University of Virginia Library

 二月の夜、部屋に火の気というものがない。

 乙女は肩当てが穢れた染絣の 掻巻 かいまき をはおり、灰のかたまった茶色の丸い瀬戸火鉢の上へヘラ台の畳んだのを渡したところへ腰かけ、テーブルへ顔を伏せて っとしている。

 厳しい寒気は、星の燦く黒い郊外の空から、往来や畑の土を凍らし、トタン屋根をとおし、夜と一緒に髪の根にまでしみて来る。

 テーブルの前に低く下った電燈のあたたかみが微に顔に感じられた。電燈はすぐ近くに乙女の艶のない髪を照し、少しはなれて壁際に積まれたビールの空箱の中の沢山の仮綴の書籍を照し出している。テーブルのニスが滑らかに光った。その光沢はいかにも寒げで、とても手を出す気がしない。――

 暫くして、乙女が懐手をしたまま、顔だけ掻巻の袖の上から擡げ、

「――湯たんぽ、まだ冷えないかい?」

 ゆっくりした、一言一言に力をこめたような口調で夫の勉に訊いた。

 同じテーブルに向って正面のところには、家じゅうただ一脚の籐椅子にかけて、勉が、やっぱり掻巻をドテラがわりにシャツの上から着て頬杖をついている。勉は、北国生れの色白な顔に際立って大きい口元を動かし、口重げに、

「いや。……やろうか?」

と云った。

「いいえ、いい」

 二人ながら小柄な体へ掻巻をかぶった夫婦はまた黙りこみかけたが、今度は乙女が、

「―― 祖父 じっ ちゃん、本当にミツ子こと小包にして送ってよこすかしんないね」

 長い眉毛をつり上げたような表情で云い、不安そうに荒れている自分の唇をなめた。

「ふむ……」

祖父 じっ ちゃん……――何すっかしんないよ」

「…………」

 テーブルの上に、塵紙のような紙に灰墨で乱暴に書いた貞之助の手紙があった。年よりならきッと書きそうな冒頭の文句も何もなしで、いきなり、度々手紙をやったがいつ金を送ってよこすつもりかと書き出し、東京で貴様はどんな偉い運動をやっているか知らんが、こっちでは一家五人が飢え死にしかけている。総領息子の貴様はどうしてくれる。金をよこさないのなら、手足まといのミツ子を小包にしてでも送りかえす。そのつもりでいれ! かすれたり、そうかと思うとにじんだり、貞之助の頑固に毛ばだった眉毛を思い出させる不揃いの文字で罵倒しているのであった。小祝勉殿と書いてある封筒の下のところに、ひどい種油の汚点がついて、それがなかみまで透っている。

 故郷のA市で、貞之助はここ数年間、毎朝納豆の呼び売りをしていた。おふくろのまきは夜になると親父をはげまして自分から今川焼の屋台を特別風当りのきつい、しかし人通りの繁い川岸通りまで引き出して一時頃まで稼ぎ、小学を出た弟の勇は銀行の給仕に通った。それで、妹のアヤを合わせて一家が暮しているのであった。

 勉夫婦が、三つのミツ子をそんな暮しの中へあずけたのには、わけがあった。

 前年の春、勉は仕事をしているプロレタリア文化団体の関係でやられ、びんたをくわされたのが原因で、悪性の中耳炎になった。勉は脳膜炎をおこすほどになったとき警察から、施療の済生会病院へ入れられた。そこでは軍医の卵が、一々そこを切れ、あすこをつめろと教えられながら勉の耳を手術した。その後の手当も専門医が診てびっくりしたほど粗末な扱いで、夏に入って、極めて悪性の乳嘴突起炎を起した。友達のつてで別の病院に入院したが危篤の状態が一ヵ月以上も続いた。コサック帽のように頭に巻きつけた繃帯の上まで血をにじませて寝ている勉が果して恢復するかどうかということは、耳鼻科主任の、練達な手術を施した医者にさえ明言出来なかったのである。勉を生かそうとする努力の裡で乙女は友達の着物をかりて質に入れるようなひどい苦面をし、やっと夜汽車にのってミツ子を 祖父 じい さん 祖母 ばあ さんのところへ謂わば押しつけに置いて来たのであった。

 二円、三円と金を送れたのは、初めの二三ヵ月のことであった。秋が深まってから、乙女は手編の毛糸マントをミツ子に送ってやった。養育費を送るという年より達との初めの約束は実現されなくなった。勉の命はとりとめた。けれども、その春以来、彼がその団体で献身的に働いていた出版部の活動が非常な困難に陥った。人手がなく、そして、金もなかった。朝、勉が丹精して集めた古い「マルクス主義」の合本を抱え、外套の襟を立てて耳の傷をかばい表から出かけると、乙女がその後を締めて水口から自分もついて出、顔なじみの古本屋の店頭で勉から十銭玉いくつか貰って引かえす。そういうことが一度ならずあった。

 先ず、金を送って貰いたい。次いで、ミツ子がどんなにまきの手をふさぎ、そのために「おやき」の商売も減って来たかということを、勇の筆跡で 細々 こまごま くどいてよこした。勉夫婦は、自分達が金を送れないことについて深く気の毒に思った。だが、今川焼の売り上げがだんだん減るということを、一概にミツ子の厄介の故とばかりきめて小言を云って来ている親父の考えの狭さに勉はいやな感情をもった。十七になる次男坊の勇が、親父の云うまま、一行も自分の文句を加えずそのくどくどした手紙を書いてよこした気持をも、勉は少年時代から家を見た自身の経験から見落していなかった。A市は東北飢饉地方にまきこまれていた。戦争になってからこの地方一帯の農家の困りかたは甚しかった。暮に、若者を兵隊に出した家のおっかあ連がかたまって戦地からかえせと押しかけたような事件もあった。川風が凍みるからと云って、焼き立ての「おやき」の熱いところを懐へ入れ、それを喰い喰い夜遊びから帰る若者が減るのは当然のことであった。そんな小銭がつかえる者は「おやき」をやめて、ワンタン屋の屋台に入った。

 勉は、真面目にそういう世の中の有様を説明し、自分たちの生活の窮迫の原因をも、そういうものとして貞之助の納得のゆくように書き、わきに、この手紙は勇にも必ず読ますようにと書き添えたのであった。

 程経って来た貞之助の手紙は、そういう勉の努力が全く無駄であることを示した。貞之助は鈍重な ずる さを働かせ、暮しの行詰りの全責任をこの機会に長男である勉の肩にうつしてしまおうと、孫のミツ子をかせにつかいはじめたのであった。その時、勉は体にあわせてひどく大きい口元をパフパフというように動かし、乙女を鋭い視線で見て、

「俺は十八まで散髪に行ったこともなければ、猿又を買ってはいたことだってなかったんだ!」

と云った。好きな本を買う銭をとるために、勉は郵便局がひけてから、夜、繩工場へ通ったのであった。同じ繩工場へおふくろのまきも通った。そして、勉の髪を刈るバリカンと猿又を縫う布とを買い、末娘のひ弱いアヤの薬代を払った。

 勉は、そのおやじの手紙は焼いてしまった。何かで家をかきまわされたとき、そんな手紙が出、それを口実に運動をやめろなどと云われたら しゃく である。彼はそう思ったのであった。

 乙女は勉の憤る心持を同感したが、大きく二重瞼の眼を見開いて中耳炎以来変に髪が薄くなった夫の顔をながめ、

「―― 祖父 じっ ちゃん、ミツ子をいびってないだろうかね」

と静かに云った。乙女の声には、二重の心づかいが響いた。自分がミツ子一人ぐらいを育てかね、たださえ苦労の多い勉に家庭的な心労までかける。それを、ひけ目に感じるのであった。

 今年、田舎の 二十日 はつか 正月がすんだ頃、アヤが、下手な、それでいて かく のはっきりした字で、祖母ちゃんはこの頃死にたがってばかりいます、死ぬかと思って私は心配ですという手紙をよこした。重たい孫をおんぶって、強情な祖父ちゃんとの間にはさまり、苦心に疲れている半白の小ぢんまりした母親のおとなしく賢い顔つきが勉の目に 髣髴 ほうふつ とした。母親に対する思いやりから、勉はミツ子をとり戻すにしろ、そのまま送るにしろ入用な金策に心を悩ました。勉がプロレタリア運動に入るきっかけとなった詩は、金にならぬ。

 そこへ、種油のシミがついた今度の手紙が来た。勉がかえって物も云わず机に向い腰かけるとすぐ、乙女が勉の古紺足袋をぶくぶくにはいた足で小走りに電燈の球のない台所へ入り、湯たんぽをつくってあてがっているのは、炭を買う金さえ彼の交通費にいるからのことである。――

 長いこと黙っていた後、勉は中指に赤インクのついている手で親父からの手紙を縦に引裂きながら、

「いっそ、すっかり畳んで出て来いと云ってやろう」

 大してふだんと変りない調子で云った。乙女はとっさにそれをどう判断していいのか痺れたように勉を見た。そのうち彼女の二重瞼の眼は我知らずつり上った二つの眉毛の下で次第次第に大きくなり、寒さで赤らんだ鼻のさきとともに、びっくりした野兎のような表情になった。

 家財をたたんで、五人でここへやって来て、そして、どうして食うのであろうか。恐怖に近いものが幅ひろく彼女を圧しつけた。そんなことを考える勉も、親父にどこか似たところがあるのではないか。そう思った。

 然し、勉はそのことを今日一日、二通り三通りの活動の合間に考えつづけていたのであった。ミツ子を迎えに行く金も送る金も出来る見当はつかない。A市で、貞之助がますます食いつめるであろうことは目に見えた。東京へ出て、勇が働き、貞之助は納豆でも売り、 祖母 ばっ ちゃんはそのまめで手ぎれいな性質で何か内職でもやれば、どうにか食っては行けるだろう。東京へ出て来て、自分らの暮しを見ればいいんだ。勉は強くそう思った。そうすれば、ミツ子が厄介になったのをいいことにして、勇の次男坊気質を助長させながら「長男の貴様」にまた食い下ろうとする狡い性根もいくらか癒るだろうし、勉の仕事の性質ものみこむだろう。こっちの暮しを目で見て、一緒に思い知ればいいんだ。

 説明されて見ると、乙女もそれを不自然なこととは思えなかった。

「――いいかしんないね」

 乙女は、眼を大きくしたまま、しかし腹からのように合点をし、舌を動かしてゆっくりと自分の唇を上唇、下唇となめまわした。

「――じゃ手紙書いてやろう……お前先へねれ」

 勉は、貞之助へ手紙を書き、それから別に長いことかかって薄い紙に何か書き、それぞれ別の封筒に入れ、一つの方を部屋の外へもって出て、どこかへしまった。

 床に入って、顔を障子の方に向けているだけで、乙女は眠ってはいなかった。勉が、お前さきへねれ、そういうときは、何もきかず床に入るか、台所わきの三畳へ行くかするのが、乙女の常識となっているのであった。

 勉は、こまかい字で物を書いている間、ときどき掻巻の袖から左の指先を出して、耳の傷を押した。骨を削られて耳の後はぺこんとへこみ、ガーゼがつめられてある。寒さと疲労とで、今もそこがずきずき痛み、頭の半分が重たい。その耳のうしろには手術の傷のほかにもう一つ、ひどいひきつれの跡があった。それは一九三〇年の冬、勉が「文戦」の方針に不服で脱退し、「戦旗」の活動に参加した当時、「文戦」の鳥打帽の写真で知られている石藤雲夫に、焼ごてを押しつけられたひきつれであった。