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こころもとなきもの
人の許に、頓の物ぬひにやりて待つほど。物見に急ぎ出でて、今や/\とくるしう居入りつつ、あなたをまもらへたる心地。子産むべき人の、ほど過ぐるまでさるけしきのなき。遠き所より思ふ人の文を得て、かたく封じたる續飯など放ちあくる、心もとなし。物見に急ぎ出でて、事なりにけりとて、白き笞など見つけたるに、近くやりよする程、佗しうおりてもいぬべき心地こそすれ。知られじと思ふ人のあるに、前なる人に教へて物いはせたる。いつしかと待ち出でたる兒の、五十日百日などのほどになりたる、行末いと心もとなし。頓のもの縫ふに、くらきをり針に糸つくる。されど我はさるものにて、ありぬべき所をとらへて人につけさするに、それも急げばにやあらん、頓にもえさし入れぬを、「いで唯なすげそ」といへど、さすがになどてかはと思ひがほにえさらぬは、にくささへそひぬ。何事にもあれ、急ぎて物へ行くをり、まづわがさるべき所へ行くとて、「只今おこせん」とて出でぬる車待つ程こそ心もとなけれ。大路往きけるを、さなりけると喜びたれば、外ざまに往ぬるいとくちをし。まして物見に出でんとてあるに、「事はなりぬらん」などいふを聞くこそわびしけれ。子うみける人の、後のこと久しき。物見にや、又御寺まうでなどに、諸共にあるべき人を乘せに往きたるを、車さし寄せたてるが、頓にも乘らで待たするもいと心もとなく、うちすてても往ぬべき心地する。とみに煎炭おこす、いと心もとなし。人の歌の返し疾くすべきを、え詠み得ぬほど、いと心もとなし。懸想人などはさしも急ぐまじけれど、おのづから又さるべきをりもあり。又まして女も男も、ただに言ひかはすほどは、疾きのみこそはと思ふほどに、あいなく僻事も出でくるぞかし。又心地あしく、物おそろしきほど、夜の明くるまつこそ、いみじう心もとなけれ。はぐろめのひる程も心もとなし。
故殿の御服の頃、六月三十日の御祓といふ事に出でさせ給ふべきを、職の御曹司は方あしとて、官のつかさのあいたる所に渡らせ給へり。その夜は、さばかり暑くわりなき闇にて、何事もせばう瓦葺にてさまことなり。例のやうに格子などもなく、唯めぐりて御簾ばかりをぞかけたる、なか/\珍しうをかし。女房庭におりなどして遊ぶ。前栽には萱草といふ草を、架垣ゆひていと多く植ゑたりける、花きはやかに重りて咲きたる、むべ/\しき所の前栽にはよし。時づかさなどは唯かたはらにて、鐘の音も例には似ず聞ゆるを、ゆかしがりて、若き人々二十餘人ばかり、そなたに行きて
はしり寄り、たかき屋にのぼりたるを、これより見あぐれば、薄鈍の裳、同じ色の衣單襲、紅の袴どもを著てのぼりたるは、いと天人などこそえいふまじけれど、空よりおりたるにやとぞ見ゆる。おなじわかさなれど、おしあげられたる人はえまじらで、うらやましげに見あげたるもをかし。日暮れてくらまぎれにぞ、過したる人々皆立ちまじりて、右近の陣へ物見に出できて、たはぶれ騒ぎ笑ふもあめりしを、「かうはせぬ事なり、上達部のつき給ひしなどに、女房どものぼり、上官などの居る障子を皆打ち通しそこなひたり」など苦しがるものもあれど、ききも入れず。屋のいと古くて、瓦葺なればにやあらん、暑さの世に知らねば、御簾の外に夜も臥したるに、ふるき所なれば、蜈蚣といふもの、日ひと日おちかかり、蜂の巣のおほきにて、つき集りたるなど、いとおそろしき。殿上人日ごとに參り、夜も居明し、物言ふを聞きて、「秋ばかりにや、太政官の地の、今やかうのにはとならん事を」と誦し出でたりし人こそをかしかりしか。秋になりたれど、かたへ涼しからぬ風の、所がらなンめり。さすがに蟲の聲などは聞えたり。八日にかへらせたまへば、七夕祭などにて、例より近う見ゆるは、ほどのせばければなンめり。
宰相中將齊信、宣方の中將と參り給へるに、人々出でて物などいふに、ついでもなく、「明日はいかなる詩をか」といふに、いささか思ひめぐらし、とどこほりなく、「人間の四月をこそは」と答へ給へる、いみじうをかしくこそ。過ぎたることなれど、心えていふはをかしき中にも、女房などこそさやうの物わすれはせね、男はさもあらず、詠みたる歌をだになまおぼえなるを、まことにをかし。内なる人も、外なる人も、心えずとおもひたるぞ理なるや。
この三月三十日廊の一の口に、殿上人あまた立てりしを、やう/\すべりうせなどして、ただ頭中將、源中將、六位ひとりのこりて、よろづのこといひ、經よみ、歌うたひなどするに、「明けはてぬなり、歸りなん」とて、露は別の涙なるべしといふことを、頭中將うち出し給へれば、源中將もろともに、いとをかしう誦じたるに、「いそぎたる七夕かな」といふを、いみじうねたがりて、曉の別のすぢの、ふと覺えつるままにいひて、わびしうもあるわざかな」と、「すべてこのわたりにては、かかる事思ひまはさずいふは、口惜しきぞかし」などいひて、あまりあかくなりにしかば、「葛城の神、今ぞすぢなき」とて、わけておはしにしを、七夕のをり、この事を言ひ出でばやと思ひしかど、宰相になり給ひにしかば、必しもいかでかは、その程に見つけなどもせん、文かきて、主殿司してやらんなど思ひし程に、七日に參り給へりしかば、うれしくて、その夜の事などいひ出でば、心もぞえたまふ。すずろにふといひたらば、怪しなどやうちかたぶき給はん。さらばそれには、ありし事いはんとてあるに、つゆおぼめかで答へ給へりしかば、實にいみじうをかしかりき。月ごろいつしかと思ひ侍りしだに、わが心ながらすき%\しと覺えしに、いかでさはた思ひまうけたるやうにの給ひけん。もろともにねたがり言ひし中將は、思ひもよらで居たるに、「ありし曉の詞いましめらるるは、知らぬか」との給ふにぞ、「實にさしつ」などいひ、「男は張騫」などいふことを、人には知らせず、この君と心えていふを、「何事ぞ/\」と源中將はそひつきて問へど、いはねば、かの君に「猶これの給へ」と怨みられて、よき中なれば聞せてけり。いとあへなく言ふ程もなく、近うなりぬるをば、「押小路のほどぞ」などいふに、我も知りにけると、いつしか知られんとて、わざと呼び出て、「碁盤侍りや、まろもうたんと思ふはいかが、手はゆるし給はんや。頭中將とひとし碁なり。なおぼしわきそ」といふに、「さのみあらば定めなくや」と答へしを、かの君に語り聞えければ、「嬉しく言ひたる」とよろこび給ひし。なほ過ぎたること忘れぬ人はいとをかし。宰相になり給ひしを、うへの御前にて、「詩をいとをかしう誦じ侍りしものを、蕭會稽の古廟をも過ぎにしなども、誰か言ひはべらんとする。暫しならでもさぶらへかし。口惜しきに」など申ししかば、いみじう笑はせ給ひて、「さなんいふとて、なさじかし」など仰せられしもをかし。されどなり給ひにしかば、誠にさう%\しかりしに、源中將おとらずと思ひて、ゆゑだちありくに、宰相中將の御うへをいひ出でて、「いまだ三十の期に逮ばずといふ詩を、こと人には似ず、をかしう誦じ給ふ」などいへば、「などかそれに劣らん、まさりてこそせめ」とて詠むに、「更にわろくもあらず」といへば、「わびしの事や、いかで、あれがやうに誦ぜで」などの給ふ。「三十の期といふ所なん、すべていみじう、愛敬づきたりし」などいへば、ねたがりて笑ひありくに、陣につき給へりけるをりに、わきて呼び出でて、「かうなんいふ。猶そこ教へ給へ」といひければ、笑ひて教へけるも知らぬに、局のもとにて、いみじくよく似せて詠むに、あやしくて、「こは誰そ」と問へば、ゑみごゑになりて、「いみじき事聞えん。かう/\昨日陣につきたりしに、問ひ來てたちにたるなめり。誰ぞと、にくからぬ氣色にて問ひ給へれば」といふも、わざとさ習ひ給ひけんをかしければ、これだに聞けば、出でて物などいふを、「宰相の中將の徳見る事、そなたに向ひて拜むべし」などいふ。下にありながら、「うへに」などいはするに、これをうち出づれば、「誠はあり」などいふ。御前にかくなど申せば、笑はせ給ふ。内裏の御物忌なる日、右近のさうくわんみつなにとかやいふものして、疊紙に書きておこせたるを見れば、「參ぜんとするを、今日は御物忌にてなん。三十の期におよばずは、いかが」といひたれば、返事に、「その期は過ぎぬらん、朱買臣が妻を教へけん年にはしも」と書きてやりたりしを、又ねたがりて、うへの御前にも奏しければ、宮の御かたにわたらせ給ひて、「いかでかかる事は知りしぞ。四十九になりける年こそ、さは誡めけれとて、宣方はわびしういはれにたりといふめるは」と笑はせ給ひしこそ、物ぐるほしかりける君かなとおぼえしか。
弘徽殿とは、閑院の太政大臣の女御とぞ聞ゆる。その御方に、うちふしといふ者の女、左京といひてさぶらひけるを、「源中將かたらひて思ふ」など人々笑ふ頃、宮の職におはしまいしに參りて、「時々は御宿直など仕うまつるべけれど、さるべきさまに女房などもてなし給はねば、いと宮づかへおろかにさぶらふ。宿直所をだに賜りたらんは、いみじうまめにさぶらひなん」などいひ居給ひつれば、人々げになどいふ程に、「誠に人は、うちふしやすむ所のあるこそよけれ。さるあたりには、しげく參り給ふなるものを」とさし答へたりとて、「すべて物きこえず。方人と頼み聞ゆれば、人のいひふるしたるさまに取りなし給ふ」など、いみじうまめだちてうらみ給ふ。「あなあやし、いかなる事をか聞えつる。更に聞きとどめ給ふことなし」などいふ。傍なる人を引きゆるがせば、「さるべきこともなきを、ほとほり出で給ふ、さまこそあらめ」とて、花やかに笑ふに、「これもかのいはせ給ふならん」とて、いとものしと思へり。「更にさやうの事をなんいひ侍らぬ。人のいふだににくきものを」といひて、引き入りにしかば、後にもなほ、「人にはぢがましき事いひつけたる」と恨みて、「殿上人の、笑ふとていひ出でたるなり」との給へば、「さては一人を恨み給ふべくもあらざンめる、あやし」などいへば、その後は絶えてやみ給ひにけり。