University of Virginia Library

五 車引

 うすら寒い、梅の季節が過ぎて、三月になつた。

 野邊の草や木は、春の陽氣をむかへて萌え出し、櫻も菜も、一時に花をつけはじめた。が、梅王や櫻丸の胸は、少しも浮きたたなかつた。鳥の雛が巣をはなれ、魚が陸へあがつたやうに、譬へやうもなく、心細く情けない心持は、主家沒落に逢つて浪人となつた二人を暗くしたのであつた。

 今日も、梅王は、人目を避けるために、深編笠をかぶつて、京の郊外を、それとなく樣子をさぐりに、ぶらぶらと歩いてゐた。

 ――御主人の菅丞相さまが、筑紫へお立ちになつてから、半月の餘も、梅王は夜の目もねずに、お屋敷の跡仕末で忙しかつた。若君の菅秀才は、源藏に預けたから安心であるが、御臺さまのお行方は、とんと分からなかつた。そのお行方は、何を差しおいても搜し出して、お護りをしなければならぬ。しかし、自分としては、筑紫へ下つて、御主人の御用を足したくもある。だが、この三月は、佐太村にゐる親の四郎九郎が、七十の賀の祝をするから、同胞三人、嫁とも、三夫婦揃つて來てくれと、この春から樂しみにしてゐるのだから、何にしても、賀の祝を濟ましてからのことだ。――ああ、世の中のことは分からぬものだ。たつた一と月のうちに、御主人菅丞相さまの御一家は、沒落してちりぢりばらばら、自分は自分でどうすればいいか、ちつとも見當がつかなくなつてしまつた――。

 そんなことを、取りとめもなく考へながら、いつか吉田神社のあたりまで來た。お神樂の太鼓が、春風に乘つて流れて來る。

 ふと見ると、向ふからも、同じ深編笠の浪人が一人、元氣なく歩いて來る。摺れ違ひざま、編笠越しに、顏を見合せた。

 『梅王か。』

 『櫻王か。』

 『話すことあり。』

 『聞くことあり。』

 久方ぶりに逢つたなつかしさに、二人は、堅く手を取り合つた。

 櫻丸の此の日ごろも、切なさ辛さで一ぱいであつた。

 ぜんたい、こんどの大騷動の直接原因は、櫻丸にその罪の大半はあつた。櫻丸が、自分の御主人と苅屋姫との結婚話しについて、失策をしなければ、時平の一味につけこまれはしなかつたのである。それを思へば、自分は大恩のある菅原家を沒落せしめた第一の責任者であると、痛感してゐたのである。櫻丸は、その苦しい胸中を、梅王に聞いて貰ひたかつたのである。

 『――思へば、胸も張り裂く如く、けふや切腹、あすは命を捨てようかと、思ひつめはつめたれど、ことし七十の賀に吾れ一人缺けるなら、不孝の上に不孝の罪、せめて御祝儀をすませた上と、せんなき命を今日までも、ながらへる面目なさ、推量あれや梅王丸――。』

 『おお、道理々々、吾れとても主人流罪に逢ひたまふ上は、京にとどまる筈なけれど、今もそちが言ふごとく、年寄つた親人の七十の賀の祝ひも此の月、これも心にかかるゆゑ、思はず延引、是非もなき世の有樣ぢやなア。』

 二人は、ぢつとなつて顏を見合せた。櫻丸は、先非を悔んで泣き、梅王も共に涙に暮れて、しばし言葉もなかつた。

 神社のはうから、チヤリーン、チヤリンと、鐵棒を曳きずる音がして、

 『ハイホウ――、片寄れ、片寄れ――。』

 先き觸れの雜色(雜役夫)が、高く呼ばはつて來た。

 相當な、身分ある方の、お通りに相違ないと思はれたので、梅王は雜色に近寄つてたづねた。

 『ああもし、どなたのお通りでござります。』

 『やあ、何を言ふ、かしこくも左大臣藤原時平公、吉田へ御參籠、出しやばつて鐵棒くらふな。』

 つツけんどんに言ひ放つた。吉田神社は藤原家の氏神であつた。時平公のお通りと聞いては、血の氣の多い梅王には、何としても、聞き過しにはできなかつた。

 『何と、聞いたか櫻丸、齊世の君さま菅丞相、憂き目に逢はした時平の大臣、存分言はうぢやあるまいか。』

 『なるほどなるほど、よい所へ出ツくはした。梅王、ぬかるな。』

 二人は、ぱツと編笠を脱ぎすて、木蔭へ忍んで身構へした。

 やがて、神社のはうから、時平公の行列があらはれた。牛の曳く、美々しい御所車をきしらせ、廣い路も狹しと、大勢の家來が前後を警護しつつ近づいた。

 『車、やらぬ。』

 梅王と櫻丸とは、大手をひろげて、行く手に立ち塞がつた。

 行列は、はたと止まつた。

 狼藉と見て、同じく牛飼舍人の杉王が、つツと立ちあらはれた。

 『やあ、何者かと思へば、松王が兄弟の梅王丸と櫻丸。ああ分かつた、主に放れ扶持に放れ、氣が違つての狼藉か。但しはまた、時平公の車と、知つてとめたか知らいでとめたか。返答次第で容赦はせぬぞ。』

 白張の袖をまくり上げ、掴みかからんばかりに罵つた。梅王はせせら笑つた。

 『ええ、言ふな言ふな。氣も違はねば此の車、見違へもせぬ時平の大臣。』

 『齋世の君菅丞相には、讒言によつて御沈落、その無念骨髓に徹し忘られず、出逢ふところが、百年目と、思ひまうけし今日只今、櫻丸と――。』

 『この梅王、牛に手馴れし牛追ひ竹、位自慢で喰ひふとつた、時平公の尻こぶら、二つ三つ、五六百喰はさねば、堪忍ならぬ。』

 『出しやばつて、怪我まくるな。』

 『やあ、法に過ぎた慮外者、それ、ひつくくれ。』

 杉王の言葉について、前後左右から、侍や仕丁がおつとり卷いたが、二人は事ともせず、取つては投げ取つては投げ、掴んでは投げ、踏みつけ踏みつけ投げつけて、近寄せようともしなかつた。

 一と足おくれて來た松王丸が、長柄の傘を肩にして、駈けつけた。

 『やあ、命知らずのあばれ者、いづれもにはお構ひあるな。御主人のお目通り、御奉公は今この時、兄弟一つでないといふ忠義の働らき、お目にかけう。』松王は二人を尻目にかけて強く言つた。

 『こりややい、松王が引きかけた此の車、とめらるるものならば、とめて見ろええ。』

 松王は牛の鼻づらを取つて、車を引きだした。が、梅王と櫻丸とは、車の轅に手をかけて、一寸でも五分でも動かすものかと、えいえいと押し戻す。松王は、車の後ろへまはつて押し出さうとする。いづれ劣らぬ主思ひの三つ子の舍人が、互ひに力の限り、命かぎりに、御所車を押し進め、押し戻し、引き合つた。

 血の氣の多い梅王は、掴みたてといふざんばらの前髮に、左右五本づつの車鬢で、見るからに勇ましく、眞岡木綿の厚綿に紫色の童子格子の上着をぱつと脱いで、朱の縮緬に梅の花と霞とを、金絲で刺繍をした襦袢をひらめかせ、三本差した太刀は、見るからに剛氣であつた。櫻丸は、上着は同じ童子格子ながら、襦袢には櫻の花と霞とを刺繍にして、優にやさしく。松王も同じく三本太刀ながら、襦袢は白絖に金絲で松と蔦の模樣を、縁縫ひにしてあつた。三人ともに萌黄色にばれんつきの化粧廻し(下り)をちらちらとひらめかせ、勇猛果敢に、荒々しく、彼方此方と躍りかはし、詰め寄り、立ちはなれる。

 櫻花の下、周圍には、白張姿に納豆烏帽子をいただいた仕丁どもが、大勢取り卷いてゐる。そこへ吉田神社の莊重な宮神樂の音が、自然の音樂美を添へて、絢爛な繪卷物が展開されたのであつた。

 この時、御所車の御簾を、めりめりと踏み破つて、藤原時平が車の上に、すつくと立ち上つて、二人をぐつと睨みつけた。

 心よからぬ時平とはいひながら、蒼白い面に金冠白衣、笏を手にした、今を時めく左大臣の威光には打たれないわけにはいかなかつた。梅王も櫻丸も、思はずパツと飛びしさつて、たぢろがざるを得なかつた。

 『やあ、牛扶持食ふ青蠅めら――。』

 時平は底力の籠つた、鋭い聲を二人にあびせた。『――轅にとまつて邪魔ひろがば、轍にかけて轢き殺せえ――。』

 『何を。さ言ふ大臣を――。』

 『轢き殺さん。』

 二人は齒噛みをして、憤つた。さうして、更に金剛力を出して、車を引くり返さうとし、松王丸はこれを押へようと爭ふうち、梅王と櫻丸の二人は、車の轅を引きぬいて、一本づつ振りかざし、時平に打つてかかつた。

 『やあ時平に向ひ、推參なり。』

 兩眼をかツと見開いて、ぐつと睨んだ眼の光りには、さすがの勇士も眼がくらんで、五體もすくみ、たぢたぢとなつて、手に持つ轅さへ落してしまつた。

 『なんと、我が君の御威勢見たか。この上に手向ひすると、お目通りで一と打ちだぞ。』

 松王は、主の威光をかさに着て、大刀の柄に手をかけて、きつと言つた。

 『やれ待て、松王。』時平はとめた。『太政大臣たる時平の眼前にて、血をあやすは社參の穢れ、助けにくい奴なれども、下郎に似合はぬ松王が働らき、忠義に免じて助けてくれる。命冥加な蛆蟲めら。』

 さう言ひ放つたまま、時平は行列を立てなほさせて、しづしづと歩んで行つた。

 『これ――』松王は振り返りざま、毒づいた。『よい兄弟を持つて、二人とも仕合せ者だ。命拾ひをして忝いと、三拜しろ。』

 『何だと――。』梅王は、むかむかとしたが、櫻丸はこれを制した。

 『松王よ、おのれにも言ひ分はあるが、親父さまの七十の賀、祝儀の濟むまでは、預けておかう。なう梅王。』

 『おお、その上では、松の枝々へしをつて、敵の根を斷ち、葉を枯らすわえ。』

 『何をほざくか。そりやこの松王とて同じこと、親父の賀を祝うた後では、梅も櫻も落花微塵、足元の明るいうち、早く歸れ。』

 『やあ、いらぬことを。』

 『なにを。』

 三人は、ののしり合ひつつ、遺趣をのこしたまま、恨みを後日にのこして、立ちわかれたのだつた。