ひしようかと思つたのですが、お母さまがこなひだからまた少しお加減が惡 く、お母さまをほつといて上京する事は、どうしても出來ませぬので、それでお手紙 で申し上げる事に致しました。

 あなたに、御相談してみたい事があるのです。

 私のこの相談は、これまでの「女大學」の立場から見ると、非常にずるくて、 けがらはしくて、惡質の犯罪でさへあるかも知れませんが、けれども私は、いいえ、 私たちは、いまのままでは、とても生きて行けさうもありませんので、弟の直治がこ の世で一ばん尊敬してゐるらしいあなたに、私のいつはらぬ氣持を聞いていただき、 お指圖をお願ひするつもりなのです。

 私には、いまの生活が、たまらないのです。すき、きらひどころではなく、と ても、このままでは私たち親子三人、生きて行けさうもないのです。

 昨日も、くるしくて、からだも熱つぽく、息ぐるしくて、自分をもてあまして ゐましたら、お晝すこしすぎ、雨の中を下の農家の娘さんが、お米を背負つて持つて 來ました。さうして私のはうから、約束どほりの衣類を差し上げました。娘さんは、 食堂で私と向ひ合つて腰かけてお茶を飮みながら、じつに、リアルな口調で、

「あなた、ものを賣つて、これから先、どのくらゐ生活して行けるの?」

 と言ひました。

「半歳か、一年くらゐ。」

 と私は答へました。さうして、右手で半分ばかり顏をかくして、

「眠いの。眠くて、仕方がないの。」

 と言ひました。

「疲れてゐるのよ。眠くなる神經衰弱でせう。」

「さうでせうね。」

 涙が出さうで、ふと私の胸の中に、リアリズムといふ言葉と、ロマンチシズム といふ言葉が浮んで來ました。私に、リアリズムは、ありません。こんな具合ひで、 生きて行けるのかしら、と思つたら、全身に寒氣を感じました。お母さまは、半分御 病人のやうで、寢たり起きたりですし、弟は、ご存じのやうに心の大病人で、こちら にゐる時は燒酎を飮みに、この近所の宿屋と料理屋とをかねた家へ御精勤で、三日に いちどは、私たちの衣類を賣つたお金を持つて東京方面へ御出張です。でも、くるし いのは、こんな事ではありません。私はただ私自身の生命が、こんな日常生活の中で、 芭蕉の葉が散らないで腐つて行くやうに、立ちつくしたままおのづから腐つて行くの をありありと豫感せられるのが、おそろしいのです。とても、たまらないのです。だ から私は、「女大學」にそむいても、いまの生活からのがれ出たいのです。それで、 私、あなたに相談いたします。

 私は、いま、お母さまや弟に、はつきり宣言したいのです。私が前から、或る お方に戀をしてゐて、私は將來、そのお方の愛人として暮すつもりだといふ事を、は つきり言つてしまひたいのです。そのお方は、あなたもたしかご存じの筈です。その お方のお名前のイニシヤルは、M・Cでございます。私は前から、何か苦しい事が起 ると、そのM・Cのところに飛んで行きたくて、こがれ死にをするやうな思ひをして 來たのです。

 M・Cには、あなたと同じ樣に、奧さまもお子さまもございます。また、私よ り、もつと綺麗で若い、女のお友達もあるやうです。けれども私は、M・Cのところ へ行くより他に、私の生きる途が無い氣持なのです。M・Cの奧さまとは、私はまだ 逢つた事がありませんけれども、とても優しくてよいお方のやうでございます。私は、 その奧さまの事を考へると、自分をおそろしい女だと思ひます。けれども、私のいま の生活は、それ以上におそろしいもののやうな氣がして、M・Cにたよる事を止せな いのです。鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧く、私は、私の戀をしとげたいと思ひま す。でも、きつと、お母さまも、弟も、また世間の人たちも、誰ひとり私に賛成して 下さらないでせう。あなたは、いかがです。私は結局、ひとりで考へて、ひとりで行 動するより他は無いのだ、と思ふと、涙が出て來ます。生れて初めての、ことなのですから、この、むづかしいことを、周圍のみんなから祝福 されてしとげる法はないものかしら、とひどくややこしい代數の因數分解か何かの答 案を考へるやうに、思ひをこらして、どこかに一箇所、ぱらぱらと綺麗に解きほぐれ る絲口があるやうな氣持がして來て、急に陽氣になつたりなんかしてゐるのです。

 けれども、かんじんのM・Cのはうで、私をどう思つていらつしやるか。それ を考へると、しよげてしまひます。謂はば、私は、押しかけ、……なんといふのかし ら、押しかけ女房といつてもいけないし、押しかけ愛人、とでもいはうかしら、そん なものなのですから、M・Cのはうでどうしても、いやだといつたら、それつきり。 だから、あなたにお願ひします。どうか、あのお方に、あなたからきいてみて下さい。 六年前の或る日、私の胸に幽かな淡い虹がかかつて、それは戀でも愛でもなかつたけ れども、年月の經つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して來て、私はいまま で一度も、それを見失つた事はございませんでした。夕立の晴れた空にかかる虹は、 やがてはかなく消えてしまひますけど、ひとの胸にかかつた虹は、消えないやうでご ざいます。どうぞ、あのお方に、きいてみて下さい、あのお方は、ほんとに、私を、 どう思つていらつしやつたのでせう。それこそ、雨後の空の虹みたいに、思つていら つしやつたのでせうか。さうして、とつくに消えてしまつたものと?

 それなら、私も、私の虹を消してしまはなければなりません。けれども、私の 生命をさきに消さなければ、私の胸の虹は消えさうもございません。

 御返事を、祈つてゐます。

 上原二郎樣(私のチエホフ。マイ、チエホフ。M・C)

    私は、このごろ、少しづつ、太つて行きます。動物的な女になつてゆく といふよりは、ひとらしくなつたのだと思つてゐます。この夏は、ロレンスの小説を 一つだけ讀みました。

 御返事が無いので、もういちどお手紙を差し上げます。こなひだ差し上げた手 紙は、とても、ずるい、蛇のやうな奸策に滿ち滿ちてゐたのを、いちいち見破つてお しまひになつたのでせう。本當に、私はあの手紙の一行々々に狡智の限りを盡してみ たのです。結局、私はあなたに、私の生活をたすけていただきたい、お金がほしいと いふ意圖だけ、それだけの手紙だとお思ひになつた事でせう。さうして、私もそれを 否定いたしませぬけれども、しかし、ただ私が自身のパトロンが欲しいのなら、失禮 ながら、特にあなたを選んでお願ひ申しませぬ。他にたくさん、私を可愛がつて下さ る老人のお金持などあるやうな氣がします。げんにこなひだも、妙な縁談みたいなも のがあつたのです。そのお方のお名前は、あなたもご存じかも知れませんが、六十す ぎた獨身のおぢいさんで、藝術院とかの會員だとか何だとか、さういふ大師匠のひと が、私をもらひにこの山莊にやつて來ました。この師匠さんは、私どもの西片町のお 家の近所に住んでゐましたので、私たちも隣組のよしみで、時たま逢ふ事がありまし た。いつか、あれは秋の夕暮だつたと覺えてゐますが、私とお母さまと二人で、自動 車でその師匠さんのお家の前を通り過ぎた時、そのお方がひとりでぼんやりお宅の門 の傍に立つていらして、お母さまが自動車の窓からちよつと師匠さんにお會釋なさつ たら、その師匠さんの氣むづかしさうな蒼黒いお顏が、ぱつと紅葉よりも赤くなりま した。

「こひかしら。」

 私は、はしやいで言ひました。

「お母さまを、すきなのね。」

 けれども、お母さまは落ちついて、

「いいえ、偉いお方。」

 とひとりごとのやうに、おつしやいました。藝術家を尊敬するのは、私どもの 家の家風のやうでございます。

 その師匠さんが、先年奧さまをなくなさつたとかで和田の叔父さまと謠曲のお 天狗仲間の或る宮家のお方を介し、お母さまに申し入れをなさつて、お母さまはかず 子から思つたとほりの御返事を師匠さんに直接さしあげたら? とおつしやるし、私 は深く考へるまでもなく、いやなので、私にはいま結婚の意志がございません、とい ふ事を何でもなくスラスラと書けました。

「お斷りしてもいいのでせう?」

「そりやもう。……私も、無理な話だと思つてゐたわ。」

 その頃、師匠さんは輕井澤の別莊のはうにいらしたので、そのお別莊へお斷り の御返事をさし上げたら、それから、二日目に、その手紙と行きちがひに、師匠さん ご自身、伊豆の温泉へ仕事に來た途中でちよつと立ち寄らせていただきましたとおつ しやつて、私の返事の事は何もご存じでなく、出し拔けに、この山莊にお見えになつ たのです。藝術家といふものは、おいくつになつても、こんな子供みたいな氣ままな 事をなさるものらしいのね。

 お母さまは、お加減がわるいので、私が御相手に出て、支那間でお茶を差し上 げ、

「あの、お斷りの手紙、いまごろ輕井澤のはうに着いてゐる事と存じます。私、 よく考へましたのですけれど。」

 と申し上げました。

「さうですか。」

 とせかせかした調子でおつしやつて、汗をお拭きになり、

「でも、それは、もう一度、よくお考へになつてみて下さい。私は、あなたを、 何と言つたらいいか、謂はば精神的には幸福を與へる事が出來ないかも知れないが、 その代り、物質的にはどんなにでも幸福にしてあげる事が出來る。これだけは、はつ きり言へます。まあ、ざつくばらんの話ですが。」

「お言葉の、その幸福といふのが、私にはよくわかりません。生意氣を申し上げ るやうですけど、ごめんなさい。チエホフの妻への手紙に、子供を生んでおくれ、私 たちの子供を生んでおくれ、つて書いてございましたわね。ニイチエだかのエツセイ の中にも、子供を生ませたいと思ふ女、といふ言葉がございましたわ。私、子供がほ しいのです。幸福なんて、そんなものは、どうだつていいのですの。お金もほしいけ ど、子供を育てて行けるだけのお金があつたら、それでたくさんですわ。」

 師匠さんはへんな笑ひ方をなさつて、

「あなたは、珍らしい方ですね。誰にでも、思つたとほりを言へる方だ。あなた のやうな方と一緒にゐると、私の仕事にも新しい靈感が舞ひ下りて來るかも知れな い。」

 と、おとしに似合はず、ちよつと氣障みたいな事を言ひました。こんな偉い藝 術家のお仕事を、もし本當に私の力で若返らせる事が出來たら、それも生き甲斐のあ る事に違ひない、とも思ひましたが、けれども、私は、その師匠に抱かれる自分の姿 を、どうしても考へることが出來なかつたのです。

「私に、戀のこころが無くてもいいのでせうか?」

 と私は少し笑つておたづねしたら、師匠さんはまじめに、

「女のかたは、それでいいんです。女のひとは、ぼんやりしてゐて、いいんです よ。」とおつしやいます。

「でも、私みたいな女は、やつぱり、戀のこころが無くては、結婚を考へられな いのです。私、もう、大人なんですもの。來年は、もう、三十。」

 と言つて、思はず口を覆ひたいやうな氣持がしました。

 三十。女には、二十九までは乙女の匂ひが殘つてゐる。しかし、三十の女のか らだには、もう、どこにも、乙女の匂ひが無い、といふむかし讀んだフランスの小説 の中の言葉がふつと思ひ出されて、やりきれない淋しさに覆はれ、外を見ると、眞晝 の光を浴びて海が、ガラスの破片のやうにどぎつく光つてゐました。あの小説を讀ん だ時には、そりやさうだらうと輕く肯定して澄ましてゐた。三十歳迄で、女の生活は、 おしまひになると平氣でさう思つてゐたあの頃がなつかしい。腕輪、頸飾り、ドレス、 帶、ひとつひとつ私のからだの周圍から消えて無くなつて行くに從つて、私のからだ の乙女の匂ひも次第に淡くうすれて行つたのでせう。まづしい、中年の女。おお、い やだ。でも、中年の女の生活にも、女の生活が、やつぱり、あるんですのね。このご ろ、それがわかつて來ました。英人の女教師が、イギリスにお歸りの時、十九の私に かうおつしやつたのを覺えてゐます。

「あなたは、戀をなさつてはいけません。あなたは、戀をしたら、不幸になりま す。戀を、なさるなら、もつと、大きくなつてからになさい。三十になつてからにな さい。」

 けれども、さう言はれても私は、きよとんとしてゐました。三十になつてから の事など、その頃の私には、想像も何も出來ないことでした。

「このお別莊を、お賣りになるとかいふ噂を聞きましたが。」

 師匠さんは、意地わるさうな表情で、ふいとさうおつしやいました。

 私は笑ひました。

「ごめんなさい。櫻の園を思ひ出したのです。あなたが、お買ひになつて下さる のでせう?」

 師匠さんは、さすがに敏感にお察しになつたやうで、怒つたやうに口をゆがめ て默しました。

 或る宮樣のお住居として、新圓五十萬圓でこの家を、どうかうといふ話があつ たのも事實ですが、それは立ち消えになり、その噂でも師匠さんは聞き込んだのでせ う。でも、櫻の園のロパーヒンみたいに私どもに思はれてゐるのではたまらないと、 すつかりお機嫌を惡くした樣子で、あと、世間話を少ししてお歸りになつてしまひま した。

 私がいま、あなたに求めてゐるものは、ロパーヒンではございません。それは、 はつきり言へるんです。ただ、中年の女の押しかけを、引受けて下さい。

 私がはじめて、あなたとお逢ひしたのは、もう六年くらゐ昔の事でした。あの 時には、私はあなたといふ人に就いて何も知りませんでした。ただ、弟の師匠さん、 それもいくぶん惡い師匠さん、さう思つてゐただけでした。さうして、一緒にコップ で、お酒を飮んで、それからあなたは、ちよつと輕いイタヅラをなさつたでせう。け れども、私は平氣でした。ただ、へんに身輕になつたくらゐの氣分でゐました。あな たを、すきでもきらひでもなんでもなかつたのです。そのうちに、弟のお機嫌をとる ために、あなたの著書を弟から借りて讀み、面白かつたり面白くなかつたり、あまり 熱心な讀者ではなかつたのですが、六年間、いつの頃からか、あなたの事が霧のやう に私の胸に滲み込んでゐたのです。あの夜、地下室の階段で、私たちのした事も、急 にいきいきとあざやかに思ひ出されて來て、なんだかあれは、私の運命を決定するほ どの重大なことだつたやうな氣がして、あなたがしたはしくて、これが、戀かも知れ ぬと思つたら、とても心細くたよりなく、ひとりでめそめそ泣きました。あなたは、 他の男のひとと、まるで全然ちがつてゐます。私は、「かもめ」のニーナのやうに、 作家に戀してゐるのではありません。私は、小説家などにあこがれてはゐないのです。 文學少女、などとお思ひになつたら、こちらも、まごつきます。私は、あなたの赤ち やんがほしいのです。

 もつとずつと前に、あなたがまだおひとりの時、さうして私もまだ山木へ行か ない時に、お逢ひして、二人で結婚してゐたら、私もいまみたいに苦しまずにすんだ のかも知れませんが、私はもうあなたとの結婚は出來ないものとあきらめてゐます。 あなたの奧さまを押しのけるなど、それはあさましい暴力みたいで、私はいやなんで す。私は、おメカケ、(この言葉、言ひたくなくて、たまらないのですけど、でも愛 人、と言つてみたところで、俗に言へば、おメカケに違ひないのですから、はつきり、 言ふわ。)それだつて、かまはないんです。でも、世間普通のお妾の生活つて、むづ かしいものらしいのね。人の話では、お妾は普通、用が無くなると、捨てられるもの ですつて、六十ちかくなると、どんな男のかたでも、みんな、本妻の所へお戻りにな るんですつて。ですから、お妾にだけはなるものぢやないつて、西片町のぢいやと乳 母が話合つてゐるのを、聞いた事があるんです。でも、それは、世間普通のお妾のこ とで、私たちの場合は、ちがふやうな氣がします。あなたにとつて、一番、大事なの は、やはり、あなたのお仕事だと思ひます。さうして、あなたが、私をおすきだつた ら、二人が仲よくする事が、お仕事のためにもいいでせう。すると、あなたの奧さま も、私たちの事を納得して下さいます。へんな、こじつけの理窟みたいだけど、でも、 私の考へは、どこも間違つてゐないと思ふわ。

 問題は、あなたの御返事だけです。私をすきなのか、きらひなのか、それとも、 なんともないのか、その御返事、とてもおそろしいのだけれども、でも、伺はなけれ ばなりません。こなひだの手紙にも、私、押しかけ愛人、と書き、また、この手紙に も、中年の女の押しかけ、などと書きましたが、いまよく考へてみましたら、あなた からの御返事が無ければ、私、押しかけようにも、何も、手がかりが無く、ひとりで ぼんやり痩せて行くだけでせう。やはりあなたの何かお言葉が無ければ、ダメだつた んです。

 いまふつと思つた事でございますが、あなたは、小説ではずゐぶん戀の冒險み たいな事をお書きになり、世間からもひどい惡漢のやうに噂をされてゐながら、本當 は、常識家なんでせう。私には、常識といふ事が、わからないんです。すきな事が出 來さへすれば、それはいい生活だと思ひます。私は、あなたの赤ちやんを生みたいの です。他のひとの赤ちやんは、どんな事があつても、生みたくないんです。それで、 私はあなたに相談をしてゐるのです。おわかりになりましたら、御返事を下さい。あ なたのお氣持を、はつきり、お知らせ下さい。

 雨があがつて、風が吹き出しました。いま午後三時です。これから一級酒(六 合)の配給を貰ひに行きます。ラム酒の瓶を二本、袋にいれて、胸のポケットに、こ の手紙をいれて、もう十分ばかりしたら、下の村に出かけます。このお酒は、弟に飮 ませません。かず子が飮みます。毎晩、コップで一ぱいづついただきます。お酒は、 本當は、コップで飮むものですわね。

 こちらに、いらつしやいません?

 M・C樣

 けふも雨降りになりました。目に見えないやうな霧雨が降つてゐるのです。毎 日毎日、外出もしないで御返事をお待ちしてゐるのに、たうとうけふまでおたよりが ございませんでした。いつたいあなたは、何とお考へになつてゐるのでせう。こなひ だの手紙で、あの大師匠さんの事など書いたのがいけなかつたのかしら。こんな縁談 なんかを書いて、競争心をかき立てようとしてゐやがる、とでもお思ひになつたので せうか。でも、あの縁談は、もうあれつきりだつたのです。さつきも、お母さまと、 その話をして笑ひました。お母さまは、こなひだ舌の先が痛いとおつしやつて、直治 にすすめられて、美學療法をして、その療法に依つて、舌の痛みもとれて、この頃は ちよつとお元氣なのです。

 さつき私がお縁側に立つて、渦を卷きつつ吹かれて行く霧雨を眺めながら、あ なたのお氣持の事を考へてゐましたら、

「ミルクを沸したから、いらつしやい。」

 とお母さまが食堂のはうからお呼びになりました。

「寒いから、うんと熱くしてみたの。」

 私たちは、食堂で湯氣の立つてゐる熱いミルクをいただきながら、先日の師匠 さんの事を話合ひました。

「あの方と、私とは、どだい何も似合ひませんでせう?」

 お母さまは平氣で、

「似合はない。」とおつしやいました。

「私、こんなにわがままだし、それに藝術家といふものをきらひぢやないし、お まけに、あの方にはたくさんの収入があるらしいし、あんな方と結婚したら、そりや いいと思ふわ。だけど、ダメなの。」

 お母さまは、お笑ひになつて、

「かず子は、いけない子ね。そんなに、ダメでゐながら、こなひだあの方と、ゆ つくり何かとたのしさうにお話をしてゐたでせう。あなたの氣持が、わからない。」

「あら、だつて、

[_]
[11]面白かつたんですもの、もつと、いろい ろ話をしてみたかつたわ。
私、たしなみが無いのね。」

「いいえ、べつたりしてゐるのよ。かず子べつたり。」

 お母さまは、けふは、とてもお元氣。

 さうして、きのふはじめてアップにした私の髮をごらんになつて、

 「アップはね、髮の毛の少いひとがするといいのよ。あなたのアップは立派す ぎて、金の小さい冠でも載せてみたいくらゐ。失敗ね。」

「かず子がつかり。だつて、お母さまはいつだつたか、かず子は頸すぢが白くて 綺麗だから、なるべく頸すぢを隱さないやうに、つておつしやつたぢやないの。」

「そんな事だけは、覺えてゐるのね。」

「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覺えてゐたはうが、たのしいも の。」

「こなひだ、あの方からも、何かとほめられたのでせう。」

「さうよ。それで、べつたりになつちやつたの。私と一緒にゐると靈感が、ああ、 たまらない。私、藝術家はきらひぢやないんですけど、あんな、人格者みたいに、も つたいぶつてるひとは、とてもダメなの。」

「直治の師匠さんは、どんなひとなの?」

 私はひやりとしました。

「よくわからないけど、どうせ直治の師匠さんですもの、札つきの不良らしい わ。」

「札つき?」と、お母さまは、樂しさうな眼つきをなさつて呟き、

「面白い言葉ね。札つきなら、

[_]
[12]かへつて安全でいいぢやな いの、鈴を首にさげてゐる小猫みたいで
可愛らしいくらゐ。札のついてゐない 不良が、こはいんです。」

「さうかしら。」

 うれしくて、うれしくて、すうとからだが煙になつて空に吸はれて行くやうな 氣持でした。おわかりになります? なぜ、私が、うれしかつたか。おわかりになら なかつたら、……毆るわよ。

 いちど、本當に、こちらへ遊びにいらつしやいません? 私から直治に、あな たをお連れして來るやうに、つて言ひつけるのも、何だか不自然で、へんですから、 あなたご自身の醉興から、ふつとここへ立寄つたといふ形にして、直治の案内でおい でになつてもいいけれども、でも、なるべくならおひとりで、さうして直治が東京に 出張した留守においでになつて下さい。直治がゐると、あなたを直治にとられてしま つて、きつとあなたたちは、お咲さんのところへ燒酎なんかを飮みに出かけて行つて、 それつきりになるにきまつてゐますから。私の家では、先祖代々、藝術家を好きだつ たやうです。光琳という畫家も、むかし私どもの京都のお家に永く滯在して、襖に綺 麗な繪をかいて下さつたのです。だから、お母さまも、あなたの御來訪を、きつと 喜んで下さると思ひます。あなたは、たぶん、二階の洋間におやすみといふ事になる でせう。お忘れなく電燈を消して置いて下さい。私は小さい蝋燭を片手に持つて、暗 い階段をのぼつて行つて、それは、だめ? 早すぎるわね。

 私、不良が好きなの。それも、札つきの不良がすきなの。さうして私も札つき の不良になりたいの。さうするよりほかに、私の生きかたが、無いやうな氣がするの。 あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でせう。さうして、このごろはまた、たく さんのひとが、あなたをきたならしい、けがらはしい、と言つて、ひどく憎んで攻撃 してゐるとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。あなたの事です から、きつといろいろのアミをお持ちでせうけれども、いまにだんだん私ひとりをす きにおなりでせう。なぜだか、私にはさう思はれて仕方が無いんです。さうして、あ なたは私と一緒に暮して、毎日たのしくお仕事が出來るでせう。小さい時から私は、 よく人から、「あなたと一緒にゐると苦勞を忘れる」と言はれて來ました。私はいま まで、人からきらはれた經驗が無いんです。みんなが私を、いい子だと言つて下さい ました。だから、あなたも、私をおきらひの筈は、けつしてないと思ふのです。

 逢へばいいのです。もう、いまは御返事も何も要りません。お逢ひしたうござ います。私のはうから、東京のあなたのお宅へお伺ひすれば一ばん簡單におめにかか れるのでせうけれど、お母さまが、何せ半病人のやうで、私は附きつきりの看護婦兼 お女中さんなのですから、どうしてもそれが出來ません。おねがひでございます。ど うか、こちらへいらして下さい。ひとめお逢ひしたいのです。さうして、すべては、 お逢ひすれば、わかること。私の口の兩側に出來た幽かな皺を見て下さい。世紀の 悲 しみの皺を見て下さい。私のどんな言葉より、私の顏が、私の思ひをはつきりあなた にお知らせする筈でございます。

 さいしよに差し上げた手紙に、私の胸にかかつてゐる虹の事を書きましたが、 その虹は螢の光みたいな、またお星さまの光みたいな、そんなお上品な美しいもので はないのです。そんな淡い遠い思ひだつたら、私はこんなに苦しまず、次第にあなた を忘れて行く事が出來たでせう。私の胸の虹は、炎の橋です。胸が燒きこげるほどの 思ひなのです。麻藥中毒者が、麻藥が切れて藥を求める時の氣持だつて、これほどつ らくはないでせう。間違つてはゐない、よこしまではないと思ひながらも、ふつと、 私、たいへんな、大馬鹿の事をしようとしてゐるのではないかしら、と思つて、ぞつ とする事もあるんです。發狂してゐるんではないかしらと反省する、そんな氣持も、 たくさんあるんです。でも、私だつて、冷靜に計畫してゐる事もあるんです。本當に こちらへいちどいらして下さい。いつ、いらして下さつても大丈夫。私はどこへも行 かずに、いつもお待ちしてゐます。私を信じて下さい。

 もう一度お逢ひして、その時、いやならハッキリ言つて下さい。私のこの胸の 炎は、あなたが點火したのですから、あなたが消して行つて下さい。私ひとりの力で は、とても消す事が出來ないのです。とにかく逢つたら、逢つたら、私が助かります。 萬葉や源氏物語の頃だつたら、私の申し上げてゐるやうなこと、何でもない事でした のに。私の望み。あなたの愛妾になつて、あなたの子供の母になる事。

 このやうな手紙を、もし嘲笑するひとがあつたら、そのひとは女の生きて行く 努力を嘲笑するひとです。女のいのちを嘲笑するひとです。私は港の息づまるやうな 澱んだ空氣に堪へ切れなくて、港の外は嵐であつても、帆をあげたいのです。憇へる 帆は、例外なく汚い。私を嘲笑する人たちは、きつとみな憇へる帆です。何も出來や しないんです。

 困つた女。しかし、この問題で一ばん苦しんでゐるのは私なのです。この問題 に就いて、何も、ちつとも苦しんでゐない傍觀者が、帆を醜くだらりと休ませながら、 この問題を批判するのは、ナンセンスです。私を、いい加減に何々思想なんて言つて もらひたくないんです。私は無思想です。私は思想や哲學なんてもので行動した事は、 いちどだつてないんです。

 世間でよいと言はれ、尊敬されてゐるひとたちは、みな嘘つきで、にせものな のを、私は知つてゐるんです。私は世間を信用してゐないんです。札つきの不良だけ が、私の味方なんです。札つきの不良。私はその十字架にだけは、かかつて死んでも いいと思つてゐます。萬人に非難せられても、それでも、私は言ひかへしてやれるん です。お前たちは、札のついてゐないもつと危險な不良ぢやないか、と。

 おわかりになりまして?

 こひに理由はございません。すこし理窟みたいな事を言ひすぎました。弟の口 眞似に過ぎなかつたやうな氣もします。おいでをお待ちしてゐるだけなのです。もう 一度おめにかかりたいのです。それだけなのです。

 待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒つたり悲しんだり、いろいろの感情 があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めてゐるだけ の感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待つて暮してゐるのではないでせうか。 幸福の足音が、廊下に聞えるのを今か今かと胸のつぶれる思ひで待つて、からつぽ。 ああ、人間の生活つて、あんまりみじめ。生れて來ないはうがよかつたとみんなが考 へてゐるこの現實。さうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待つてゐる。みじ めすぎます。生れて來てよかつたと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこん でみたうございます。

 はばむ道徳を、押しのけられませんか?

 M・C(マイ、チエホフのイニシヤルではないんです。私は、作家にこひして ゐるのでございません。マイ、チヤイルド)

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[11] Dazai Zenshu reads 面白かつたんですもの。もつと、いろいろ話をしてみたかつたわ。.
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[12] Dazai Zenshu reads かへつて安全でいいぢやないの。鈴を首にさげてゐる小猫みたいで.