小はる治平衞
心中天網島 (Shinju ten no Amijima) | ||
河庄の場
河庄の場
- 紙屋治兵衞。
- 粉屋孫右衞門。
- 紙屋丁稚、三五郎。
- 江戸屋太兵衞。
- 五貫屋善六。
- 若い者、佐助。
- 廻し男、嘉助。
- 紀伊國屋小春。
- 伯人、小糸。
- 花車、お松。
- 仲居、お長。
- 同、お民。
役名==
てう
コレお民さん、今日は座敷淨瑠璃があるに依つて、お客も多からう、どうぞ氣を付けて下さんせ。
たみ
アイ/\、そりや合點でござんすわいなア。
てう
さうして、紀伊の國屋へ誰れぞ行たのかいなア。
佐助
そりや先刻呼びに行きました。
てう
それも急がねばならぬ。大儀ながら、佐助どん、急いて來て下さんせ。
佐助
ハイ/\、畏りました。ドリヤ、一走り行て來ようか。
[ト書]
ト唄になり、下手へ入る。この時奧より、小糸、白人の形にて出て
小糸
お長さん、小春さんはまだでござんすかいなア。
てう
アイ、佐助どんをやつたれば、もう來やしやんせうわいなア。
小糸
どうぞ早う來てくれたがよいになア。
[ト書]
ト唄になり、向うより嘉助、先に提灯を持ち、風呂敷包を抱へ、小春、後より白人の形にて舞臺へ來り
嘉助
ハイ、小春さんを送ります。
てう
オヽ、小春さん、いま呼びにやりましたが、最前から早う/\と内がやかましい、サア/\、ちやつとお上がり。
小春
サイナア、わたしも遲うなつたに依つて、氣が急くけれど、何やかや隙が入つて、やう/\今になつたわいなア。
小糸
小春さん、わたしはお前に逢はうばつかりに、最前から爰に待つて居た。よう來て下さんした。
小春
何の用ぢやぞいな。
小糸
ソレ、この間約束した芝居へ行かうと思うて。
小春
エヽ、わたしや、芝居機嫌ぢやないわいなア。
小糸
そりや又、紙治さんの事でかえ。
小春
サア、それでなア。
[ト書]
ト氣に濟まぬこなし。
小糸
この間も心中の仕損じをさしやんしたげな。滅多な事をしやんしやんすなえ。
小春
何を云はしやんすやら。
てう
コレ/\嘉助どん、よい次手ぢや、このお子を送つて上げて下さんせ。
嘉助
ハイ/\、畏まりました。サア、お出でなされませ。
[ト書]
ト捨ぜりふにて、嘉助先に、小春附いて下手へ入る。
てう
ヤレ嬉しや、これでよいといふもの。小春さんのお出ぢやと云うて、落ちつかさうか。
たみ
さうしやしやんせ。
てう
サア/\お出で。
[ト書]
トせりふにて奧へ入る。この時向うより丁稚三五郎、状を持ち出て、門口へ來て
三五
小母さん/\。
[ト書]
と招き、状を見せる。
小春
オヽ、どのお子かいなう。恟りした。治兵衞さまから文かえ。ドレ、早う見せて下さんせ。
三五
イエ/\、旦那からぢやない、お前へ初めて來た状ぢや。
小春
わたしへ初めて來た文とはえ。
[ト書]
ト取つて見る。
[小春]
紀伊の國屋小春さま、紙屋内より。
[ト書]
ト恟りしていろ/\思ひ入れ。
三五
コレ/\小母さん、お家樣がこの状を、お前へ持つて行き、必らず旦那に云ふなと云うてゞあつた。
小春
治兵衞さまの内方から、わたしへの文とは、どうやら氣の濟まぬ。
[ト書]
ト讀む思ひ入れ。
三五
小母さん、わたしや爰に居て、旦那樣に逢うたら、お家樣に叱られる。早う返事して下され。
[ト書]
ト小春、よく/\讀んで。
小春
よく/\切なさが餘つてのこの文。道理でござんす、尤もぢや。さぞ腹が立つたでござんせう。この文の樣子では、治兵衞さまの素振が。太兵衞づらに、身請けされては、片時も生きては居ぬこの身。
[ト書]
ト泣く。
三五
小母さん、お前なんで泣かんす。腹でも痛いかえ。但しひだるいか。コレ、ちやつと返事をして、こちや叱られん間に去にたいわいなう。
小春
成る程返事しませう。
[ト書]
ト硯、紙を出し、返事を書く。
[小春]
コレ、こりや大事の状ぢや程に、必らず誰れにも見せぬやう、ちやつと持つて去なしやんせ。
三五
アイ/\、ドリヤ、ちやつと去んで、お家樣に、賃を
[ト書]
ト行かうとして。
[三五]
コレ/\小母さん、肝腎の事忘れた。今の状を誰れにも云てくれな、と云うてゞあつたぞえ。
小春
そりや氣遣ひしやしやんすな。
[ト書]
ト懷より守り袋を出し。
[小春]
コレ、この守り袋は大事な物が入れてある。この中へ入れて、この通りにして置けば、氣遣ひはござんせぬ。とよう云うて下さんせ。
[ト書]
ト云ひ/\泣く。
三五
エヽ、また泣かんすかいなう。ドリヤ去んで賃を貰はう。小母さん、お前は旦那樣の使ひに來る時は、何やかや下さんすが、今日は何にもないかえ。
小春
ほんに何ぞ上げたいが。
[ト書]
ト思ひ入れあつて、莨入れの中より金を出し。
[小春]
サア、これを上げる程に、必らずこの文の事、わたしが返事した事を、誰れにも云ふ事はならぬぞえ。
三五
合點ぢや/\、斯ういふ好いものを下さるもの、人に云うてたまるものかい。そんなら小母さん。
小春
早う去なしやんせ。
三五
そんなら小母さん、去んで來るワ。
[ト書]
ト流行り唄になり、三五郎、向うへ入る、小春、思ひ入れあつて泣く。この時奧よりお杉、花車の形にて出て
すぎ
オヽ、小春さん、どうぢやいなア。太兵衞さまの伊丹へ行かしやつた事、又きつう揉めると聞いたが、マア、治兵衞さまの事はどうなつたえ。
小春
イヤモウ、何ぢやゝら、益體ぢやわいなア。いとしなげに紙治さま/\と、それ程にもない事を、あの太兵衞づらが浮名を立て、氣晴し同樣に五貫屋の善六づらまで粹がつて、わたしやモウ、腹が立つて/\ならぬわいなア。
[ト書]
ト此うち、善六太兵衞、酒に醉ひ、橋がゝりより出て、門口に立聞きして居る。
すぎ
ほんに、あの太兵衞さまは、可愛氣のないなめくさり。シタガ、大金持ちの太兵衞さま、請出されて行かしやんすは、お前の出世といふものぢやぞえ。
小春
何云はしやんすやら。あんな男と添はうより、牛にはぢかれた方がましぢやわいなア。
兩人
ハヽヽヽ。
[ト書]
トこれにて兩人ムツとして内へ入る。
太兵
コリヤ小春、あんまりぢやぞよ。なんぼう蔭で謗つても、やがてこの男が女房、あの小判の光で可愛がられて見せうわえ。ナア善六。
善六
オヽ、それ/\、大坂三郷に人も多いが、紙屋治兵衞は二人の子の親、女房は從弟同志、舅は伯母聟、その世話になる體で、十貫目餘の身請け金、何として/\。
太兵
其やうな男が矢ツ張り可愛うござりますか。イヤサお前は治兵衞どのが、それ程に可愛いか。おれは女房なければ舅なし、また伯父持たず、身すがらの太兵衞と名を取つた男。色男で僣上云ふ事は、治兵衞めに叶はねども、金持つたばかりは太兵衞が優つた。金の力で押したれば、ナウ善六。
善六
ナニ、勝たうも知れぬ。今宵の客も治兵衞めぢや。貰へ/\貰うた。
太兵
サアコレ花車、酒を出せ/\。
すぎ
何を云はしやんすやら。今宵のお客はお侍ひ衆で、追ツつけ爰へ見えませう。お前方は、どうぞ脇で遊んで下さんせいなア。
善六
ヤア、侍ひ客ぢや。侍ひなんぢやい。なんの、刀差すか差さぬかの違ひ。侍ひも町人も客は客ぢやわえ。
太兵
ハテ、なんぼさしても、五本も六本も差しはしよまい。ハヽヽヽヽ。
善六
ハテ、よう差して脇差で、たつた二本ぢやわえ、侍ひぐるめ貰うた。コリヤ、小春どの/\さま、なんぼう拔けつ隱れつなされても、縁あればこそ出會ひ申すワ。
すぎ
そりや、いたみでござんす。
太兵
ナニ、したみとは。
善六
アヽ、コリヤ、伊丹ぢや/\。
太兵
さうかいやい。サア、貴樣一杯やれ。時に花車、この頃仲居仲間の流行り文句。小春、よう聞きや、善六、覺えた通りやつて見い。
善六
そりや合點ぢやが、併しつるがあるか。
太兵
成る程、そりやおれがやらう。
[ト書]
ト箒を持ち出て、兩人こなしあつて
善六
結ぶの神の紙屑に、貧乏紙屋の治兵衞の女房、おさんに子があるドツコイ。その子は鼻たれお京と勘太郎、貧乏小春に命ちり紙の、紙屋姿ぞ藥袋紙。
太兵
もうよい/\。小春、なんと好い文句であらうがの。
[ト書]
トこの時孫右衞門、下手から出る。善六、門口を見て
善六
太兵衞さん/\、紙屑が來て居る/\。
太兵
ナニ紙屑が來た。
善六
表へ來てゐるワ。
太兵
それは好い所へ來をつた。サア、貰はうかえ。
善六
ムウ、貰へ/\。
[ト書]
ト兩人、表へ出て、孫右衞門を引ツ張り、いろ/\手を取つて。
太兵
サア治兵衞、われに貸した金、いま戻せ/\。
[ト書]
トいろ/\云ふ。
孫右
この大小が目にかゝらぬか。
[ト書]
トこれにて兩人恟りして、向うへ逃げて入る。
[孫右]
ハテサテ、慌てた奴ではあるわえ。
すぎ
オヽ、あなたは、旦那樣ではござりませぬか。
孫右
そちやお杉ぢやないか。
すぎ
好い所へお越し下されました。サア/\、お入りなされませ。
孫右
入つても苦しうないか。
すぎ
サア/\、こちらへお入り下さりませ。
孫右
然らば許しやれ。
[ト書]
ト捨ぜりふにて二重よきところへ住ふ。下手より以前の嘉助出て
嘉助
ハイ御免。小春さんの今晩のお客樣は、どなたでござりまする。見て來ぬと云うて、内でえらう叱られました。
すぎ
ハテ氣の惡い。今晩のお客樣は、藏屋敷のお侍ひ樣ぢやわいなア。
嘉助
左樣でござりませうが、ちよつとお顏をばお見せ下さりませ。ツイちよつとさへ拜見いたしますればよいのでござります。
すぎ
其やうに云はしやんするなれば、そこにお出でなさるお侍ひぢや程に、見やしやんせ。
嘉助
ヘイ/\、御免下さりませ。ちよつとお顏を。
[ト書]
ト孫右衞門の顏を提灯にて覗き
[嘉助]
ヘイ/\、よろしうござりまする。内が誠にやかましいので困つて居ります。よろしうござります。イヤモシ小春さん、あのお客樣なら、今夜はしつぽりとお勤めなされませ。イヤ申し、大きに御面倒いたしました。
[ト書]
ト門口へ出て。
[嘉助]
ドレ/\、これからもう一軒廻つて行かう。
[ト書]
ト下手へ入る。
孫右
なんぢや、今の男は身共の顏を、茶入れか茶碗のやうに目利して行き居つた。さうして、これがあの小春どのか。イヤ、てんと御器量。手前が屋敷は晝の出入りを堅く誡め、それゆゑ家來も連れず只一人にて參りしが、どうぞ一夜の情は受けられまいか。これはしたり小春どの、其やうに俯向いて居て、首筋は痛みはせぬか。物を云はつしやれ、小春どの。
小春
申しお侍ひ樣、同じ死ぬると云うても、首縊るのと自害するのは、どちらが苦しうござんすえ。
孫右
これは又迷惑な。手前とても首を縊つて見た事も、自害して見た事もないが、マア、小氣味の惡い女郎ぢやわえ。
すぎ
これはしたり小春さん、初對面からあんまりな御挨拶。こちの人も今夜は留守、幸ひ隣に座敷淨瑠璃の會がござります。それを肴に、奧で御酒に致しませう。奧へお出でなされませ。
孫右
オヽ、ナニサマ、酒よからう。小春どのも不機嫌なら、淨瑠璃なと承らう。
すぎ
それがよろしうござります。
孫右
然らば案内いたしておくりやれ。
すぎ
それをつツとお出でなされませ。
孫右
然らば斯う參るのか。
[ト書]
ト孫右衞門、刀を忘れて行かうとして、顏を見合せ
三人
ハヽヽヽ。
[ト書]
ト踊り地にて三人、上手へ入る。床の淨瑠璃になり
[唄]
[utaChushin] 天滿に年經る千早振る、神にはあらぬ紙樣と、世の鰐口にのるばかり、小春に深くあふぬさの、腐り合うたる御注連繩、今は結ぶの神無月、堰かれて逢はれぬ身となり果て、あはれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名殘の文の云ひ交し、毎夜々々の死覺悟、魂ひぬけて、とぼ/\うか/\身を焦す。
[ト書]
ト向うより治兵衞、着流し一本差し、頬冠にて出て來り、花道にて。
治兵
いま向うの煮賣屋で、高聲で小春が噂、侍ひ客で河庄方。どうぞ首尾して逢ひたいものぢやなア。
[唄]
[utaChushin] 覗く格子の奧の間に、客は頭巾の頤の、動くばかりに、聲聞えず。
[治兵]
アレ/\可愛や、小春が行燈に背けた顏の、あのマア痩せた事わいの。心の中は皆おれが事。
[唄]
[utaChushin] 爰に居ると吹込んで。
[治兵]
連れて退くなれ、梅田か北野。アヽ知らせたい、呼びたい。
[唄]
[utaChushin] と心で招く氣は先へ、身は空蝉の脱殻の、格子に抱きつきあせり泣き、奧には客の聲として。
孫右
アヽ、思ひのある女郎衆にかゝつて、とんと氣が滅入る。表へ出て、行燈でも見て氣を晴らさう。サア、小春、おぢやれ。
[唄]
[utaChushin] 連れ立ち出れば南無三方、見付けられじと身を忍び、隱れて聞くとも内には知らず。
[ト書]
ト小春、孫右衞門出る。
[孫右]
宵からの素振りといひ、花車が話しの紙治とやらと、心中する心と見て取つた。死神の附いた耳へは、意見も道理も入るまいとは思へど、さりとは愚痴の至り。先の男の無分別は云はず、一家一門其方を恨み、萬人に死顏を晒す身の耻。サ、親はないかも知らねども、もしあれば不孝の罰。極樂へは愚か、地獄へも温かに、二人連れでは落ちられまい。一見なれども武士の情、見殺しになるまい。コレ、定めて金づくの事であらう。どうか五兩か十兩の事なら、用達つて命が助けたい。なんと死ぬる氣に相違あるまい。神八幡侍ひ冥利、他言は致さぬ。コレサ小春、心底殘らず打明きやれ、どうぢや/\。
[唄]
[utaChushin] と囁けば、手を合はせ。
小春
アヽ忝ない。有り難う御座んす。
[唄]
[utaChushin] 馴染よしみもないわたし、御誓言での情のお詞、涙が滾れて、嬉しうござんす。
[小春]
思ひ内にあれば、色外に顯はるゝと、お前樣の御推量の通り、紙治さまとは死ぬる約束、元はと云へば身請けの張合ひ。南と爰とにまだ。
[唄]
[utaChushin] 五年ある年の内、人手に取られては。
[小春]
わたしは元より。
[唄]
[utaChushin] 主は、猶、一分立たず、いつそ死んでくれぬか。
[小春]
アイ。
[唄]
[utaChushin] アイ死にましよと、引くに引かれぬ義理詰めに、ふつと云ひ交し、首尾を見合せ、合圖を定め。
[小春]
もう脱けて出よう/\と。
[唄]
[utaChushin] いつ何時を、最期とも。
[小春]
その日暮らしの敢へない命。わたし一人を頼みの母さん、死んだ後では袖乞非人、餓死もなされうかと思へば、ほんの事は死にともない。わたしとても命は一つ、水臭い女と。
[唄]
[utaChushin] 思し召しも耻かしながら。
[小春]
その耻を捨てゝも、死にともないが第一。死なずに事の濟むやうに、どうぞお頼み申します。
[唄]
[utaChushin] 語ればうなづき思案顏、外には、はつと聞いて驚き、思ひがけなき男氣に、木から落ちたる如くにて。
治兵
そんなら死なうと云うたは、皆嘘か。三年この方誑しくさつた野狐め、いつその事踏ん込んで、面耻かゝせて腹癒よか。
[唄]
[utaChushin] と齒切ぎり/\口惜し涙、内にも小春が喞ち泣き。
小春
此やうに云へば、卑怯なお頼みなれども、お侍ひ樣のお情にて、今年中、來春二三月の頃までも、わたしに逢うて下さんして、彼の人の來る度々に邪魔をして、期を延して下さんしたら、自ら手も切れる道理。それで向うも殺さず、わたしも命助かるといふもの。なんの因果で死ぬる約束した事ぞ、と思へば口惜しい、口惜しうござんすわいなア。
[唄]
[utaChushin] 口と心は裏表、絞る袂は雨露の、膝に凭れて泣き居たる。
孫右
表が近い、人や見る。
[唄]
[utaChushin] 格子の障子ばた/\と、立聞く治兵衞は氣も狂亂。
治兵
流石、賣り物、安物め。切らうか突かうか。
[唄]
[utaChushin] どう障子にうつる、二人の横顏。
[治兵]
アレ/\、何を吐かすやら、うなづき合ひ、あのマア吠える態わいやい。もう料簡が。
[唄]
[utaChushin] 心も急きに關の孫六、一尺七寸拔放し、格子の間より小春が脇腹、爰ぞと見極め、ぐつと突くに、座は遠く、侍ひ透さず飛びかゝり、刀の下緒で手ばしかく、格子の柱こ括りつけ。
[ト書]
ト治兵衞、刀を拔き、格子の間へ突ツ込む。孫右衞門手を引入れ、下緒にて格子へ括りつける。此うち奧よりお杉出て見て、恟り、手を叩き
すぎ
アヽ、申し/\、誰れぞちやつと來て下さんせ。格子の間から、刃物を突ツ込む暴れ者。皆さん、ちよつと來て下さんせ。
孫右
アヽ、コレ/\騒ぐな。格子の間より刃物を突ツ込む程の暴れ者。身が腕を縛しめ置きたれば、氣遣ひはない。サア、小春、行て寢よう。
小春
アイ。
[唄]
[utaChushin] あいとは云へど、見知りある脇差の、突かれぬ胸にはつと貫き。
[小春]
こりや慥かに治兵衞さん。イヤサ、慈悲といふ事を知らねば、人は難儀するげな。あんまり酒を飮み過して、斯ういふ事は色里にはある習ひ。もう大概なら、沙汰なしに、解いて去なして、上げさんした方が、よさゝうなものぢやぞえ。
すぎ
オヽ、それ/\、いつそわたしが解いて上げようわいなア。
孫右
アヽ、コリヤ/\、その繩解くな。仔細あつて身が縛しめた。身共に任して奧へ行きや。
小春
それぢやと云うて。
孫右
ハテサテ、行けといふに。
[唄]
[utaChushin] と侍ひは、跡にも心置く露の、打連立つて、奧の間へ。
[ト書]
ト孫右衞門、小春、お杉を連れ、こなしあつて、奧へ入る。治兵衞、口惜しきこなしあつて
治兵
エヽ、四足を一思ひと思ひしに、仕損なうたが口惜しい口惜しい。ハアヽヽ。
[唄]
[utaChushin] 格子手枷にもがけば締り、身は煩惱に繋がるゝ、犬に劣つた生耻を、覺悟極めし血の涙、絞り泣くこそ不便なれ、ぞめき戻りの身すがら太兵衞、善六伴ひ立歸る。
[ト書]
ト善六、太兵衞、酒に醉うたる思ひ入れにて出て來り
善六
太兵衞さん/\、向うに誰れやら居るぜ/\。
太兵
また最前の侍ひぢやないか。
善六
イヤ/\、慥かに今度は治兵衞めぢや。
太兵
一體どこに居るのぢや。
善六
向うの格子の際に、ちよつくぼつて居る。
太兵
ありや犬ぢやないか。
善六
何を云ふぞい。
太兵
そんなら貴樣行て見てくれ。
善六
よし/\、おれが行て見て來よう。ちよつと爰に待つて居てくれ。
太兵
よし/\。もし侍ひなら、早う知らせてくれ。おりや先へ逃げる。
善六
何を云ふぞい。
[ト書]
ト舞臺へ來て、治兵衞を見て。
[善六]
オイ/\太兵衞さん、紙屑ぢや/\。
太兵
そんなら、ほんまに治兵衞めか。
善六
早う金を戻してもらへ/\。
[ト書]
ト兩人、舞臺へ來る。
太兵
サア治兵衞、二十兩の金いま戻せ/\。
治兵
なに、二十兩の金とは。
善六
コレ/\、呆けまい/\。
太兵
そんな事云はさん爲、待て/\。ソレ、慥かに證文が取つてあるわえ。エヽ、一つ、金二十兩なり、右は今日入用につき、難儀いたし候ふ處、お取替へ下され候ふ段、御慈悲の程忘れ申さず、有り難く存じ奉り候ふ、何時なりともこの手形を以て、キツと返濟申すべく候ふ。跡はお定まりぢや。江戸屋太兵衞どの、紙屋治兵衞、判。こりや、われが直筆ぢやぞよ。
[ト書]
ト證文を出して見せる。
治兵
そりやこの間石町の隱居樣に。
太兵
エヽ、何を吐かすのぢや。この證文が確な、證據ぢやわえ。
善六
太兵衞さん、そんな事云うて居ずと、代官所へ引ツ張つて行かう/\。
太兵
サア、きり/\うせい。
[ト書]
ト善六、太兵衞、手を縛られて居る治兵衞を引ツ張る。治兵衞、痛いといふ思ひ入れ。
治兵
アイタヽヽヽ。
善六
なんぢや、治兵衞が痛いと云うて居る。ちよつと待つてや。アヽ、治兵衞の手が、格子の間に括つてあるワ。
太兵
なんぢや、手が括つてある。アヽ知れた、大方治兵衞めは、こそを働きやると見える。
善六
オヽ、さうぢや/\。
治兵
どこでおれが盗人した。
太兵
何を吐かすのぢや。盗人せんものが、なんで手を格子の間へ括つてあるえ。
善六
アノ[gengen] な大騙りめ。
太兵
強盗め。
善六
紙屑がこそを働いた。盗人ぢや。生掏賊ぢや。皆來い皆來い。
[ト書]
ト治兵衞を蹴飛ばし、毆り廻し、大聲にて云ふ。橋がゝりより大勢棒を持ち出て。
[唄]
[utaChushin] 呼はり喚けば行きこふ人、あたり近所も駈け集まる、内より侍ひ飛んで出で、善六、太兵衞を突き飛し。
[ト書]
ト孫右衞門、奧より慌てゝ出て留める。善六、太兵衞を打ちにかゝる。トヾ善六を突き飛ばし、太兵衞内へ逃げて入る。門口を内より締めて、いろ/\あつて
孫右
ヤイ、この治兵衞が何を盗んだ。イヤサ、何を騙つた。その譯云へ。サヽ、早く申せ/\。
善六
サア、その盗んだは。
孫右
仔細あつて、某が縛め置いた、それをうぬらが土足に掛け、盗人呼はり。おのれ、何を以てこの狼藉、盗み騙りとは、なんぞ慥かな證據でもあるか。
善六
その證據と申しまするは。オイ/\、太兵衞きん太兵衞さん、どこに居るのぢや。太兵衞さん/\。
太兵
オイ/\、爰ぢや/\。
善六
太兵衞さん、早う來て證據を見せてんか。
太兵
よし/\。今見せる。
[ト書]
ト怖々外へ出て、孫右衞門と顏見合せ。
孫右
サア早く見せえ、
太兵
ヘエ、即ち證據はこれでござります。二十兩の證文。慥かな證據。この通りに書いたものがござります。
孫右
その證文、これへ見せい。
[ト書]
ト太兵衞の持つて居るのを、孫右衞門引取る。
太兵
なんと慥な證據でござりませうがな。
孫右
誠にこりや、慥かな證文ぢや。
[ト書]
ト云ひ/\引破る、太兵衞、恟なし。
太兵
エヽ滅相な。二十兩の證文、こりや、どうなるのぢや。
孫右
サアよいわい、いま金を戻すわえ。
太兵
金も出さずに、大切の證文を破るとは、あんまり無茶ぢやござりませぬか。
孫兵
ハテ、よいと申すに。ソレ二十兩受取れ。
[ト書]
ト二十兩包みを出し。
[孫右]
サア、キリ/\と持つてうせう。
[ト書]
ト投げる。兩人こなしあつて。
太兵
オヽ持つて行かいで、只貰ふのぢやあるまいし、おれが貸した金を取るのに、なんの遠慮があるものか。
[ト書]
ト取りにかゝり、孫右衞門と顏見合はせ、氣味惡きこなしあつて。
[太兵]
ナア善六、あの金ちよつと取つてんか。
善六
よし/\、かした金を取るのに、其やうに遠慮はいらぬ事。
[ト書]
ト行きかけて。
[善六]
ナア太兵衞さん、お前が貸した金ぢや。すりや、矢ツ張りお前が取りんかいなア。
太兵
そんな事云はずと。エヽ、なんぢや/\、おれの金をおれが取るのに、遠慮もへちまもあるものか。
[ト書]
ト云ひながら足にて取り。
[太兵]
取つた、サアお出で。
善六
オヽ、よう取つた。サア行かう/\。
[ト書]
ト捨ぜりふにて行きかゝるを、孫右衞門、思ひ入れあつて。
孫右
コリヤ、待て/\。
兩人
まだ用がござりますか。
孫右
後で小言のないやうに、一兩々々改めて行きやれ。
太兵
ヘイ/\、なんのお前さん、金改めるには及びませぬ。
孫右
さうでない。改めた上にて立歸れ。
太兵
なんのマア、よろしうござります。お侍ひ樣といふものは義の堅い。
[ト書]
ト行燈の傍にて改め見て。
[太兵]
ヘイヘイ、慥かに受取り申しました。
孫右
この治兵衞に云ひ分ないか。
太兵
なんの/\、金さへ受取りますれば、云ひ分はござりませぬ。
孫右
いよ/\これなる治兵衞に、申し分はないな。
兩人
ヘイ/\、ござりませぬ。
孫右
その方に云ひ分なくば、此方に申し分があるのぢや。
[ト書]
ト兩人の首筋を押へ。
[孫右]
場所が場所ゆゑ、今日はさし免す。以後はキツと愼み居らうぞ。
[ト書]
ト兩人を突き放す。ひやいなるこなしにて向うへ逃げ入る。後より大勢追ひ駈けて入る。孫右衞門向うを見て、
[唄]
[utaChushin] 人立ちすれば孫右衞門、立歸つて縛り目解き。
[孫右]
紙治とやら、さぞ窮屈であつたであらう。
治兵
これは/\、どなた樣かは存じませぬが、難儀の所をお救ひ下され、有り難うござります。
孫右
身が面體を、とつくりと見やれ。
[唄]
[utaChushin] 頭巾を取捨て。
治兵
大枚の金子をお立替へ下され。何れ近日の内に金子を調へ、急ぎお禮に上がります。さうしてあなた樣のお屋敷はどこで、お名前は何と仰しやりまする。
[ト書]
ト孫右衞門の顏を見て。
[治兵]
オヽお前は、兄者人ぢやないか。
孫右
治兵衞。
治兵
御免なされておくれなされ。
[ト書]
ト花道へ逃げようとするを
孫右
エヽ、動き居るまい。門中でみともない。
治兵
兄者人、どうぞ料簡して下さりませ。
[ト書]
トまた逃げかゝるを、引留め
孫右
云ふ事がある。みともない、内へ入れ。
[ト書]
ト治兵衞を内へ引入れ、孫右衞門、門口を締め、思ひ入れ。
治兵
アヽ、面目ない/\。
[唄]
[utaChushin] 小春は奧より走り出で。
小春
さては、兄御樣かいの。
治兵
エヽ、畜生め、狐め。太兵衞より先に、うぬを。
[唄]
[utaChushin] 足を上ぐれば孫右衞門。
[ト書]
ト治兵衞、小春を引付け、打擲し、足を上げて蹴ようとするを、孫右衞門よろしく留めて
孫右
ヤイ/\/\、其たわけから事が起る。マア待て待て。コリヤ、人を誑すは遊女の習ひ、それをおのれは今氣が付いたか。この孫右衞門は、たつた今一見なれど、逢うた女郎の心底を見拔いて居るわい。小春を蹴る脛でうろたへた、そのおのれが根性をなぜ踏まぬ。われに云つて聞かす事がある。マア待て。エヽ、キリ/\と待ち居らうぞ。
[ト書]
ト無理に坐らせ。
[孫右]
ハヽアしんど。
[ト書]
ト誂らへの合ひ方になる。
[孫右]
弟とは云ひながら、三十に押ツかゝり、勘太郎お末といふ六つと四つの子の親、六間々口の家を持ち、その身代の潰れるといふところへ、氣が付かぬか。兄の意見を請くる事か、舅は叔母聟、姑は叔母者人、親同然、女房おさんは其方が爲にも從弟同志。がんじがらみに結び合うた、重ね%\の縁者、親子仲。一家一門の參會にも、おのれが曾根崎通ひの悔みより、外に話しの出た事はありやせんわい。おいとしいは叔母者人、連合ひ五左衞門はにべもない昔氣質。女房の甥御にかゝつて、娘一人を棒に振つた、おさんを取返し、天滿中に耻かゝさんとのお腹立ちを、叔母者人一人が敵となり味方となり、病になる程心を苦しめ、おのれが耻を包まるゝ、それを思はぬ恩知らずめ。この罰たつた一つでも、碌な事はありやすまい。アヽ、所詮これぢやア家は立つまい、小春に逢うてとつくりと心底見屆け、その上での一思案と、爰の亭主に工面してもらうて、そちが病の源を、おりやよく見て置いた。成る程、女房子に見替へるだけあつて、天晴れな女郎ぢや。イヤサ、天晴れなお女郎さまぢやなア。アヽ、お手柄/\。マア結構な弟を持つて、人にも知られた粉屋の孫右衞門、祭りの練り衆か、氣狂ひか、ついに差さぬ大小ぼツこみ、藏屋敷の役人と。
[唄]
[utaChushin] 歌舞伎役者の眞似をして、馬鹿を盡したこの刀。
[孫右]
おりや。
[唄]
[utaChushin] 捨て所がないわいやい。
[孫右]
小腹が立つやら、をかしいやら、餘りの事で、エヽ、胸が痛いわい/\。
[唄]
[utaChushin] 胸が痛いと、齒ぎりし、泣顏隱す澁面に、小春は始終むせ返り、我が身の上は得も云はず、兄の意見と母親の、心遣ひを思ひやり、皆御道理とばかりにて、詞も涙に暮れにける。治兵衞涙を押拭ひ。
[ト書]
トよろしく思ひ入れあつて
治兵
アヽ、あやまつた/\、あやまりました兄者人。ナア申し兄さん、どうぞ堪忍して下され。どうぞ御料簡なされて下さりまし。
[ト書]
ト合ひ方になり
[治兵]
三年この方、あの古狸に魅されて、妻子は元より一家一門袖になし、身代の手縺れも、小春といふ屋尻切りに誑されて。アヽ、今といふ今目が覺めた。ナア申し、これえ。ほんまに今思ひ知りました。皆私しが惡うござりました。が、まだ迷ひまする。あんな顏はして居ますけれど、あれでも元來すわつた奴でござりますぜ。僅かあんた、五六遍、イヤサ、二度か三度行たら、モウちやんとこんな事云ひますのぢや。申し、治兵衞さん、わたしのやうな者でも贔屓にして、こないに呼んでもらふのは、誠に嬉しいけれど、なんぼうわたしが思うたところが、お前樣にはいとしいお子はあるし、美しいお家さんはあるし、所詮末の遂げぬ話ぢやに依つて、モウ辛氣で辛氣でならん、と云ふに依つて。ハヽ阿房らしい、なんのお前さへ、さういふ氣なら、あんな女房はとつとゝ暇やつてしまひ、さうしてお前と夫婦になつて、二人一緒に。イエ、そんな事、誰れが云うたえ。イヤサ、おれは云はぬが。この間は何と云うた。あのモウ嫌ひで/\ならん太兵衞や善六が、わたしを呼び出して、なんのかのと云ふに依つて、そんな事したら、治兵衞さんに濟みませぬと、ぽんと云うたら、サア腹を立て、そんならおれもあの治兵衞への面當てに、いつその事身請けして、女房にすると親方へ金の相談。もしそんな事があつた時には、お前さんも立たず、又わたしも生きて居る氣はない、と云ふに依つて、マア待て、そりやアお前、何を云ふのぢや、わしこそ義理は缺いてしまひ、世間へ顏出しはならず、死ぬる氣なら治兵衞さん、どうぞ一緒に死んで下さんせ、とはなぜ云うてくれぬ、そりやわが身水臭い、とてもの事に、此方も太兵衞への面當てに、派手に心中せうかと云うたら、そんなら派手に心中すると云うて、斯ういふ揃ひまで拵らへて、そんなら死んで下さんせ。イヤそんな事、いつ云うたえ。わしは云はぬが、われ云うたがな。よう今までは騙してくれた。狐め、狸め、今日といふ今日、思ひ切つた。オヽ、思ひ切つた。ナア申し、兄さん、今といふ今、ほんまに思ひ切りました。今までは大きに御心配をかけました。もうフツツリと思ひ切りました。モウ/\、こんな所へ、足向けする事ぢやござりません。どうぞ兄さん、料簡して下さりませ。
孫右
コリヤ治兵衞、そんならお前、何と云ふのぢや。今日と云ふ今日、フツツリと思ひ切つたに依つて、どうぞ堪忍してくれいと云ふのぢやな。あゝさうか、が、治兵衞、そりやお前、何遍云うた。イヤサ何遍云うた。モウ今度ばかりは、そんな事は聞きたうない。措いて下され。わしのやうな者ぢやといふて、あんまり何遍も/\騙してくれな。ようマアそんな事が云はれたものぢや。じやらじやらと阿房らしい。人を馬鹿にするも程がある。アタ、阿房らしい。
治兵
そりやマア、今までに二遍や、三遍の事やおまへんに依つて、そないに仰しやるは無理はおまへん、けれどナア、さうやというて、あんた、思ひ切つたと云ふより外に、なんにも云ふ事がありやしまへんがな。
[ト書]
ト云ひながら、懷を見て
[治兵]
よろしうおます。そんなら兄さん、ほんまに思ひ切つたといふ、わたしが證據を見せますワ。オヽ、證據を見せますワ。オヽ證據を。
[ト書]
ト小春に當てゝいふ。
孫右
なんぢや、證據を見せる。こりや面白い。サア、證據見ませう。
治兵
ほんまに思ひ切つたといふ、慥かな證據を見せませう。
孫右
オヽ、どんな證據ぢや。サア、早う見せいなア。
治兵
いま見せます。
孫右
サア/\、證據を早う見せい/\。
治兵
そないに、やかましう云ひなはんないなア。
孫右
證據を見せると云ふに依つて、早う見せと云ふのぢや。
治兵
いま見せます。忙しないお方ぢやなア。
[ト書]
ト云ひながら、守り袋より起請を前へ出して。
[治兵]
サア、見ておくれなされませ。
孫右
なんぢやいな、心の惡い。血のべと/\付いた、こんな物、證據の何のかのと、じやら/\とした、アタ心わるい。
治兵
モシ/\、勿體ない事、云ひなはんないなア。並大抵の事で、これが貰へるもんやと、思うて居なはるか。コリヤ、ナ申し、日本國の神々さまへ、誓ひをかけてナ、互ひの心變らぬやうと取交してナ、又もこの上に變らぬやうと、月頭に一枚づゝ取交しますのや。
孫右
なんぢや、まだあるのか。
治兵
エヽモウ、皆見せますワ。
孫右
オヽ、わたしの解るやうに云うて、皆見せておくれ。こんな物が、有り難いものやら結構なものやら、さつぱり譯が解らぬ。わしの腹へ入るやうに、聞かしておくれ。
治兵
ナア申し、兄さん、足掛け三年に、月頭に一枚づゝ取交して、三十枚おますのや。これをあんたに見せるのは、わしの潔白でおます。どうぞ、これをば、彼奴に歸しておくんなはれ。
孫右
アヽ、よし/\。
治兵
さうしてなア、兄さん、私の方からも、矢ツ張り彼奴に、こんだけ行ておますのや。それをば此方へ取返した跡は、燒くなりと破るなりと、どうなと勝手にしなはれ。
孫右
そんなら何か、これをば小春に返して、さうしてわが身の方から行てあるのを、此方へ取返してくれいと云ふのか。よし/\、さうわが身がやうに云やると、わしぢやて、兄の事ぢやもの、お前の引けの取るやうな事はしやせぬ。わしに任して置きや。
治兵
ハイ。
孫右
なんの、わが身の引けを取るやうな事、わしがせう。兄が附いて居る。ヂツとして居や。
治兵
ハイ。
[ト書]
ト孫右衞門こなしあつて
孫右
情ない、これを持つて行かんならんかいなア。
[ト書]
ト起請を持ち、小春の側へ行き、それを置き。
[孫右]
サア小春どの、いま聞いての通り、弟はわしが意見で、結構なお前の事はフツツリと、思ひ切つたと云うて居るに依つて、ナア小春だの、こりやアノ起證といふ物ぢやさうな。數改めて受け取つておくれ。さうしてあの弟からお前の方へも、こんだけ行てあるさうな、それをば此方へ貰ふのが、わしへの弟が潔白ぢや、と云うて居るに依つて、どうぞ、それを此方へ返しておくれ。
[ト書]
ト小春、否と云ふこなし。
[孫右]
コレ小春どの、それでは互ひに氣が殘つて、いかんに依つて、どうぞ此方へ返しておくれ。
治兵
申し/\兄さん、そんな優しい事で行きやしません。毆り倒して引ツたくりなされ。
孫右
サア/\、えゝと云つたら、わしに任して置かんかいなア。小春どの、弟があのやうに云うて居るに依つて、早う此方へ返しておくれ。わしの意見で、弟はお前の事を思ひ切つたと云うて居る。その思ひ切つた男の起證を、大事にかけて持つて居ても、どうも仕樣がないぢやないか。小春どの、三年が間、ようお前、あんな弟ぢやと思うて、よう付合うてやつておくれだなア。その禮はキツと云ひますぞや。イヤサその禮は、わしがキツと云ひます。モウ長い短いはいらんに依つて、それを此方へ返して。小春どの、お前出さぬと云ふと、懷へ手を入れても取るぞえ。小春どの、返してくだされ。
[ト書]
ト小春の懷へ手を入れ。
[孫右]
アヽ、これ程持つてゐながら、ごて/\云つて出さぬに依つて、懷へ手を入れたりせんならん。なんぢや、手紙、……紀伊國屋小春さま參る、紙屋内より。
[ト書]
ト孫右衞門讀むを、小春惡いといふこなし。治兵衞耳を立て
治兵
コレ兄さん、なんでおますのや。
孫右
なんでもあらせん/\。
治兵
手紙とはどこから來たのぢや。イヽイヤ、どこの客から來た手紙ぢや。ちよつと見せておくれなされまし。
孫右
イヤ、なんでもありやせん/\。
治兵
ちよつと見せておくんなはれなア。
孫右
なんぢやいなア。たつた今思ひ切つた女の手紙、どこから來やうと、彼處から來やうと、構ふ事ありやせん。ヂツとして居んか。わしに任して置きと云ふに。なんの文のと、アタしつこい、ごてごて/\/\。
[ト書]
ト云ひ/\手紙を讀んで。
[孫右]
そんなら、この手紙の客人へ、義理を立て。
小春
アモシ。
[ト書]
ト孫右衞門の袂を引く。
孫右
こりや見せともながる筈ぢや。小春どの、最前は侍ひ冥利、今は粉屋の孫右衞門商ひ冥利、女房子に限つて、わしや見せやせん。起證と共に火にくべる。てもマアお前は。勤めの中にもそれ程までに、眞實な。イヤサ、眞實のないは女郎の常。ナア、ちつとも知らず、うか/\と、あんまりの事、おりやをかしいわえ、ハヽヽヽヽ。ハヽヽヽヽ。ハヽヽヽヽ。
[唄]
[utaChushin] 笑ひに紛らす眞實は、口に云はれぬ心の禮。
小春
それで、わしも立ちますわいなア。
[唄]
[utaChushin] また伏し沈めば。
治兵
なんぢやい、立つの立たぬのと、あんまり人間らしい事云ふない。申し兄さん、今の状、ちよつと見せて下されいなア。
孫右
なんぢやいなア。ひつこい。なんでもありやせんと云うたら、なんで、其やうにわしの云ふ事を聞かんのぢや。イヽヤイ、わしの云ふ事が、なんで聞かれぬのぢや。
[ト書]
ト氣を替へて云ふ。
治兵
そないに、ぽん/\云ふものやおまへん。惡いと思やこそ、あやまつて居るやおまへんか。それをば兄甲斐にぽん/\。
孫右
何もわしかて、ぽん/\云ひたい事はありやせんけれど、お前がひつこう云ふに依つて、ツイわしがて、ぽんぽん云ふのぢや。
治兵
ナア兄さん、わしも思ひ切つた女の所に居るのは、ふつ/\嫌やに依つて、もう去にませうか。
孫右
オヽ、さうぢや、去なう/\。
治兵
サア、去にませう/\。
[ト書]
ト孫右衞門の手を引ツ張る。
孫右
ちよつと待ち。羽織を着んならん。お前先へ出かけ。直ぐにわしは出る。
治兵
サア、早う行きませう。早うお出でなされいな。
孫右
よし/\。羽織さへ着たら、直ぐに出る。
治兵
わし、先へ出かけますぜ。
[ト書]
ト治兵衞、先へ出る。孫右衞門行かんとするを、小春、袂を控へる。治兵衞の事頼むと云ふこなし。孫右衞門、呑み込んで居るといふ思ひ入れ。治兵衞側へ行き
[治兵]
兄さん、早うお出でなはらんかいなア。
孫右
アヽ、よし/\。ナア弟や。わしの意見を聞いて、よう思ひ切りやつた。内へ去んで、この事、叔母者人に話しをしたら、定めてお喜びになるであらう、よう得心してたもつた。わしも誠に嬉しう思ひます。併し弟、わが身も今夜は、定めて氣がむしやくしやして居るであらう。斯うしや。これから去んで一杯つけてもらうて、さうして四方山の話しをして。さうぢや、今夜は、わが身の内で、わしや泊めてもらふ。
[ト書]
ト云ひながら治兵衞の脊中を撫でる。治兵衞、氣の濟まぬこなし。孫右衞門見て
[孫右]
治兵衞、今までは去なう/\とやかましう、云うて居て。治兵衞、どこぞ惡いのかえ。腹でも痛むといふやうな事ぢやないか。どうぞしたか。
治兵
イヤ、どうもしやしませぬけれど、ナア申し兄さん、一言、云ひ殘した事がありますのんやがな。これを云はんと、どうも胸がさばけませんのやがな。ちよつと云うたら惡うおますか。
孫右
そりやお前、さうお云ひぢやけれどな、今夜は、はなやひが惡い。どうぞ今夜は此まゝ去んでおくれ。その代りに、二三日したら、わしが連れて來る。その時に、お前、何なりと云ふがよい。
[ト書]
ト云ひながら、治兵衞の脊を撫でさする。治兵衞、孫右衞門を振り切る。孫右衞、思ひ入れあつて
[孫右]
そないに、お前のやうに云うたかて、どうも仕樣がありやんせがな。そないに思うて居る事を、云はさんのも惡い。そんなら、えゝ、ちつと位の事なら、云てお出で。やつて上げる。
治兵
そんなら、やつておくれなはるか。
[ト書]
ト治兵衞行きかゝるを。
孫右
オイ/\、ちよつと待ち。
治兵
なんでおます。
孫右
なんでおますやあらへんがな。ナアお前、最前あの小春を蹴つたり踏んだりしやつたが、あんな事おかんか。ひよつと目鼻でも舞うたら、お前どうしようと思うてや。あんな事しやんなや。
治兵
よろしうおますがな。わしも思ひ切つたと云うたら、思ひ切つたのでおます。
孫右
サア、ちよつと云ふだけならよいが、手荒い事はしなや。
治兵
どうもしやしませぬ。ちよつと云うたら直ぐに出ます。ちつとの間、そこに待つて居ておくれなはれ。
孫右
云ふだけならよいが、手荒い事すると、わしや案じるに依つて、それで云ふ事は云はんならん。
[ト書]
ト云ひながら、治兵衞の後を付いて行く。
治兵
モシ/\兄さん、あんた、おいなはつたら、何も云ふ事が云はれやしませぬが。
孫右
それでも、わしや案じるに依つて、ツイ付いて行くのぢや。
治兵
ちつとの間、そのに待つて居ておくれなはれ、と云うて居るのに。聞分けのない、茶屋の二階へ上がつた事のない人といふ者は、せうのない不粹な。ちつとの間位。待つておくれなされなア。おいなはんなや。
孫右
ハイ/\、行きやしませぬ。
[ト書]
ト云ひながら、治兵衞内へ入る。後より孫右衞門、門口にて見て居る。治兵衞、小春の胸をつかまへ
治兵
足掛け三年この方、戀し床しも、いとし可愛も、今といふ今、エヽ愛想が盡きた。
[ト書]
ト手を握り振り上げるを、孫右衞門見て
孫右
オイ/\、治兵衞々々々、そりやなんぢや。
治兵
なんでおますのや。
孫右
今、斯う振り上げた手は何ぢや。
治兵
なんにもしてやしませぬが。ちやんと膝に手を置いて居ますがな。
[ト書]
トいろ/\こなしあつて
[治兵]
今生の思ひ出に、たつた一つ。ヤイ赤狸め、たつたこの足一本の暇乞ひ。
[唄]
[utaChushin] と額際を、ハツタと蹴て、わつと泣出す男氣を、思ひやる程堪え兼ねて。
小春
こりや、モウいつそ。
孫右
アヽコレ、蹴られうが叩かれうが、そこを、ヂツと辛抱せずば、この状の客へ義理が立つまい。立つまいがの、小春どの。
[ト書]
ト孫右衞門、小春、双方よろしくあつて
[唄]
[utaChushin] 孫右衞門に制せられ。
兩人
ハアヽ。
[唄]
[utaChushin] はつとばかりに泣き別れ、歸る姿もいた/\しく、後を見送り聲を上げ、歎く小春も酷らしき、不心中か、心中か、誠の心は女房の、その一筆の奧深く、誰が文も見ぬ戀の道。
[ト書]
ト孫右衞門、治兵衞の姿を見て思ひ入れ、羽織を着せる。治兵衞いやといふ思ひ入れ。小春、莨入れより櫛を出し、孫右衞門に渡す。孫右衞門は治兵衞の髮を撫でつける。治兵衞その櫛を取り、小春へ投げようとするを、孫右衞門よろしく留めて、小春へこなし。小春もいろ/\あつて
小春
アヽモシ。
[唄]
[utaChushin] 別れてこそは。
[ト書]
ト双方よろしく思ひ入れあつて、三重にて。
幕
小はる治平衞
心中天網島 (Shinju ten no Amijima) | ||