University of Virginia Library

下之巻

語り

戀なさけ爰を瀬にせん蜆川、流るる水も行通ふ、人も音せぬ丑滿の、 空十五夜の月冴て、光りは暗き門行燈、大和屋傳兵衞を一字書。眠りがち 成拍子木に、番太が足取千鳥足、「ごよざ/\」も聲更たり。「駕籠の衆 いかふ更たの」と上の町から下女子、迎ひの駕籠も大和屋の、潜ぐは ら/\つつと入、


大和屋

「紀伊の國屋の小春さん借やんしよ。迎ひ」


語り

とばかりほの聞へ、跡は三ツ四ツ挨拶の、程なく潜によつと出、


下女

「小春樣はお泊 じや。駕籠の衆直に休ましやれ。アヽいひ殘した是花車さん、小春樣に氣 を付て下さんせ。太兵衞樣へ身請がすんで、金請取たりや預かり物。酒過 させて下んすな」


語り

と、門の口から明日待ぬ、治兵衞小春が土に成、種蒔ち らして歸りける。茶屋の茶釜も夜一時、休むは八ツと七ツとの間にちら付 短檠の、光も細く更る夜の、川風寒く霜みてり。



「まだ夜が深い送らせま しよ。治兵衞樣のお歸りじや、小春樣起しませ。夫呼ませ」


語り

は亭主が聲。治兵衞潜をぐはさとあけ、



「コレ/\傳兵衞、小春に沙汰なし。耳へ入レ ば夜あけ迄くくられる。夫故よふ寐させて拔て往ぬる。日が出てから起し ていなしや。我等今から歸ると直に、買物の爲京へ上る。大分の用なれ ば、中拂ひの間にあふ樣に歸るは不定。最前の金でそなたの算用合も仕 廻、河庄が所へも後の月見の拂といふて、四ツ百五十匁請取つて給らふ し、と福島の西悦坊が佛壇買た奉加、銀一枚囘向しやれと遣つてたも。其 外に懸り合は、ハア夫よ/\、磯市が花銀五、是計じや仕廻て寐やれ。さ らば/\戻つて逢ふ」


語り

と、二足三足行より早く立歸り、



「脇指忘れたちやつと/\。なんと傳兵衞、町人はここが心易い。侍なれば其儘切腹するであろの」



「我ら預かつて置てとんと失念。小刀も揃ふた」


語り

と、渡せば取てしつかどさし、



「是さへあれば千人力。もふ休みやれ」


語り

と立歸る。



「追付お下りなさりませ。よふ御座りま」


語り

もそこ/\に、跡は樞をごつとりと、物音もなく鎭まれり。治兵衞はつつと去ぬる顏。又引かへす忍び足、 大和屋の戸に縋り、内を覗いて見る内に、間近き人影びつくりして、向ひ の家の物影に過る間暫し身を忍ぶ。弟故に氣を碎く、粉屋孫右衞門は先に たち、跡に丁稚の三五郎が、背中に甥の勘太郎を連れ、行燈目あてに駈來 たり、大和屋の戸を打叩き、



「ちと物問ませふ。紙屋治兵衞は居ませぬ か。ちよつと逢せて下され」


語り

と呼はれば、「扨は兄き」と治兵衞は身動き もせず、猶忍ぶ。内から男の寐ほれ聲、



「治兵衞はまちつと 先に、京へのぼるとてお歸りなされた。爰にでは御座らぬ」


語り

と、重て何の音なひも、涙はら/\孫右衞門、



「歸らば道で逢そな物。京へとは合點が ゆかぬ。アヽ氣遣ひで身がふるふ。小春をつれては行ぬか」


語り

と、胸にきつくり横たはる、心苦しさこたへかね、又戸を叩けば、



「夜更て誰じや。もふ寐ました」



「御無心ながらま一度お尋ね申たい。紀伊の國屋の小春 殿は、お歸りなされたか。もし治兵衞と連立て行はなされぬか」



「ヤヤ何じや小春殿は二階に寐てじや」



「ア先心が落付た。心中の念はない。 何處にかがんで此苦をかける。一門一家親兄弟が、片唾を呑で臟腑を揉と はよも知るまい。舅の恨に我身を忘れ、無分別も出よふか、と異見の種に 勘太郎を連て尋るかひもなく、今迄逢ぬは何ごと」


語り

とほろ/\涙の一人言、隱るる間の隔てねば、聞へて治兵衞も息を詰、涙 呑込計なり。



「ヤイ三五郎、阿房めが夜る/\うせる所、外には 知らぬか」


語り

といへば、阿房は我名ぞと心へて、



「知て居れど爰では恥かしうていはれぬ」



「知て居るとはサア何處じや。云て聞せ」



「聞た跡で叱らしやんな。毎晩ちよこ/\行所は、 市の側の納屋の下」



「大だはけめ、夫を誰が吟味する。 サアこい裏町を尋ねて見ん。勘太郎に風ひかすな。ごくにも立ぬ父めを持 て、可愛や冷たいめをするな。此冷たさで仕廻ばよいが、ひよつと憂めは 見せまいか」


語り

憎や/\の底心は不便/\の裏町を、いざ尋んと行過る、影 隔たれば駈出て、跡懷かしげに伸上り、心に物を云はせては、



「十惡人の此治兵衞、死に次第共捨置れず、跡からあと迄御厄介。勿躰なや」


語り

と手を合せ、伏拜み/\、


[治]

「猶此上のお慈悲には、子共がことを」


語り

と計にて、暫し涙に咽びしが、



「兎ても覺悟を極しうえ、小春や待ん」


語り

と大和屋の、 潜の透間さし覗けば、内にちら付人かげは、小春じやないか。待つとしら せの合圖の咳、エヘン/\かつち/\、ゑへんに拍子木打まぜて、上の町 から番太郎が、くる/\たぐる風の夜は、せき/\廻る火用心。「ごよ ざ/\/\」も人忍ぶ、我には辛き葛城の、神隱れして遣り過し、透を窺 ひ立寄ば、潜内からそつと明く。



「小春か」



「待てか。治兵衞樣早ふ出たい」


語り

と氣をせけば、せく程廻る車戸の、明るを人や聞付んと、しやく つてあくればしやくつて響き、 耳に轟く胸の中。治兵衞が外から手を添ても、心震ふに手先も震ひ、三 分四分五分一寸の、先の地獄の苦みより、鬼の見ぬ間と漸に、明て嬉し き年の朝、小春は内を拔出て、互ひに手を取かはし、北へ行ふか南へ か。西か東か行末も、心の早瀬蜆川、流るる月に逆らひて、足をはかりに


三重

名ごりの橋づくし

語り

走り書、謠の本は近衞流、野郎帽子は若紫、惡所狂ひの身の果は、かくな り行と定まりし、釋迦の教も有ことか、見たし憂身の因果經、明日は世上 の言草に紙屋次兵衞が心中と、仇名散り行櫻木に、根彫葉ほりを繪双紙 の、板摺る紙の其中に、有共しらぬ死神に、誘はれ行も商賣に、疎き報と 觀念も、とすれば心ひかされて、歩み惱むぞ道理成。此は十月十五夜の、 月にも見へぬ身の上は、心の闇の印かや。今置霜は明日消る、はかなき譬 の夫よりも、先へ消行閨の内、いと可愛としめて寢し、移香も何と冷泉流 の蜆川、西に見て朝夕渡る此橋の、天神橋は其昔、菅丞相と申せし時、筑 紫へ流され給ひしに、君を慕ひて太宰府へ、たつた一飛梅田橋、跡老松の 緑橋、別れを歎き悲しみて、跡にこがるる櫻橋、今に咄しを聞渡る、一首 の歌の御威徳。



「斯る尊き荒神の、氏子と生れし身を持て、そなたも殺 し我も死ぬ、元はと問へば分別の、あのいたいけな貝殻に、一杯もなき蜆 橋。短かき物は我々が歌此世の住居秋の日よ、十九と廿八年の、今日の今 宵を限りにて、二人の命の捨所。爺と婆との末迄も、まめで添はんと契り しに、丸三年も名染いで、此災難に大江橋。あれみや浪花小橋から、舟入 橋の濱傳ひ。是迄來れば來る程は、冥途の道の道が近付」


語り

と、歎けば女も縋り寄り、



「もふ此道が冥途か」


語り

と、見交す顏も見へぬ程、落る涙に堀川の、橋も水にや浸るらん。



「北へ歩めば我宿を、一目に見るも見返ら ず。子共の行衞女房の、哀も胸に押包み、南へ渡る橋柱、數も限らぬ家々 を、いかに名付て八軒家。誰と伏見の下り舟、著ぬ内に」


語り

と道急ぐ。

「此世を捨て行身には、聞も恐ろし天滿橋、歌淀と大和の二ア川を、一ツ 流の大川や、水と魚とは連て行。我も小春と二人連、一ツ刃の三ツ瀬川、手向 の水に受たやな。



何か歎かん此世でこそば添ず共。未來はいふに及ず、今 度の/\、つつと今度の其先の世迄も夫婦ぞや。一ツ蓮の頼みには、一夏 に一部夏書せし、大慈大悲の普門品、


語り

妙法蓮華京橋を、地藏和讃越れば到 る彼岸の、



玉の臺に法をへて、佛の姿に身御成橋、衆生濟度がままなら ば、流の人の此後は、絶て心中せぬやうに、守りたいぞ」


語り

と及びなき、願 ひも世上のよまひ言、思ひやられて哀れなり。野田の入江の水煙り、歌山 の端白くほの%\と、あれ寺々の金の聲、こう/\



「かふしていつ迄か、とても存らへ果ぬ身を、最期急がん此方へ」


語り

と手に百八の玉の緒を涙の玉に操まぜて、南無あみ島の大長寺、薮の外面のいささ川、流れ漲る樋の上を、最期所 と著にける。



「なふいつ迄うか/\歩みても、爰ぞ人の死に場とて、 定まりし所もなし。いざ爰を往生場」


語り

と、手を取土に座しければ、



「さればこそ死に場は何處も同じこ とと云ながら、わたしが道々思ふにも、二人が死に顏並べて、小春と紙屋 治兵衞と心中と沙汰あらば、おさん樣より頼みにて、殺して呉るなころす まい、挨拶切と取替せし其文を反古にし、大事の男を唆しての心中は、さ すが一座流れの勤めの者、義理しらず僞り者と、世の人千人万人より、お さん樣一人のさげしみ、恨み妬みもさぞと思ひ遣り、未來の迷ひは是一 つ。わたしを爰で殺して、こなさん何處ぞ所をかへ、ついと側で」


語り

とうちもたれ、くどけば共にくどき泣、



「ア愚痴な事ばかり。おさんは舅に取 りかやされ、暇を遣れば他人と他人。離別の女になんの義理。道すがらい ふ通り、今度の/\ずんど今度の、先の世迄も女夫と契る此二人。枕を並 べ死るに、誰が謗る誰が妬む」



「サア其離別は誰がわざ。わたしよりも こなさん猶愚痴な。身躰があの世へ連立か。所々の死にをして、譬へ此か らだは鳶烏につつかれても、二人の魂付纒はり、地獄へも極樂 へも連立て下さんせ」


語り

と、又伏沈み泣ければ、



「ヲヽ夫よ/\、此からだは地水火風、死れば空に 歸る。五生七生朽せぬ夫婦の、魂放れぬ印合點」


語り

と、脇指ずはと拔はなし、元結ぎはより我黒髪、ぶつつと切て、



「是見や小春。此髪の有内は紙屋治兵衞と云ふおさ んが夫。髪切たれば出家の身、三界の家を出、妻子珍寶不隨者の法師。おさんといふ女房なければ、おぬしが立る義理もなし」


語り

と、涙ながら投出す。



「アヽ嬉しふござんす」


語り

と小春も脇指取上、洗ひつ漉つ撫付し、酷や惜げも投島田、はらりと 切ツて投捨る。枯野の芒夜半の霜、共に亂るる哀れさよ。



「浮世を遁れ し尼法師、夫婦の義理とは俗の昔。迚もの事にさつぱりと、死場もかへて 山と川、此樋の上を山となぞらへ、そなたが最期場。我は又此流れにて縊 り、最期は同じ時ながら、捨身の品も所も替て、おさんに立拔く心の道。 其抱帯此方へ」


語り

と、若紫の色も香も、無常の風に縮緬の、此世あの世の二 重まはり、樋の俎木にしつかと括り、先を結んで狩場の雉子の、妻故我も 首しめくくる罠結。我と我身の死拵へ、見るに目もくれ心くれ、



「こなさん夫で死なしやんすか。所を隔て死ぬれば、 側に居るも少の間。爰へ/\」


語り

と手を取合、



「刃で死ぬるは一ト思ひ。さぞ苦痛なされ うと、思へばいとしい/\」


語り

と、とどめかねたる忍泣。



「首くくるも喉 つくも、死ぬるに愚の有物か。よしない事に氣をふれ、最期の念を亂さず 共、西へ/\と行月を、如來と拜み目を放さず。只西方を忘りやるな。心 殘りの事あらばいふて死にや」



「何にもない/\。こなさん定てお二人 の子達の事が氣にかかろ」



「アレひよんな事いひ出して又泣しやる。父 親が今死ぬる共、何心なくすや/\と、可愛や寐顏見るやうな。忘ぬは是 ばつかり」


語り

とかつぱと伏て泣しづむ、聲も爭ふ群烏、塒をはなれて鳴聲 は、今の哀れを問ふやとて、いとど涙を添にける。



「なふあれを聞や。 二人を冥途へ迎ひの烏、牛王の裏に誓紙一枚書たびに、熊野の烏がお山に て、三羽づつ死ぬると、昔より云傳へしが、我とそなたが新玉の、年の始 に起請の書初め。月の始月頭、書し誓紙の數々、其度毎に三羽づつ、殺せ し烏は幾許ぞや。常には可愛/\と聞、今宵の耳へは其殺生の恨の罪、む くひ/\と聞ゆるぞや。報ひとは誰ゆへぞ、我故辛き死をとぐる。ゆるし てくれ」


語り

と抱き寄れば、



「いやわし故」


語り

と締寄て、顏と/\をうち重 ね、涙に閉る鬢の髪、野邊の嵐に冰けり。後に響く大長寺の鐘の聲、南無 三寶長き夜も、夫婦が命短き夜と、早明渡る晨朝に、最期は今ぞと引寄 て、跡迄殘る死顏に、泣顏殘すな殘さじと、につと笑顏のしろじろと、霜 に凍ゑて手も慄ひ、我から先に目もくらみ、刃の立どもなく涙。



「アヽせくまい/\」



「早ふ/\」


語り

と女が勇むを力草、風誘ひ來る念佛は、我 に勸むる南無阿彌陀佛、彌陀の利釼とぐつと刺され、引すへてものり返 り、七ツ顛八倒こはいかに、切ツ先咽の笛を外れ、死にもやらざる最期の業 苦、共に亂れて苦みの、氣を取直し引寄て、鍔元迄さし通したる一刀、刳 る苦しき曉の、見果ぬ夢と消果たり。頭北面西右脇臥に羽織打著せ、死骸 を繕ひ、泣て盡せぬ名殘の袂、見捨て抱帯を手繰寄せ、首に罠を引掛る。 寺の念佛も切囘向、「有縁無縁乃至法界、平等」の聲を限りに樋の上よ り、



「一蓮托生南無阿彌陀佛」


語り

と踏はづし、暫し苦むなり瓢、風に揺る る如くにて、次第に絶る呼吸の道、いきせきとむる樋の口に、此世の縁は 切果たり。朝出の漁夫が網の目に、見付て、


漁夫

「死んだヤレ死んだ。出合/\」


語り

と聲々に、云廣めたる物語。直に成佛得脱の、誓ひの網島心中と、 目ごとに涙をかけにけり。