University of Virginia Library

  祖父 じっ ちゃん。 祖母 ばっ ちゃん。アヤ子。勇。それにミツ子。これだけの人々が、間もなく上野のステーションから様々な色と形の風呂敷づつみと一緒に無言のまま小祝の二間のトタン屋根の下へ運びこまれ、床の間の上へまで煤くさい、どれをあけても 襤褸 ぼろ に似たもののつまった包みを積みかさねて生活しはじめた。

 勉夫婦の暮しぶりは変った。

 朝、五時、まだ暗いうちに貞之助が先ず床の上へ起き直り、ところ狭く眠っている一家の顔の上にパッと電燈をつけた。そして、煙草をふかし始めた。パン、パン。 煙管 きせる をはたいた。煙草盆は、祖母ちゃんがちゃんと出して置いてやるのである。

 物音で、昨夜二時頃床に入った勉が苦しそうに寝返りをうち、夜具をかぶった。

 やがて、ミツ子がじぶくり出す。はじめ夢中で背中をたたいていてやった乙女がすっかり目をさまし、勉が起きるのを心配しながら小声でいろいろすかそうとすると、猪首のミツ子は、わざとそれを撥き返すように体を反らせ、

「いやーァん、ばァちゃーん! いやーァん」

 半年の間の習慣で、ばァちゃんを呼びたて泣き立てた。

 すると、祖母ちゃんが、寝床の中から前掛を締めながら立って、

「さアさ、ミツ子、泣くでねえよ、な、まんまやっから泣くでね、な?」

 飯をもって乙女の床のところへ来てミツ子にあてがうのであった。

 勇が続いて起き、アヤが起き出し、勉も眠っておれず薄い蒲団をあげた。

 勉が寝不足で蒼く乾いた顔を洗う間、 祖父 じっ ちゃんは草箒で格子の前あたりをちっと掃き、掃除のすんだ部屋へ上って坐った。アヤがチャブ台を出す。勇は、祖父ちゃんの拡げた新聞の間から落ちた色刷りの広告を、畳へおいて見ている。

 道具のない台所で飯の仕度をしている乙女が、

「―― 祖母 ばっ ちゃん、ちいと吸って見な」

 この頃は眉がつり上ったきりになったような表情で、そこに かが んでいるまきに小皿をさし出した。まきは、音たかくその味噌汁を吸った。

「よかろ……」

 乙女と 祖母 ばっ ちゃんとは、味噌汁を薄めてそこへうんと塩を入れたものを皆にのませはじめたのである。

 小さいチャブ台にぐるりと膝をつめかけ、ミツ子までものも云わず、非常にはやく、一家は朝飯をくう。

 それから出かけるまで時間があっても、勉は殆ど誰とも口をきかなかった。縁ばたに近い方へ腹這いになって本を読んだ。思い出したように 祖父 じっ ちゃんに向って、

「――おやきの鉄板どうしたかね?」

などと訊くことがあった。

「売って来た」

 ぽっきり、貞之助が答える。二人の間で話はそれ以上のびないのであった。

 勉が、すり切れた紺外套を着て出かける。貞之助は、そういうときでも決して気軽に立って来て見ようなどとしなかった。手織木綿の羽織の肩を張って坐っているのであった。

 夜になって勉が帰って来る。電燈がついているだけの違いで祖父ちゃんは一日たったのにやっぱり朝いたところで、新聞と煙草盆とを前におき、坐っていることが多かった。勉の留守には乙女が、祖母ちゃんが才覚してもって来た粉でそばがきぐらいをこしらえ皆を食べさせた。

 三畳の方にある寝床に入ってから、勉が小声で、

「祖父ちゃん、一日何しているか?」

と乙女に訊いた。

「――坐ってたよ」

 そして、おっかないことでも云うように乙女は一段と声をひそめた。

祖父 じっ ちゃん、ぼけてしまったんであるまいか――」

 勉は返事しなかった。そうやって頑固に坐って、祖父ちゃんは自分の暮しぶりを観察している。そのことを勉は感じた。本当に自分が働き出さねばならないか、さほどでないのか、見ているような貞之助の黙りこくった気分が、勉に苦々しく映っているのであった。

 毎日、五時頃になるとダラダラ坂の下の通りにあるラジオ屋の前へ出かけてゆき、職業紹介の放送をきいたり、少年らしい赤い頬に青いシェードの灯かげをうけながら、長いこと飾窓に眺め入っていた勇が、一ヵ月ほどして、京橋の方にある会社の給仕に雇われるようになった。二ヵ月払い五円二十銭の古自転車を勉が見つけて来てやった。勇は嬉しそうにそのペタルを踏んで通い、夜帰って来ると、

「今度の会社、でかいよ。僕らぐらいの給仕が五人もいるよ」

 A市の銀行の小ささがわかったという風に口をとがらして云った。

「だけんど――皆がおらこと」

といつか国言葉に戻り、

「チビの癖して、しわん坊だからやだなア」

 その会社では給仕仲間で、互に奢りっこが 流行 はや っていた。勇は奢られて食べるが、奢りかえせないのでそう云われるのだった。祖母ちゃんがつかみ針でミツ子の附紐をつけ直しながら、

「――そんだら、勇、くわねばいいのに――」

と心配げに云った。勉が珍しく早めにかえって机に向い仕事をしていた。

「そんなこと気にすることはいらんよ」

 大きい口元を動かし、やさしく、励ますように云った。

「勇は、家をすけてるんだから、無駄銭つかえないからって、威張っていいんだゾ」

 兄貴に似て、色白く、ずんぐりだが口元は小ぢんまりしている勇は、抗弁もしないが、賛成もせず、長まって月おくれの「子供の科学」をめくりはじめた。こんな場合乙女は祖父ちゃんにも一言何とか云って貰いたかった。然し、祖父ちゃんは、黙って坐り、煙草をふかしているのであった。

 ところが、この祖父ちゃんも遂に他人にまざってものを喋り、馴れぬ東京の街を歩きまわらねばならないことが起って来た。A市にいた時分からよく寝ることのあったアヤが大分手のこんだ結核性の腹膜炎で病院に入れなければならなくなったのである。

 勉はその頃仕事のいそがしさと身辺の事情から家に毎晩かえるということが出来なかった。乙女が、祖父ちゃんの下駄をそろえて三河島の伯父のところへやった。年はおつかつだが貞之助の伯父に当る勘吉は十何年来町役場の書記を勤め、東京にあるたった一軒の親戚であった。勇の月給十七円の中から返す約束で当座医者へ払う金をかり、役場の手づるでアヤを方面委員の手で療治させよう。やっとその智慧を搾り当てたのであった。

 勘吉の三度目の女房のお石が、二三日すると、貞之助に印をおさせるために借金証書をもって、やって来た。

 お石は、障子のやぶれた上り口を入るなり、

「田舎もんは仕様がないもんだねえ。家の片づけようもろくそっぽ知りゃしないんだねえ」

 大仰に、色足袋を爪立てて、さもきたなそうに袂をかき合わせ、ただ一枚の座布団に坐り、ジロジロ臥ている病人のアヤやそのあたりを見廻した。そして、 叮嚀 ていねい たすき をとって半白の頭を下げる祖母ちゃんに向い、

「御方便なもんですよ、ね、ふだんは出入りもしないどいて、金のいるときだけ役に立つのも、親戚だからさ。へえ、これに一つ、印して下さい」

 乙女は、眉をつり上げるばかりか、痩せた両肩までをつり上げたような恰好で、ミツ子をおんぶい、お石の出す銭を握り、十銭の焼酎とあげもの五銭を買いに出た。勉は、この酌婦あがりで、近所でも評判の伯母夫婦とは何年も行き来せずに暮して来たのである。

 乙女が、一合ぐらい入りそうな空ビンをおんぶした手にもって出ようとすると、お石が、

「ちょいと、このとったら! それで買いにいくつもりかい?」

 たとえ買うのは一合でも四合入るうつわをもって行かなければ、一合より少くしか売ってよこさない。お石の世渡りは万事この調子なのであった。

 ミツ子が、目を皿のようにしてチャブ台の前に釘づけになり、揚げものにさわるぐらい近くへ手をのばして指さし、

「あれ、くいて! かあちゃん、あれ、くいて

とせびった。お石は、女の子がイーをするときのように下唇を突出し、

「これ、くいて! か?」

と口真似をしながら、 にく しみの現れた眼でミツ子を眺め自分ひとり焼酎をのんでは、揚げものを突ついた。

 信心がないから、貧乏するし、病人が出る。赤い息子なんぞ出来るのだ。そういうことを肴に、十銭分の焼酎をのみきると、おくびをしながら、帯の間のガマ口から、また十銭玉一つ出して買い足さした。亭主がつとめからひける刻限までお石は二三遍、十銭の焼酎を買いにやるのであった。

 お石がやっとのことで帰った後、貞之助はもう一度勉の机の引出しから三十円の借金証文をとり出して来た。打ちかえしそれを眺め、再び仕舞いに立ちながら、

「――貧乏はついてまわるなあ」

 それは祖父ちゃんが東京へ出てから初めて乙女の聞く沁々した調子であった。

「金があれば、あんげだし……」

「だから、 にっ ちゃんがいつも云うとおりだろ?」

 乙女は、お石のような女を出入りさせるくちおしさと、祖父ちゃんの心持が変って来たらしい期待とで、口の中が乾いたような声で云った。

「世の中が別なようになれば、アヤだって安心して養生しれるんだよ」

 ソヴェト同盟では、区にそれぞれ無料の病院があって療治をしてくれることなどを、乙女は祖父ちゃんにこまごまと、唇をなめなめ話してきかせた。「ソヴェトの友」のグラフなど、A市に一家がいた時分から勉が送ってやっていた。貞之助はこれ迄どう思ってそれを見ていたかしらないが、その日は乙女の云うことを凝っと聞いた。夜、祖母ちゃんに、

「おやきの道具、あんげなものでも売らねばよかったナ」

 そう云っている祖父ちゃんの声がきこえた。