University of Virginia Library

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 クレムリン城内と向いあって、四角にモスストロイ(モスクワ土木課)がある。

 パーヴェル・パヴロヴィッチは五年間、歩いてその三階へ通いつづけた。出かける前に、彼は火傷しそうに熱い茶を受皿にあけて飲んで、バタつきパンをたべて、タバコを吸いながら水色の技術制帽を外套の袖口で一二へんこすってかぶるのであった。

 ナースチャは一時間半前に、台所の寝台から起きた。ソフィヤ村の伯母の家でナースチャの寝床は大箱の上だった。ここでは箱でなく、台所の壁から一枚板が下りた。ナースチャはその上へ掛物にくるまって眠るのであった。

 パーヴェル・パヴロヴィッチが、茶をのんで窓越しに並木道の 菩提樹 リーパ の梢を眺めている間に、ナースチャはニッケル盆にコップと薬罐とバラ模様の急須をのせ、食堂の隣室の戸をたたいた。

「入ってもよござんすか」

 直ぐ、

「お入り」

と返事のある時もある。いつまでも返事のない時、ナースチャは、ドンドン戸をたたいた。それはきっとそうやってたたかなければいけないのだ。鍵があく。

「おお眠い。一たい何時? いま」

 ナースチャは丁寧に腰をかがめてテーブルへ盆をおきつつ答える。

「八時十分です」

 リザ・セミョンノヴナは裸足のまま寝台の前の小さい古い絨毯布の上に立っていた。あくびをし、柔かい金髪のおかっぱを両手でもしゃくしゃにこねまわし、もう一つあくびをしつつナースチャの肩へよっかかった。

「ナースチャ、鬼よ、お前! たったいっぺんでいいからうんざりするほど寝かしといてくれればいいのに!」

 ナースチャ自身は黒い髪をたっぷり持って首の上に重く丸めていた。彼女には、この金髪の、足の裏まで柔いみたいなリザ・セミョンノヴナが好もしかった。リザ・セミョンノヴナはナースチャが来て半月後、アンナ・リヴォーヴナが出した貸間広告で来た銀行員である。

 リザ・セミョンノヴナは、
  脚をぶらぶらふりながら、
  わたしは樽にかけている。
  コンムニストだということは
  云ったげようか
  とても、陽気だ。

 流行歌をうたい出し、ナースチャの顔のなかになんともしれぬながしめを与え、麻の手拭を肩にかけて洗面所へ出かける。ナースチャもついて室を出て、おなじ廊下で一つ手前の台所へ帰る。

  籠をぶらぶら振りながら
  わたしは窓にかけている。
  女中になるということは
  云ったげようか
  とても、 陽気 ウェルショールイ だ。

  陽気 ウェルショールイ だということに反語のこころをふくめてナースチャは、心のうちでいくつもかえ歌をこしらえ、調子をとりつつ、それが火曜日の朝ならばごしごしと洗濯 だらい でアンナ・リヴォーヴナの下着をもむのであった。

 パーヴェル・パヴロヴィッチが出て行く。リザ・セミョンノヴナが赤い手提に身許証明書と八カペイキのパンとを入れて出て行く。アンナ・リヴォーヴナがそのあとで独り食堂で、桃色の夜帽子をかぶったまま茶を飲む。ナースチャは寝室と、リザ・セミョンノヴナの へや 掃除をする。ナースチャはリザ・セミョンノヴナがそのうえで白粉もつけるし、手紙も書くたった一脚の、いつも一晩で散らかるテーブルの上を、彼女独特の原則にしたがって片づけた。ソフィヤ村で、ナースチャはいつこのような白粉箱、香水箱、新聞、古手紙、毛糸の黒坊人形まである小机を見たことがあろう。ナースチャはしかたがないから、あるほどのものを片ぱしから大きさの順で机の端につみ重ねた。したがって、新聞が基礎構造で、「 週間 ディー・ヴォッヘ 」「アガニョーク」「エルマー・ガントリー」という英語の筋ばかり厚い小説、日記、字引、五月八日にキエフから来た手紙、もう一つ小さい端のめくれた古手帳、その上に、ナースチャはきまって黄色い円い白粉箱をおき、黒坊人形は手にとって一つ接吻して、その白粉箱によせかけ、片づけ終るのであった。リザ・セミョンノヴナは帰って来て――夕方か夜更けかに――興業銀行で百八ルーブリの月給をもらう代り、怠ることの出来ない英語勉強のために、音読用エルマー・ガントリーをとろうとすると、それがまた彼女の金髪らしい性質で、いつの間にか机一杯に白粉箱や古手紙が散らばってしまうのであった。

 カウカーズの上靴を寝台の下にしまって、ナースチャがリザ・セミョンノヴナの室に鍵をかけ終ると、アンナ・リヴォーヴナは廊下で黒麦わらの帽子をかぶっている。

「さあ、籠を持って」

ただいま シチャース

「牛乳 びん を入れたかい?」

「ええ」

 戸に鍵をかけ、はしごを中途まで降りかけると、アンナ・リヴォーヴナは、

「ホラ、また忘れちゃった!」

と立ち止った。

「ナースチャ、忘れたろう?」

「なんです」

「ケフィールの びん さ」

 幸いナースチャが平然と腕に下げている籠からビール瓶くらいのケフィールの空瓶を出して見せられる時はよいが、さもないと、ナースチャはまたはしごをのぼって、鍵をあけて、台所へ行って瓶をとって、また表の戸を閉めて、念のためいっぺん引っぱって見て、アンナ・リヴォーヴナの待っているところまで戻らねばならぬ。悪い時は、どうかしてアンナ・リヴォーヴナが扉のしめようを信用せず、

「いい娘だから、もう一度しっかり見ておいで。モスクワはソフィヤ村じゃないんだからね、三分間扉を開けっ放しにしておいてごらん、壁のペイチカまでさらわれちまうから」

と云う場合であった。ナースチャは戻らねばならぬ。三階まで二度往復せねばならぬことを意味するのであった。

  市場 ルイノク には、村の市場より数倍の店と群集と、いろんな匂いとがある。市場のモスクワ式ごろた石の通路では、花キャベジの葉っぱ、タバコの吸殻、わら屑、新聞の切れっ端が踏みにじられていた。魚売店からきたなく臭い水がごろた石の間を流れた。市場の古いごろた石道はきつい日に照らされて表面だけ白っぽくかわいて見えても、石と石との隙間の奥にはいつも黒いぐしゃぐしゃした泥濘がある。ナースチャは時々、そのごろた石と石との隙間に靴の踵をかまれてよろけながら、眼をつき出し、愉快そうにアンナ・リヴォーヴナのあとから店々をのぞいて歩くのであった。

 頭上の大板へ 葡萄 ぶどう 林檎 りんご を盛った男が、長靴を鳴らし人をかきわけてやって来た。女がその肩にぶつかった。

「ヘーイ、ヘイ!  ばかやろう ドゥーラ !」

 いそいでよけた女の顔の前へ、てのひらにのせた鶏をつき出して、横歩きをしつつ髯の大きな男が熱心につばきをとばしてしゃべった。

奥さん マーモチカ 、じゃいくらならいいんだね。見なさい。こりゃ本当のヒナですぜ、けさつぶした」

 赤い羽根付の帽子をかぶった女は止らず歩きつづけた。

「だから、もう云ったよ。八十五カペイキ!」

「もう十カペイキだけ! あんたにとってこれっぽっち同じじゃないか」

「同じなら、お前さん負けとき」

「わたしのを買って下さいよ、ね奥さん」

 更紗のプラトークをかぶった女が、その時やっぱり手に毛をにぎったひどくひねた鶏をのせ、人かげから、歩いてゆく女の前に現れた。

「ねえ、奥さん、本当の 主婦 ハジャイカ ならこれを見落しゃしませんよ、たった九十五カペイキ、お買いなさい奥さん」

 二人の鶏売りにはさまれ、女は怒ったように、

「駄目! 駄目!」

と叫んで一そう早く歩き出した。

「わたしは買わないよ、いらないっていったら!」

 行手にはもう別の人だかりがあり、鮭の切売りを見物しているのであった。

「ナースチャ!」

 肉売り店の前に立って少し口をあけ、面白そうにその様子を見ていたナースチャは、びっくりしてうしろを向いた。

「さ、これ」

 アンナ・リヴォーヴナは こうし の骨付肉を新聞でつまんでナースチャの籠へ入れた。

「駄目だよ。さらわれちゃ」

 女が二人ならんで足許の箱に玉子をひろげていた。ナースチャが来かかった時、年よりの方の女が、急にあわてて箱をもち上げ、

「来たよ」

とささやいた。あわててもう一人の女も箱を持ち上げ逃げるかまえをしたが、そちらを見て、

「籠をもってる」

 安心して、再び玉子の箱を元のように足許に下した。直ぐ巡査が現れた。巡査も買物で、ほかの群集の男女と同じに籠をぶら下げ、玉子売の隣で 胡瓜 きゅうり 漬売の前にたたずんだ。ナースチャは顔を上に向けて笑った。市場は、陽気だ。

 リザ・セミョンノヴナも陽気でなくはなかった。

 リザ・セミョンノヴナは時々は夜も、台所へ入って来ることがある。

「ナースチャ、ちょっとじりじりやらせてね」

  爪磨 マニキュール した彼女の手にアルミニュームの小鍋がある。小鍋に二つの卵とハムが入っている。アンナ・リヴォーヴナとリザ・セミョンノヴナがとり交した契約書には、モスクワの借室がたいていそうであるように台所は利用せぬことになっているのであった。セミョンノヴナでも、しかし時には、夜、茶と一しょに熱いものが食べたかろうではないか。

 台所の隅の腰かけに、昼間のせてあった金盥の代りに、いまはナースチャ自身がかけている。ハムをあぶりながら、リザ・セミョンノヴナは綺麗な水色の瞳で、じろじろナースチャを眺めて、云うのであった。

「ナースチャ、なぜおかっぱにしないの」

「わたし似合わないんです」

 リザ・セミョンノヴナの小料理は手伝うこともないので、かえってナースチャは間がわるい表情だ。

「きったことがあるの?」

「いいえ、伯母さんも似合わないというし、シューラも似合わないって云うもんだから」

「ばかなナースチャ、おかっぱにしないのなんか禿げ頭の爺さんか豚だけよ――ごらん、わたしだってよく似合ってるじゃないの」

 ナースチャは、感嘆して、紫苑色のリザ・セミョンノヴナのすらりとしたスウェーター姿を眺めた。

「わたしだってあなたみたいな髪さえあれば……こんな黒い髪! あきあきしちゃう」

「ホウ、ホウ、ホウ」

 肩をすぼめ、唇を丸め、ホークで器用に小鍋をひっかけながら、

「そら出来た」

 リザ・セミョンノヴナはガスを消す。

「寝る? ナースチャ」

 ナースチャはもっといろいろのことをしゃべりたい。その心持をあらわす暇のないうちに、

「じゃおやすみ、ありがとうよ、ナースチャ」

 リザ・セミョンノヴナは裾の端を台所の戸がしめこみそうにひらり、小鍋を持って自分の室に行ってしまうのであった。

 ナースチャがお休みなさいと云う間もなかった。

 彼女は台所の隅の四本柱の腰かけの上で、両手を膝の間にはさみ、体を前や後に振りながら周囲の物音をききすます。廊下のあちらでリザ・セミョンノヴナの戸が閉った。食堂からこもった笑声が響いた。食堂の入口に厚いカーテンが下っているからあんなに遠く聞えるのだ。アンナ・リヴォーヴナ夫婦と夫婦づれの客が、カルタをやっていた。ナースチャがずっとさっきコーヒーを持って行ったら、アンナ・リヴォーヴナはカルタを手のなかで一心にそろえながら、

「お砂糖もいるよ」

と云った。主人のパーヴェル・パヴロヴィッチがその前に台所へ顔を出して、

「ナースチャ、コーヒーおくれ、苦くしちゃいかんぜ」

と云って直ぐ引っこんだ。夜の間にナースチャにかけられた言葉のそれが全部である。

 膝の間にはさんでいた片方の手をのばして、ナースチャはかたわらの棚の下をさぐった。いろんな紙屑のなかから、手当り次第に引っぱり出してみると、パーヴェル・パヴロヴィッチが役所から持って来た製図の切れ端であった。もう一遍やって見ると、新聞が出た。ナースチャは太い活字をひろって読んだ。パホード・プロチフ・エストラノドノイ・ハルツールイ……これはなんのことだろう。別のところには細かい字がうんと書いてあってカリーニンとかルジュタクとか人の名がある。

 再び両手を膝にはさみ、体をゆすり、ナースチャはシューラを恋しく思い出すのであった。寂しい……。明るい……明るい……そして一人ぼっちの台所は寂しい。夜はいつしか進んでナースチャはねむたくなる。大きなあくびをして立ち上り、彼女はギーと板を下し、その上にのって高い棚から掛物をひきずりおろした。

 便所で誰かが灯をつける度に、高窓のガラスを越してナースチャの寝顔に光がさした。ナースチャは口をあけ、うなりながら眠った。