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2. 弐

そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々たる土塀でってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、歯朶や杉菜が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅られることがなかった。

坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の好いのが、板塀を繞した、小さいしもた屋、その外は手職をする男なんぞの住いであった。店は荒物屋に烟草屋位しかなかった。中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事をしていた。時候が好くて、窓を明けているときは、 我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて 往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑ったりする。その隣に一軒格子戸を綺 麗に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石を塗り込んだ上へ、折々夕方に通ってみ ると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾が卸し てある。そして為立物師の家の賑やかな為めに、この家はいつも際立ってひっそりし ているように思われた。

この話の出来事のあった年の九月頃、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女がかの為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰って、戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停めて、振り返って岡田と顔を見合わせたのである。

紺縮の単物に、黒繻子と茶献上との腹合せの帯を締めて、繊い左の手に手拭やら石鹸箱やら糠袋やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠に入れたのを懈げに持って、右の手を格子に掛けたまま振り返った女の姿が、岡田には別に深い印象をも与えなかった。 しかし結い立ての銀杏返しの鬢が蝉の羽のように薄いのと、鼻の高い、細長い、稍寂 しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁たいような感じをさせるのとが目に 留まった。岡田は只それだけの刹那の知覚を閲歴したと云うに過ぎなかったので、無 縁坂を降りてしまう頃には、もう女の事は綺麗に忘れていた。

しかし二日ばかり立ってから、岡田は又無縁坂の方へ向いて出掛けて、例の格子戸の家の前近く来た時、先きの日の湯帰りの女の事が、突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方を一寸見た。堅に竹を打ち附けて、横に二段ばかり細く削った木を渡して、それを蔓で巻いた肘掛窓がある。その窓の障子が一尺ばかり明い ていて、卵の殻を伏せた万年青の鉢が見えている。こんな事を、幾分かの注意を払っ て見た為めに、歩調が少し緩くなって、家の真ん前に来掛かるまでに、数秒時間の余 裕を生じた。

そして丁度真ん前に来た時に、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色の闇に鎖されていた背景から、白い顔が浮き出した。しかもその顔が岡田を見て微笑んでいるのである。

それからは岡田が散歩に出て、この家の前を通る度に、女の顔を見ぬことは殆ど無い。岡田の空想の領分に折々この女が闖入して来て、次第に我物顔に立ち振舞うようになる。女は自分の通るのを待っているのだろうか、それともなんの意味もなく外を見ているので、偶然自分と顔を合せることになるのだろうかと云う疑問が起る。そこで湯帰りの女を見た日より前に溯って、あの家の窓から女が顔を出していたことがあったか、どうかと思って考えてみるが、無縁坂の片側町で一番騒がしい為立物師の家の隣は、いつも綺麗に掃除のしてある、寂しい家であったと云う記念の外には、何物も無い。どんな人が住んでいるだろうかと疑ったことは慥かにあるようだが、それさえなんとも解決が附かなかった。どうしてもあの窓はいつも障子が締まっていたり、簾が降りていたりして、その奥はひっそりしていたようである。そうして見ると、あの女は近頃外に気を附けて、窓を開けて自分の通るのを待っていることになったらしいと、岡田はとうとう判断した。

通る度に顔を見合せて、その間々にはこんな事を思っているうちに、岡田は次第に「窓の女」に親しくなって、二週間も立った頃であったか、或る夕方例の窓の前を通 る時、無意識に帽を脱いで礼をした。その時微白い女の顔がさっと赤く染まって、寂 しい微笑の顔が華やかな笑顔になった。それからは岡田は極まって窓の女に礼をして 通る。