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 二人の客の帰った あと は急にひっそりした。旭町の太鼓はいつか止んでいて、今まで聞えなかった海の鳴る音がする。

 竹が出て来て、酒や茶の道具を片附けている。主人の大野は、見るともなしにそれを見ていたが、ふいと竹を女として視ようとした。

 背の低い、髪の薄い、左右の目の大さの少し違っている女である。初め奉公に来た時は痩せて蒼い顔をしていて、しおらしいような処があった。それがこの家に来てから段々肥えて、 っぺたが膨らんで来た。女振はよほど下がったのである。

 宿元は小倉に近い処にあるが、兄が 博多 はかた で小料理屋をしている。 飯焚 めしたき なんぞをするより、酌でもしてくれれば、嫁入支度位は直ぐ出来るようにして遣ると、兄が勧めたので、暫く博多に行っていたが、そこへ来る客というのが、皆マドロスばかりで、ひどく乱暴なので、恐れて逃げて帰ったのだそうだ。裏表のない、主人のためを思って働く、珍らしい女中である。しかし女として視ることはむずかしい。これまで一度も女だと思ったことがなかったが、今女だと思おうとしても、それがほとんど不可能である。異性のものだという感じは 所詮 しょせん 起らなかった。

 道具を片附けてしまって起って行くのを、主人は見送って、覚えず微笑した。そして自分の 冷澹 れいたん なのを、やや いぶか るような心持になった。

 この心持が妙に反抗的に、白分のどこかに異性に対する感じが潜んでいはしないかと捜すような心持を呼び起した。

 大野の想像には、小倉で戦死者のために法会をした時の事が浮ぶ。本願寺の 御連枝 ごれんし が来られたので、式場の天幕の 周囲 まわり には、老若男女がぎしぎしと詰め掛けていた。大野が来賓席の 椅子 いす に掛けていると、段々見物人が押して来て、大野の ひざ の間の処へ、島田に った百姓の娘がしゃがんだ。お白いと髪の油との

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におい がする。途中まで聞いていた誰やらの演説が、ただ雑音のように耳に聞えて、この島田に掛けた 緋鹿子 ひがのこ を見る視官と、この髪や肌から発散する
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を嗅ぐ 嗅覚 きゅうかく とに、暫くの間自分の心が全く奪われていたのである。この一 刹那 せつな には大野も たし かに官能の奴隷であった。大野はその時の事を思い出して、また覚えず微笑した。

 大野は今年四十になる。一度持った妻に別れたのは、久しい前の事である。独身で小倉に来ているのを、東京にいるお 祖母 あさんがひどく案じて、手紙をよこす度に よめ の詮議をしている。 今宵 こよい もそのお祖母あさんの手紙の来たのを、客があったので、封を切らずに机の上に載せて置いた。

 大野は くら くなったランプの心を じ上げて、その手紙の封を開いた。行儀の いお家流の細字を見れば、あの 角縁 つのぶち の目金を掛けたお祖母あさんの顔を見るようである。

 歳暮もおひおひ近く 相成 あいなり そうら へば、御上京なされ候日の、指折る程に相成候を楽み居り候。前便に申上候井上の嬢さんに引き合せくれんと、谷田の奥さんが申され候ゆゑ、今日上野へまゐり、 只今 ただいま 帰りてこの手紙をしたため候。私と谷田の奥さんとにて先に参りをり候処へ、富子さん母上と御一しよに来られ、車を降りて立ち居られ候高島田の姿を、初て見候時には、実に驚き申候。世の中にはこの様なる美しき人もあるものかと、不思議に思はれ候程に候。この人を見せたらば、いかに女嫌の御前様もいやとは申さるまじと存じ候。性質は一度逢ひしのみにて何とも申されず候へども、 怜悧 れいり なることは たし かに候。ただ一つ不思議に思はれしは、茶店に いこ ひて一時間ばかりもゐたるに、富子さんは一度も笑はざりし事に候。丁度西洋人の一組同じ茶店にゐて、言語通ぜざるため、色々をかしき事などありて、谷田の奥さん例の達者なる英語にて通弁をして つかわ され、富子さんの母上も私も笑ひ候に、富子さんは少しも笑はずにをられ候。 もつとも 前便に申上候 とおり 、不幸なる境遇に居られし人なれば、同じ年頃の娘とは違ふ所もあるべき道理かと存じ候。何は もあれ、御前様の一日も早く御上京なされ候て、私の眼鏡の たが はざることを御認なされ候を、ひたすら待入候。かしこ。

尚々 なおなお 精次郎夫婦よりも よろ しく 可申上様 もうしあぐべきよう 申出候。先日石崎に申附候 亀甲万 きつこうまん たる もはや相届き候事と存じ候。

 読んでしまった大野は、竹が机の そば へ出して置いた 雪洞 ぼんぼり に火を附けて、それを持って、ランプを吹き消して起った。これから 独寝 ひとりね の冷たい床に 這入 はい ってどんな夢を見ることやら。

(明治四十三年一月)