University of Virginia Library

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 晩餐が終り、程よい時が経つと当夜の主人である高畠子爵は、

「どれ――」

と云いながら客夫妻、夫人を見廻し ( おもむ ) ろに椅子をずらした。

「書斎へでもおいで願いますかな」

「どうぞ……」

  卓子 ( テーブル ) の彼方の端から、古風な灰色の装で蝋のような顔立ちの夫人が軽く一同に会釈した。

「お飲物は彼方にさしあげるように申しつけてございますから……」

「じゃあいかがです日下部さん――日本流に早速婦人方も御一緒願うとして ( ゆっ ) くり寛ろごうじゃありませんか」

「お先に」

「いや、どうぞ子爵から……」

 戸口でおきまりの譲り合いの後、高畠子爵が先に立って部屋を出た。後から日下部太郎が続く。彼の艶のよい、後頭部にだけ軟かな半白な髪がもしゃもしゃと遺っているペテロのような禿頭は、前を行く子爵のすらりとした羽織の渋いけし ( ) いの紋位迄の高さしかなかった。男にしては低い丸々とした躯を彼は品のよいモーニングに包んでいた。彼はその躯を心持斜にひらいて、すぐ後に ( ) いて来る子爵夫人に敬意を払い、一歩一歩に力を入れ、さながら歩くことまで今日は愉快な適宜な運動と感じているように進んで行った。

 彼の風采には、快活な眼付から真白なカフスの輝に至る迄、一種渾然と陽気さと 慇懃 ( いんぎん ) さとの調和したものが漲っていた。彼を見ると、口を利かない先から人はこだわりのない社交性の愛素よい漣と、信義に篤そうな暖みとを感じた。若し敏感な教養のある観察者なら日下部太郎が彼のN会社の専務取締役という職業にも似合わず相当に洗煉された趣味家であることをも、服装や話題から発見し得ただろう。

 殊にその晩、彼の特徴は華やかに発揮された。彼は自ら座談のリーダーとなった。相手をいかにして面白がらせようなどという考慮は一切忘れ先ず自ら喋る話題に打ち込み、活溌な楽しそうに話す調子に傍の者はひとりでに巻き込まれた。その上、彼の条件がその晩はよかった。皆の体に苦情がなく、晩餐の白葡萄酒が稀に美味なものであったというばかりではない。日下部太郎はつい先頃、高畠子爵の二十六になった長女を、伊勢の豪家へ縁付ける媒酌をした。三日ばかり前に正式の結納が取り換わされたところであった。当時、高畠夫妻にとって、その未婚の長女は何より苦労の種であった。長男の妻となるべき令嬢は定っていた。昨年学習院を出たばかりの次女の縁談さえ名望ある青年貴族との間に整ったのに、 屡々 ( しばしば ) 社交会にも引出し、それとなくよい候補者を物色しつづけていた長女の行末ばかりは何とも見当が付かずに遺された。晨子は、静かな、おっとりした何でもひとまかせな性質であった。はっきりした欠点は一つもない代り、紹介する時とり立てて相手の興味を ( ) くような何ものをも持たなかった。上品でこそあれ、彼女の容貌もごく十人並であった。父の高畠子爵が夫人に向って、

「あれは幾つになっても無色透明だな。あれでもよしわるしだ」

と述懐した、その通りの娘なのであった。どうかして、難しい小姑という地位に置かれないうち、自分だけ幸福に見すてられたと妹の島田を見て思わないうち、晨子の運命を明るくしたいという親心を、日下部太郎は同情を以て推察した。彼は、広い交際の網目を彼方此方と注意した。そして、彼が 牛津 ( オックスフォード ) 留学時代、その父親と親しくした今度の青年を見出したのであった。

 高畠子爵は、青年が有望な外務省書記官であるのを喜んだ。夫人は、爵位のない先方が大槻伯爵の親戚であるので安心した。

 日下部太郎は今晩、その礼心として内輪の招待を受けたのであった。

 書斎に行くと、日下部は待っていた小間使の手をかりず、気軽に自分で椅子を煖炉の前に持ち出した。

「さあ、どうぞおこのみの席におつき下さい。御婦人がたは火のお近くに」

「いや君、それはいけない」

 子爵が真面目くさって日下部を遮った。

「我々は細君方より少くも五つや六つは年上だ。年長者の特権というものは、煖炉の近くで最もいい場所を占めるにある。どれ――では失礼」

 子爵は、皆を笑わせながら、どっかり安楽椅子に納まった。 珈琲 ( コーヒー ) とキュラソオとが運ばれた。日下部太郎は、婦人達に向って二言三言毒のない冗談を云い、子爵と愉快そうに酒の品評を始めた。