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5. 伍

金の事より外、何一つ考えたことのない末造も、お玉のありかを突き留めるや否や、まだ先方が承知するかせぬか知れぬうちに、自分で近所の借家を捜して歩いた。何軒 も見た中で、末造の気に入った店が二軒あった。一つは同じ池の端で、自分の住まっ ている福地源一郎の邸宅の隣と、その頃名高かった蕎麦屋の蓮玉庵との真ん中位の処 で、池の西南の隅から少し蓮玉庵の方へ寄った、往来から少し引っ込めて立てた家で ある。四つ目垣の内に、高野槇が一本とちゃぼ檜葉が二三本と植えてあって、植木の 間から、竹格子を打った肘懸窓が見えている。貸家の札が張ってあるので這入って見 ると、まだ人が住んでいて、五十ばかりの婆あさんが案内をして中を見せてくれた。 その婆あさんが問わずがたりに云うには、主人は中国辺の或る大名の家老であったが、 廃藩になってから、小使取りに大蔵省の属官を勤めている。もう六十幾つとかになる が、綺麗好きで、東京中を歩いて、新築の借家を捜して借りるが、少し古びて来ると、 すぐ引き越す。勿論子供は別になってしまってから久しくなるので、家を荒すような 事はないが、どうせ住んでいるうちに古くなるので、障子の張替もしなくてはならず、 畳の表も換えなくてはならない。そんな面倒をなるたけせぬようにして、さっさと引 き越すのだと云うのである。婆あさんはそれが厭でならぬので、知らぬ人にも夫の壁 訴訟をする。「この内なんぞもまだこんなに綺麗なのに、もう越すと申すのでござい ますよ」と云って、内じゅうを細かに見せてくれた。どこからどこまで、可なり綺麗 に掃除がしてある。末造は一寸好いと思って、敷金と家賃と差配の名とを、手帳に書 き留めて出た。

今一つは無縁坂の中程にある小家である。それは札も何も出ていなかったが、売りに出たのを聞いて見に行った。持主は湯島切通しの質屋で、そこの隠居がついこの間まで住んでいたのが亡くなったので、婆あさんは本店へ引き取られたと云うのである。隣が裁縫の師匠をしているので、少し騒がしいが、わざわざ隠居所に木なんぞを選んで立てたものゆえ、どことなく住心地が好さそうである。入口の格子戸から、花崗岩を塗り込めた敲きの庭まで、小ざっぱりと奥床しげに出来ている。

末造は一晩床の上に寝転んで、二つの中どれにしようかと考えた。傍には女房が子供を寐かそうと思って、自分も一しょに寐入ってしまって、大きな口を開いて、女らしくない鼾をしている。亭主が夜、貸金の利廻しを考えて、いつまでも眠らずにいるのは常の事なので、女房は何時まで亭主が目を開いていようが、少しも気になんぞはせぬのである。末造は腹のうちで可笑しくてたまらない。考えつつ女房の顔を見て、 こう思った。「まあ、同じ女でもこんな面をしているのもある。あのお玉はだいぶ久 しく見ないが、あの時はまだ子供上がりであったのに、おとなしい中に意気な処のあ る、震い附きたいような顔をしていた。さぞこの頃は女振を上げているだろうな。顔 を見るのが楽みだな。かかあ奴。平気で寐てけつかる。己だって、いつも金のことば かり考えているのだと思うと、大違いだぞ。おや。もう蚊が出やがった。下谷はこれ だから厭だ。そろそろ蚊帳を吊らなくちゃあ、かかあは好いが、子供が食われるだろ う」こんな事を思っては、又家の事を考えて見る。どうか、こうか断案に到着したら しく思ったのは、一時過ぎであった。それはこうである。「あの池の端の家は、人は 見晴しがあって好いなんぞと云うかも知れないが、見晴しはこの家で沢山だ。家賃が 安いが、借家となると何やかや手が掛かる。それになんとなく開け広げたような場所 で、人の目に着きそうだ。うっかり窓でもあけていて、子供を連れて仲町へ出掛ける かかあにでも見られようなものなら面倒だ。無縁坂の方は陰気なようだが、学生が散 歩に出て通る位より外に、人の余り通らない処になっている。一時に金を出して買う のはおっくうなようだが、木道具の好いのが使ってあるわりに安いから、保険でも附 けて置けばいつ売ることになっても元値は取れると思って安心していられる。無縁坂 にしよう、しよう。己が夕方にでもなって、湯にでも行って、気の利いた支度をして、 かかあに好い加減な事を言って、だまくらかして出掛けるのだな。そしてあの格子戸 を開けて、ずっと這入って行ったら、どんな塩梅だろう。お玉の奴め。猫か何かを膝 にのっけて、さびしがって待っていやがるだろうなあ。勿論お作りをして待っている のだ。着物なんぞはどうでもして遣る。待てよ。馬鹿な銭を使ってはならないぞ。質 流れにだって、立派なものがある。女一人に着物や頭の物の贅沢をさせるには、世間 の奴のするような、馬鹿を尽さなくても好い。隣の福地さんなんぞは、己の内より大 きな構をしていて、数寄屋町の芸者を連れて、池の端をぶら附いて、書生さんを羨ま しがらせて、好い気になっていなさるが、内証は火の車だ。学者が聞いてあきれらあ。 筆尖で旨い事をすりゃあ、お店ものだってお払箱にならあ。おう、そうそう。お玉は 三味線が弾けたっけ。爪弾で心意気でも聞かせてくれるようだと好いが、巡査の上さ んになったより外に世間を知らずにいるのだから、駄目だろうなあ。お笑いなさるか らいやだわとか、なんとか云って、弾けと云っても、なかなか弾かないだろうて。ほ んになんに附けても、はにかみやあがるだろう。顔を赤くしてもじもじするに違いな い。己が始て行った晩には、どうするだろう」空想は縦横に地騁して、底止する所を 知らない。かれこれするうち、想像が切れ切れになって、白い肌がちらつく。ささや きが聞える。末造は好い心持に寐入ってしまった。傍に上さんは相変らず鼾をしてい る。