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3. 参

岡田は虞初新誌が好きで、中にも大鉄椎伝は全文を暗誦することが出来る程であった。それで余程前から武芸がして見たいと云う願望を持っていたが、つい機会が無かったので、何にも手を出さずにいた。近年競漕をし始めてから、熱心になり、仲間に推されて選手になる程の進歩をしたのは、岡田のこの一面の意志が発展したのであった。

同じ虞初新誌の中に、今一つ岡田の好きな文章がある。それは小青伝であった。その伝に書いてある女、新しい詞で形容すれば、死の天使を閾の外に待たせて置いて、徐かに脂粉の粧を凝すとでも云うような、美しさを性命にしているあの女が、どんなにか岡田の同情を動かしたであろう。女と云うものは岡田のためには、只美しい物、愛すべき物であって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持していなくてはならぬように感ぜられた。それには平生香奩体の詩を読んだり、sentimentalな、fatalistiqueな明清の所謂才人の文章を読んだりして、知らず識らずの間にその影響を受けていた為めもあるだろう。

岡田は窓の女に会釈をするようになってから余程久しくなっても、その女の身の上を探って見ようともしなかった。無論家の様子や、女の身なりで、囲物だろうとは察した。しかし別段それを不快にも思わない。名も知らぬが、強いて知ろうともしない。 標札を見たら、名が分かるだろうと思ったこともあるが、窓に女のいる時は、女に遠 慮をする。そうでない時は近処の人や、往来の人の人目を憚る。とうとう庇の蔭になっている小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにいたのである。