University of Virginia Library

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 自動車は、ヘッド・ライトの蒼白い光で、陰気に松の大木が見え隠れする暗い濠端に沿うて ( はし ) っている。

 外界の闇や動揺に神経が馴れると、日下部太郎は忽ち、見て来たばかりのマジョリカのことを考え始めた。

 彼は人知れず自負している通り、多くの古陶器愛好家などが陥り易い、病的な所有慾には煩わされていなかった。彼は寧ろ寛大な観賞家であった。彼は自分の購買力をはっきり ( わきま ) えていたから、却って他人のところでこそ所謂世界的な名品を見たがった。そして、彼は、そのようにして見せて貰う逸品を自分のものひとの物という区別ぬきにして、心から愛し認め得る生れつきの朗らかさを持っていたのである。

 けれども、その朗らかさには一面執念づよい愛好家の神経質が附随していた。彼は、自分の鑑識でよいと認め得ないものに対しては納得の行く迄帽子をとらない頑固さを持っていた。彼はN会社の事務室ででも、電車の中ででも、頭についた陶器のことは忘れなかった。絶えず心でその色や形を反芻した。そして或る期間経つと、何かのはずみで忽然彼自身の信念がその作品に対して明確に形造られるのであった。

 彼は、時々恐ろしく凹凸な市街の道路で揺り上げ揺り下げられながら、衣嚢から先刻の備忘録をとり出した。そして、スケッチのマジョリカを見なおし、彼の謂う ( ) ねかたを始めた。

 みや子は、黒絹の襟巻にくるまり、黙って暫く良人の手元を見ていたが ( やが ) て、

「あなた」

と呼びかけた。日下部は手帳に眼をとめたまま答えた。

「うむ?」

「高畠さんのところで沼津の地所を開放なさるっていう話ね、御存じだったのですか?」

「ああ。山村がいつかそんな意志が子爵にあるらしいことを云っていた」

「――御相談役で責任がおありになるんではありませんか?」

 みや子は、子爵の応接間や書斎で喋った時よりはずっと強い、たっぷりした音声でものを云った。

「一向そんな噂は伺いませんでしたね」

 日下部は、面倒そうに云った。

「細かな事まで一々覚えていられるものか? いずれ相談会へ持ち出すだろう。――が、相談会そのものが今時、 抑々 ( そもそも ) 愚の骨頂さ」

 車は、両側に明るく店舗が軒を並べた四谷の大通りに出た。呉服屋の飾窓の派手な色彩などが、ちらりちらりと視野を掠める。みや子は何か託つような調子で呟いた。

「もう私共も二つ位別荘があってもよい時ですね」

「ふむ。厄介だよ。息子共の巣窟にばかりされても堪るまい」

 日下部は手帳をモーニングの衣嚢にしまった。彼の望みはこの時ただ一つしかなかった。これは、一刻も早く家に着きたいという願であった。彼はせめて今夜のうちに、あのマジョリカの時代だけもはっきり調べて置きたく思った。

 然し、彼の心持を知らないみや子は、何故かひどく彼女の別荘話に執着した。彼女は数年前買い損った裾野の土地のことまで良人に思い出させた後、意味ありげな嬉しそうな眼付で云った。

「ね、あなた、今日のお話ぶりだと、沼津の土地というのを分けて戴けますよ」

「勿論貰えるさ」

 日下部は単純に解釈した。

「分けて貰えることは貰えるがあんな処仕様があるまい。海岸のくせに海から七八丁もあるんじゃあ」

「それは――買うのでしたらね贅沢も申しましょうけれど」

 彼は、急なカーヴで体を揺られながら怪訝そうに妻を見た。

「――買うならって――ただでとる気か? ハハハハ。お前らしい理屈だ。今時ただの地面などはアフリカの端に行ってもあるまいよ、残念ながら――」

 みや子は 莞爾 ( にこり ) ともせず、声を低めて熱心に囁いた。

「何でも冗談にしようとなさる! だから皆よい機会を失ってしまうのですよ。――高畠夫人がね、若しかしたら沼津の土地を無代で分けて下さっても好いお気持らしいですよ」

「へえ。――何のために? そんなことお前が当って見たのか?」

「まさか、不見識な。今度私共が晨子様のことで尽力してさしあげたお礼という意味に、先様でお思い付になったらしいのです」

 今までほんの座興的に話していた日下部は、この説明で真面目に妻の言葉を打ち消した。

「そんなことはある筈ないよ。またあったとしても俺としては受けられない」

「――それは勿論、始めから私共がそんな打算などはまるでぬきにしてお世話したのは先方だって万々御承知です。だからこそまた、そういう気にもおなりなすったのでしょう? 私は、若しそういうことになれば、素直に先の御厚意を受けるのが礼だと思いますよ、種々にひねくれて考えるのはこちらの心の卑しさを見せるようなものではありませんか」

「そうではないよ。ものには程度がある。自分が当然と思わない好意を平気で受けるようになっては男もおしまいだ」

「どうしてそうお思いなさるんでしょうね」

 みや子は、困じはてたような声を出した。

「あなたの忙しい体でわざわざ伊勢迄出かけて今度のことは纏めてあげたのじゃありませんか。晨子様のことでは皆それはそれは気に病んでいらしったのですもの」

「もうおやめ、そんなに欲しければ沼津に何処か見つけて買ってやる。貰う話だけはやめてくれ、俺は嫌いなんだから。……」

 日下部太郎は、家の門が見える位の処へ来た時、念を押し、みや子が、

「本当にお願いですから、高畠さんから何かお話があったら即答なさらないで下さいね。あなたは私が遊びに行きたがっているとでも思っていらっしゃるのでしょう。……母親は息子達の将来をいつも考えているものなのですよ」

と涙を含んだような声で云ったのをも黙殺した。

 玄関に降ると、彼は書生に、すぐ書斎の煖炉に火をつけることを命じた。

 彼は手早く着換えをし、高畠子爵のそれほど広大ではないが、小ぢんまりと充分居心地よい書斎の机に、大部の書籍を数冊とり出した。二月下旬の夜気は何といっても爪先にしみる。彼はそれをものともせず活気横溢した学生のような意気込みで、ジョルジョの作品年代を調べ始めた。直覚的な自分の推測と合致した記述に出逢うと、老いた若者は亢奮してデスク・ラムプの狭い光の弧の下で肩を揺り動した。執念深いみや子の別荘話も、一日の疲労も何処にか消えてしまった。日下部太郎は、燈火の ( おぼ ) ろな書斎の一隅で、古風な鳩時計が、クックー、クックーと二時を報じる迄、机の前を去らなかった。