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 富田は目を据えて主人を見た。

「またお講釈だ。ちょいと話をしている間にでも、おや、また教えられたなと思う。あれが苦痛だね。」 一寸 ちょっと 顔を しか めて話し続けた。

「なるほど酒は 御馳走 ごちそう になる。しかしお さかな が饂飩と来ては閉口する。お負にお講釈まで聞せられては溜まらない。」

 主人はにやにや笑っている。「一体仏法なぞを攻撃しはじめたのは たれ だろう。」

「いや。説法さえ して貰われれば、僕も 謗法 ぼうほう はしない。だがね、君、独身生活を攻撃することは廃さないよ。 箕村 みのむら の処なんぞへ行くと、お肴が違う。お梅さんが床の間の前に据わって、富田に馳走をせいと 儼然 げんぜん として御託宣があるのだ。そうすると山海の美味が前に並ぶのだ。」

「分からないね。箕村というのは誰だい。それにお梅さんという人はどうしてそんなに 息張 いば っているのだい。」

「そりゃ息張っていますとも。床の間の前へ行って据わると、それ、御託宣だと云うので、箕村は遥か下がって平伏するのだ。」

「箕村というのは誰だい。」

「箕村ですか。あの長浜へ出る処に小児科病院を開いている男です。前の細君が病気で亡くなって忌中でいると、ある日大きな たい を持って来て置いて行ったものがあったそうだ。箕村がひどく驚いて、近所を聞き廻ったり何かして騒ぐと、その時はまだ女中でいたお梅さんが平気で、これはお 稲荷 いなり さま の下さった鯛だと云って、直ぐに料理をして、 否唯 いやおう なしに箕村に食わせたそうだ。それが不思議の始で、おりおり稲荷の託宣がある。梅と婚礼をせいと云う託宣なんぞも、やっぱりお梅さんが言い渡して置いて、箕村が婚礼の支度をすると、お梅さんは驚いた顔をして、お よめ さんはどちらからお いで なさいますと云ったそうだ。僕は神慮に かな っていると見えて、富田に馳走をせいと云う託宣があるのだ。」

「怪しい女だね」と戸川が くちばし れた。

「なに。御馳走になるから云うのではないが、なかなか い細君だよ。入院している子供は皆 なつ いている。好く世話をして るそうだ。ただおりおり御託宣があるのだ。」

 寧国寺さんは、主人と顔を見合せて、不断の微笑を浮べて聞いていたが、「お休なさい」と云って、ついと起った。見送りに立つ いとま もない。

 この坊さんはいつでも 飄然 ひょうぜん として来て飄然として去るのである。

 風の音がひゅうと云う。竹が 薬缶 やかん を持って、 急須 きゅうす に湯を差しに来て、「上はすっかり晴れました」と云った。

「もうお互に帰ろうじゃないか」と戸川が云った。

 富田は幅の広い顔に幅の広い笑を見せた。「ところが、まだなかなか帰られないよ。独身生活を berufsmaessig ベルウフスメエシヒ に遣っている先生の退却した あと で、最後の突撃を加えなけりゃあならないからな。箕村だってそうだ。僕は 何故 なにゆえ にお稲荷さんが、特に女中をしていたお梅さんを 抜擢 ばってき したかということまで、神慮に立ち入って究めることは あえ てしない。しかし兎に角第二の細君が直ぐに出来たのは、箕村のために幸福であった。箕村は一日も不自由をしない。箕村のお客たる僕なんぞも不自由をしない。主人が幸福なら、客も幸福だ。」

 主人の 無頓着 むとんじゃく らしい顔には、富田がいくら くだ を巻いてもやはり微笑の影が消えない。

 戸川は主人に 目食 めく わせをした。「いや。大変遅くなった。もうお いとま をします。」

 そして起ちそうにして起たずに、 しき りに富田を促すのである。「さあ。君も行こうじゃないか。もう分かっているよ。分かっているよ。」

 戸川はとうとう引き るようにして富田を連れ出した。

 富田は少しよろけながら玄関へ出て、大声にどなっている。「おい。お竹さん。もう一本熱いのを貰うはずだが、こん度の晩まで預けて置くよ。」

 主人は送りに出て、戸川に ささや いた。「車を呼びに遣ろうか。」

「なに。どうせ同じ道ですから、僕が門まで一しょに行きます。さようなら。」