University of Virginia Library

Search this document 

expand section1. 
collapse section2. 
 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
expand section3. 

 宅へ歸つて案外に思つたのは、父の元氣が此前見た時と大して變つてゐない事であつた。

 「あゝ歸つたかい。さうか、それでも卒業が出來てまあ結構だつた。一寸御待ち、今顏を洗つて來るから」

 父は庭へ出て何か爲てゐた所であつた。古い麥藁帽の後へ、日除のために括り付けた薄汚ないハンケチをひら/\させながら、井戸のある裏手の方へ廻つて行つた。

 學校を卒業するのを普通の人間として當然のやうに考へてゐた私は、それを豫期以上に喜こんで呉れる父の前に恐縮した。

 「卒業が出來てまあ結構だ」

 父は此言葉を何遍も繰り返した。私は心のうちで此父の喜びと、卒業式のあつた晩先生の家の食卓で、「御目出たう」と云はれた時の先生の顏付とを比較した。私には口で祝つてくれながら、腹の底でけなしてゐる先生の方が、それ程にもないものを珍らしさうに嬉しがる父よりも、却つて高尚に見えた。私は仕舞に父の無知から出る田舍臭い所に不快を感じ出した。

 「大學位卒業したつて、それ程結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だつてあります」

 私は遂に斯んな口の利きやうをした。すると父が變な顏をした。

 「何も卒業したから結構とばかり云ふんぢやない。そりや卒業は結構に違ないが、おれの云ふのはもう少し意味があるんだ。それが御前に解つてゐて呉れさへすれば、‥‥」

 私は父から其後を聞かうとした。父は話したくなささうであつたが、とう/\斯う云つた。

 「つまり、おれが結構といふ事になるのさ。おれは御前の知つてる通りの病氣だらう。去年の冬御前に會つた時、ことによるともう三月か四月位なものだらうと思つてゐたのさ。それが何ういふ仕合せか、今日迄斯うしてゐる。起居に不自由なく斯うしてゐる。そこへ御前が卒業して呉れた。だから嬉しいのさ。折角丹精した息子が、自分の居なくなつた後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに學校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだらうぢやないか。大きな考を有つてゐる御前から見たら、高が大學を卒業した位で、結構だ/\と云はれるのは餘り面白くもないだらう。然しおれの方から見て御覽、立場が少し違つてゐるよ。つまり卒業は御前に取つてより、此おれに取つて結構なんだ。解つたかい」

 私は一言もなかつた。詫まる以上に恐縮して俯向いてゐた。父は平氣なうちに自分の死を覺悟してゐたものと見える。しかも私の卒業する前に死ぬだらうと思ひ定めてゐたと見える。其卒業が父の心に何の位響くかも考へずにゐた私は全く愚ものであつた。私は鞄の中から卒業證書を取り出して、それを大事さうに父と母に見せた。證書は何かに壓し潰されて、元の形を失つてゐた。父はそれを鄭寧に伸した。

 「こんなものは卷いたなり手に持つて來るものだ」

 「中に心でも入れると好かつたのに」と母も傍から注意した。

 父はしばらくそれを眺めた後、起つて床の間の所へ行つて、誰の目にもすぐ這入るやうな正面へ證書を置いた。何時もの私ならすぐ何とかいふ筈であつたが、其時の私は丸で平生と違つてゐた。父や母に對して少しも逆らふ氣が起らなかつた。私はだまつて父の爲すが儘に任せて置いた。一旦癖のついた鳥の子紙の證書は、中々父の自由にならなかつた。適當な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢を得て倒れやうとした。