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拾玖
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19. 拾玖

岡田はこんな話をした。

雲が慌ただしく飛んで、物狂おしい風が一吹二吹衝突的に起って、街の塵を捲き上げては又息む午過ぎに、半日読んだ支那小説に頭を痛めた岡田は、どこへ往くと云う当てもなしに、上条の家を出て、習慣に任せて無縁坂の方へ曲がった。頭はぼんやりしていた。一体支那小説はどれでもそうだが、中にも金瓶梅は平穏な叙事が十枚か二十枚かあると思うと、約束したように怪しからん事が書いてある。

「あんな本を読んだ跡だからねえ、僕はさぞ馬鹿げた顔をして歩いていただろうと思 うよ」と、岡田は云った。

暫くして右側が岩崎の屋敷の石垣になって、道が爪先下りになった頃、左側に人立ちのしているのに気が附いた。それが丁度いつも自分の殊更に見て通る家の前であったが、その事だけは岡田が話す時打ち明けずにしまった。集まっているのは女ばかりで、十人ばかりもいただろう。大半は小娘だから、小鳥の囀るように何やら言って噪いでいる。岡田は何事も弁えず、又それを知ろうと云う好奇心を起す暇もなく、今まで道の真ん中を歩いていた足を二三歩その方へ向けた。

大勢の女の目が只一つの物に集注しているので、岡田はその視線を辿ってこの騒ぎの元を見附けた。それはそこの家の格子窓の上に吊るしてある鳥籠である。女共の騒ぐのも無理は無い。岡田もその籠の中の様子を見て驚いた。鳥はばたばた羽ばたきをして、啼きながら狭い籠の中を飛び廻っている。何物が鳥に不安を与えているのかと思って好く見れば、大きい青大将が首を籠の中に入れているのである。頭を楔のよう に細い竹と竹との間に押し込んだものと見えて、籠は一寸見た所では破れてはいない。 蛇は自分の体の大さの入口を開けて首を入れたのである。岡田は好く見ようと思って 二三歩進んだ。小娘共の肩を並べている背後に立つようになったのである。小娘共は 言い合せたように岡田を救助者として迎える気になったらしく、道を開いて岡田を前 へ出した。岡田はこの時又新しい事実を発見した。それは鳥が一羽ではないと云う事 である。羽ばたきをして逃げ廻っている鳥の外に、同じ羽色の鳥が今一羽もう蛇に銜 えられている。片方の羽を全部口に含まれているに過ぎないのに、恐怖のためか死ん だようになって、一方の羽をぐたりと垂れて、体が綿のようになっている。

この時家の主人らしい稍年上の女が、慌ただしげに、しかも遠慮らしく岡田に物を言った。蛇をどうかしてくれるわけには行くまいかと云うのである。「お隣へお為事 のお稽古に来ていらっしゃる皆さんが、すぐに大勢でいらっしゃって下すったのです が、どうも女の手ではどうする事も出来ませんでございます」と女は言い足した。小 娘の中の一人が、「この方が鳥の騒ぐのを聞いて、障子を開けて見て、蛇を見附けな すった時、きゃっと声を立てなすったもんですから、わたし共はお為事を置いて、皆 出て来ましたが、本当にどうもいたすことが出来ませんの、お師匠さんはお留守です が、いらっしゃったってお婆あさんの方ですから駄目ですわ」と云った。師匠は日曜 日に休まずに一六に休むので、弟子が集まっていたのである。

この話をする時岡田は、「その主人の女と云うのがなかなか別品なのだよ」と云った。しかし前から顔を見知っていて、通る度に挨拶をする女だとは云わなかった。

岡田は返辞をするより先きに、籠の下へ近寄って蛇の様子を見た。籠は隣の裁縫の師匠の家の方に寄せて、窓に吊るしてあって、蛇はこの家と隣家との間から、庇の下をつたって籠にねらい寄って首を挿し込んだのである。蛇の体は縄を掛けたように、庇の腕木を横切っていて、尾はまだ隅の柱のさきに隠れている。随分長い蛇である。いずれ草木の茂った加賀屋敷のどこかに住んでいたのがこの頃の気圧の変調を感じてさまよい出て、途中でこの籠の鳥を見附けたものだろう。岡田もどうしようかとちょいと迷った。女達がどうもすることの出来なかったのは無理も無いのである。

「何か刃物はありませんか」と岡田は云った。主人の女が一人の小娘に、「あの台所 にある出刃を持ってお出で」と言い附けた。その娘は女中だったと見えて、稽古に隣 へ来ていると云う外の娘達と同じような湯帷子を着た上に紫のメリンスでくけた襷を 掛けていた。肴を切る庖丁で蛇を切られては困るとでも思ったか、娘は抗議をするよ うな目附きをして主人の顔を見た。「好いよ、お前の使うのは新しく買って遣るから」 と主人が云った。娘は合点が行ったと見えて、駆けて内へ這入って出刃庖刀を取って 来た。

岡田は待ち兼ねたようにそれを受け取って、穿いていた下駄を脱ぎ棄てて、肘掛窓へ片足を掛けた。体操は彼の長技である。左の手はもう庇の腕木を握っている。岡田は庖刀が新しくはあっても余り鋭利でないことを知っていたので、初から一撃に切ろうとはしない。庖刀で蛇の体を腕木に押し附けるようにして、ぐりぐりと刃を二三度前後に動かした。蛇の鱗の切れる時、硝子を砕くような手ごたえがした。この時蛇はもう羽を銜えていた鳥の頭を頬のうちに手繰り込んでいたが、体に重傷を負って、波の起伏のような運動をしながら、獲物を口から吐こうともせず、首を籠から抜こうともしなかった。岡田は手を弛めずに庖刀を五六度も前後に動かしたかと思う時、鋭くもない刃がとうとう蛇を俎上の肉の如くに両断した。絶えず体に波を打たせていた蛇の下半身が、先ずばたりと麦門冬の植えてある雨垂落の上に落ちた。続いて上半身が這っていた窓の鴨居の上をはずれて、首を籠に挿し込んだままぶらりと下がった。鳥 を半分銜えてふくらんだ頭が、弓なりに撓められて折れずにいた籠の竹に支えて抜け ずにいるので、上半身の重みが籠に加わって、籠は四十五度に傾いた。その中では生 き残った一羽の鳥が、不思議に精力を消耗し尽さずに、また羽ばたきをして飛び廻っ ているのである。

岡田は腕木に搦んでいた手を放して飛び降りた。女達はこの時まで一同息を屏めて見ていたが、二三人はここまで見て裁縫の師匠の家に這入った。「あの籠を卸して蛇の首を取らなくては」と云って、岡田は女主人の顔を見た。しかし蛇の半身がぶらりと下がって、切口から黒ずんだ血がぽたぽた窓板の上に垂れているので、主人も女中も内に這入って吊るしてある麻糸をはずす勇気がなかった。

その時「籠を卸して上げましょうか」と、とんきょうな声で云ったものがある。集まっている一同の目はその声の方に向いた。声の主は酒屋の小僧であった。岡田が蛇 退治をしている間、寂しい日曜日の午後に無縁坂を通るものはなかったが、この小僧 がひとり通り掛って、括縄で縛った徳利と通帳とをぶら下げたまま、蛇退治を見物し ていた。そのうち蛇の下半身が麦門冬の上に落ちたので小僧は徳利も帳面も棄てて置 いて、すぐに小石を拾って蛇の創口を叩いて、叩く度にまだ死に切らない下半身が波 を打つように動くのを眺めていたのである。「そんなら小僧さん済みませんが」と女 主人が頼んだ。小さい女中が格子戸から小僧を連れて内へ這入った。間もなく窓に現 れた小僧は万年青の鉢の置いてある窓板の上に登って、一しょう懸命背伸びをして籠 を吊るしてある麻糸を釘からはずした。そして女中が受け取ってくれぬので、小僧は 籠を持ったまま窓板から降りて、戸口に廻って外へ出た。

小僧は一しょに附いて来た女中に、「籠はわたしが持っているから、あの血を掃除しなくちゃ行けませんぜ、畳にも落ちましたからね」と、高慢らしく忠告した。「本当に早く血をふいておしまいよ」と、女主人が云った。女中は格子戸の中へ引き返した。

岡田は小僧の持って出た籠をのぞいて見た。一羽の鳥は止まり木に止まって、ぶるぶる顫えている。蛇に銜えられた鳥の体は半分以上口の中に這入っている。蛇は体を截られつつも、最期の瞬間まで鳥を呑もうとしていたのである。

小僧は岡田の顔を見て、「蛇を取りましょうか」と云った。「うん、取るのは好いが、首を籠の真ん中の所まで持ち上げて抜くようにしないと、まだ折れていない竹が折れるよ」と、岡田は笑いながら云った。小僧は旨く首を抜き出して、指尖で鳥の尻を引っ張って見て、「死んでも放しゃあがらない」と云った。

この時まで残っていた裁縫の弟子達は、もう見る物が無いと思ったか、揃って隣の家の格子戸の内に這入った。

「さあ僕もそろそろお暇をしましょう」と云って、岡田があたりを見廻した。

女主人はうっとりと何か物を考えているらしく見えていたが、この詞を聞いて、岡田の方を見た。そして何か言いそうにして躊躇して、目を脇へそらした。それと同時に女は岡田の手に少し血の附いているのを見附けた。「あら、あなたお手がよごれていますわ」と云って、女中を呼んで上り口へ手水盥を持って来させた。岡田はこの話をする時女の態度を細かには言わなかったが、「ほんの少しばかり小指の所に血の附いていたのを、よく女が見附けたと、僕は思ったよ」と云った。

岡田が手を洗っている最中に、それまで蛇の吭から鳥の死骸を引き出そうとしていた小僧が、「やあ大変」と叫んだ。

新しい手拭の畳んだのを持って、岡田の側に立っている女主人が、開けたままにしてある格子戸に片手を掛けて外を覗いて、「小僧さん、何」と云った。

小僧は手をひろげて鳥籠を押さえていながら、「も少しで蛇が首を入れた穴から、生きている分の鳥が逃げる所でした」と云った。

岡田は手を洗ってしまって、女のわたした手拭でふきつつ、「その手を放さずにいるのだぞ」と小僧に言った。そして何かしっかりした糸のような物があるなら貰いたい、鳥が籠の穴から出ないようにするのだと云った。

女はちょっと考えて、「あの元結ではいかがでございましょう」と云った。

「結構です」と岡田が云った。

女主人は女中に言い附けて、鏡台の抽斗から元結を出して来させた。岡田はそれを受け取って、鳥籠の竹の折れた跡に縦横に結び附けた。

「先ず僕の為事はこの位でおしまいでしょうね」と云って、岡田は戸口を出た。

女主人は「どうもまことに」と、さも詞に窮したように云って、跡から附いて出た。

岡田は小僧に声を掛けた。「小僧さん。御苦労序にその蛇を棄ててくれないか」

「ええ。坂下のどぶの深い処へ棄てましょう。どこかに縄は無いかなあ」こう云って小僧はあたりを見廻した。

「縄はあるから上げますよ。それにちょっと待っていて下さいな」女主人は女中に何 か言い附けている。

その隙に岡田は「さようなら」と云って、跡を見ずに坂を降りた。



ここまで話してしまった岡田は僕の顔を見て、「ねえ、君、美人の為めとは云いながら、僕は随分働いただろう」と云った。

「うん。女のために蛇を殺すと云うのは、神話めいていて面白いが、どうもその話は それぎりでは済みそうにないね」僕は正直に心に思う通りを言った。

「馬鹿を言い給え、未完の物なら、発表はしないよ」岡田がこう云ったのも、矯飾し て言ったわけではなかったらしい。しかし仮にそれぎりで済む物として、幾らか残惜 しく思う位の事はあったのだろう。

僕は岡田の話を聞いて、単に神話らしいと云ったが、実は今一つすぐに胸に浮んだ事のあるのを隠していた。それは金瓶梅を読みさして出た岡田が、金蓮に逢ったのではないかと思ったのである。

大学の小使上がりで今金貸しをしている末造の名は、学生中に知らぬものが無い。金を借らぬまでも、名だけは知っている。しかし無縁坂の女が末造の妾だと云うことは、知らぬ人もあった。岡田はその一人である。僕はその頃まだ女の種性を好くも知らなかったが、それを裁縫の師匠の隣に囲って置くのが末造だと云うことだけは知っていた。僕の智識には岡田に比べて一日の長があった。