山の手小景
泉鏡花 (Yamanote shokei) | ||
茗荷谷 ( みやうがだに )
「おう、 苺 ( いちご ) だ 苺 ( いちご ) だ、 飛切 ( とびきり ) の 苺 ( いちご ) だい、 負 ( まか ) つた 負 ( まか ) つた。」
小石川 ( こいしかは ) 茗荷谷 ( みやうがだに ) から 臺町 ( だいまち ) へ 上 ( あが ) らうとする 爪先 ( つまさき ) 上 ( あが ) り。 兩側 ( りやうがは ) に 大藪 ( おほやぶ ) があるから、 俗 ( ぞく ) に 暗 ( くら ) がり 坂 ( ざか ) と 稱 ( とな ) へる 位 ( ぐらゐ ) 、 竹 ( たけ ) の 葉 ( は ) の 空 ( そら ) を 鎖 ( とざ ) して 眞暗 ( まつくら ) な 中 ( なか ) から、 烏瓜 ( からすうり ) の 花 ( はな ) が 一面 ( いちめん ) に、 白 ( しろ ) い 星 ( ほし ) のやうな 瓣 ( はなびら ) を 吐 ( は ) いて、 東雲 ( しのゝめ ) の 色 ( いろ ) が 颯 ( さつ ) と 射 ( さ ) す。 坂 ( さか ) の 上 ( うへ ) の 方 ( はう ) から、 其 ( そ ) の 苺 ( いちご ) だ、 苺 ( いちご ) だ、と 威勢 ( ゐせい ) よく 呼 ( よば ) はりながら、 跣足 ( はだし ) ですた/\と 下 ( お ) りて 來 ( く ) る、 一名 ( いちめい ) の 童 ( わつぱ ) がある。
嬉 ( うれ ) しくツて/\、 雀躍 ( こをどり ) をするやうな 足 ( あし ) どりで、「やつちあ 場 ( ば ) ア 負 ( まか ) つたい。おう、 負 ( まか ) つた、 負 ( まか ) つた、わつしよい/\。」
やがて 坂 ( さか ) の 下口 ( おりくち ) に 來 ( き ) て、もう 一足 ( ひとあし ) で、 藪 ( やぶ ) の 暗 ( くら ) がりから 茗荷谷 ( みやうがだに ) へ 出 ( で ) ようとする 時 ( とき ) 、
「おくんな。」と 言 ( い ) つて、 藪 ( やぶ ) の 下 ( した ) をちよこ/\と 出 ( で ) た、 九 ( こゝの ) ツばかりの 男 ( をとこ ) の 兒 ( こ ) 。 脊丈 ( せたけ ) より 横幅 ( よこはゞ ) の 方 ( はう ) が 廣 ( ひろ ) いほどな、 提革鞄 ( さげかばん ) の 古 ( ふる ) いのを、 幾處 ( いくところ ) も 結目 ( むすびめ ) を 拵 ( こしら ) へて 肩 ( かた ) から 斜 ( なゝ ) めに 脊負 ( せお ) うてゐる。
これは 界隈 ( かいわい ) の 貧民 ( ひんみん ) の 兒 ( こ ) で、つい 此 ( こ ) の 茗荷谷 ( みやうがだに ) の 上 ( うへ ) に 在 ( あ ) る、 補育院 ( ほいくゐん ) と 稱 ( とな ) へて 月謝 ( げつしや ) を 取 ( と ) らず、 時 ( とき ) とすると、 讀本 ( とくほん ) 、 墨 ( すみ ) の 類 ( るゐ ) が 施 ( ほどこし ) に 出 ( で ) て、 其上 ( そのうへ ) 、 通學 ( つうがく ) する 兒 ( こ ) の、 其 ( そ ) の 日 ( ひ ) 暮 ( ぐら ) しの 親達 ( おやたち ) 、 父親 ( ちゝおや ) なり、 母親 ( はゝおや ) なり、 日 ( ひ ) を 久 ( ひさ ) しく 煩 ( わづら ) つたり、 雨 ( あめ ) が 降續 ( ふりつゞ ) いたり、 窮境 ( きうきやう ) 目 ( め ) も 當 ( あ ) てられない 憂目 ( うきめ ) に 逢 ( あ ) ふなんどの 場合 ( ばあひ ) には、 教師 ( けうし ) の 情 ( なさけ ) で 手當 ( てあて ) の 出 ( で ) ることさへある、 院 ( ゐん ) といふが 私立 ( しりつ ) の 幼稚園 ( えうちゑん ) をかねた 小學校 ( せうがくかう ) へ 通學 ( つうがく ) するので。
今 ( いま ) 大塚 ( おほつか ) の 樹立 ( こだち ) の 方 ( はう ) から 颯 ( さつ ) と 光線 ( くわうせん ) を 射越 ( いこ ) して、 露 ( つゆ ) が 煌々 ( きら/\ ) する 路傍 ( ろばう ) の 草 ( くさ ) へ、 小 ( ちひ ) さな 片足 ( かたあし ) を 入 ( い ) れて、 上 ( うへ ) から 下 ( お ) りて 來 ( く ) る 者 ( もの ) の 道 ( みち ) を 開 ( ひら ) いて 待構 ( まちかま ) へると、 前 ( まへ ) とは 違 ( ちが ) ひ、 歩 ( ほ ) を 緩 ( ゆる ) う、のさ/\と 顯 ( あら ) はれたは、 藪龜 ( やぶがめ ) にても 蟇 ( ひき ) にても…… 蝶々 ( てふ/\ ) 蜻蛉 ( とんぼ ) の 餓鬼大將 ( がきだいしやう ) 。
駄々 ( だゞ ) を 捏 ( こ ) ぬて、 泣癖 ( なきくせ ) が 著 ( つ ) いたらしい。への 字 ( じ ) 形 ( なり ) の 曲形口 ( いがみぐち ) 、 兩 ( りやう ) の 頬邊 ( ほゝべた ) へ 高慢 ( かうまん ) な 筋 ( すぢ ) を 入 ( い ) れて、 澁 ( しぶ ) を 刷 ( は ) いたやうな 顏色 ( がんしよく ) 。ちよんぼりとある 薄 ( うす ) い 眉 ( まゆ ) は 何 ( どう ) やらいたいけな 造 ( つくり ) だけれども、 鬼薊 ( おにあざみ ) の 花 ( はな ) かとばかりすら/\と 毛 ( け ) が 伸 ( の ) びて、 惡 ( わる ) い 天窓 ( あたま ) でも 撫 ( な ) でてやつたら 掌 ( てのひら ) へ 刺 ( さゝ ) りさうでとげ/\しい。
着物 ( きもの ) は 申 ( まを ) すまでもなし、 土 ( つち ) と 砂利 ( じやり ) と 松脂 ( まつやに ) と 飴 ( あめ ) ン 棒 ( ぼう ) を 等分 ( とうぶん ) に 交 ( ま ) ぜて 天日 ( てんぴ ) に 乾 ( かわか ) したものに 外 ( ほか ) ならず。
勿論 ( もちろん ) 素跣足 ( すはだし ) で、 小脇 ( こわき ) に 隱 ( かく ) したものを 其 ( その ) まゝ 持 ( も ) つて 出 ( で ) て 來 ( き ) たが、 唯 ( と ) 見 ( み ) れば、 目笊 ( めざる ) の 中 ( なか ) 充滿 ( いつぱい ) に 葉 ( は ) ながら 撮 ( つ ) んだ 苺 ( いちご ) であつた。
童 ( わつぱ ) は 猿眼 ( さるまなこ ) で 稚 ( ちひさ ) いのを 見 ( み ) ると 苦笑 ( にがわらひ ) をして、
「おゝ! 吉公 ( きちこう ) か、ちよツ、」
と 舌打 ( したうち ) 、 生意氣 ( なまいき ) なもの 言 ( い ) ひで、
「 驚 ( おどろ ) かしやがつた、 厭 ( いや ) になるぜ。」
苺 ( いちご ) は 盜 ( ぬす ) んだものであつた。
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