山の手小景
泉鏡花 (Yamanote shokei) | ||
矢來町 ( やらいちやう )
「お 美津 ( みつ ) 、おい、 一寸 ( ちよつと ) 、あれ 見 ( み ) い。」と 肩 ( かた ) を 擦合 ( すりあ ) はせて 居 ( ゐ ) る 細君 ( さいくん ) を 呼 ( よ ) んだ。 旦那 ( だんな ) 、 其 ( そ ) の 夜 ( よ ) の 出 ( で ) と 謂 ( い ) ふは、 黄 ( き ) な 縞 ( しま ) の 銘仙 ( めいせん ) の 袷 ( あはせ ) に 白縮緬 ( しろちりめん ) の 帶 ( おび ) 、 下 ( した ) にフランネルの 襯衣 ( シヤツ ) 、これを 長襦袢 ( ながじゆばん ) 位 ( くらゐ ) に 心得 ( こゝろえ ) て 居 ( ゐ ) る 人 ( ひと ) だから、けば/\しく 一着 ( いつちやく ) して、 羽織 ( はおり ) は 着 ( き ) ず、 洋杖 ( ステツキ ) をついて、 紺足袋 ( こんたび ) 、 山高帽 ( やまたかばう ) を 頂 ( いたゞ ) いて 居 ( ゐ ) る、 脊 ( せ ) の 高 ( たか ) い 人物 ( じんぶつ ) 。
「 何 ( なん ) ですか。」
と 一寸 ( ちよつと ) 横顏 ( よこがほ ) を 旦那 ( だんな ) の 方 ( はう ) に 振向 ( ふりむ ) けて、 直 ( す ) ぐに 返事 ( へんじ ) をした。 此 ( こ ) の 細君 ( さいくん ) が、 恁 ( か ) う 又 ( また ) 直 ( たゞ ) ちに 良人 ( をつと ) の 口 ( くち ) に 應 ( おう ) じたのは、 蓋 ( けだ ) し 珍 ( めづら ) しいので。…… 西洋 ( せいやう ) の 諺 ( ことわざ ) にも、 能辯 ( のうべん ) は 銀 ( ぎん ) の 如 ( ごと ) く、 沈默 ( ちんもく ) は 金 ( きん ) の 如 ( ごと ) しとある。
然 ( さ ) れば、 神樂坂 ( かぐらざか ) へ 行 ( い ) きがけに、 前刻 ( さつき ) 郵便局 ( いうびんきよく ) の 前 ( まへ ) あたりで、 水入 ( みづい ) らずの 夫婦 ( ふうふ ) が 散歩 ( さんぽ ) に 出 ( で ) たのに、 餘 ( あま ) り 話 ( はなし ) がないから、
( 美津 ( みつ ) 、 下駄 ( げた ) を 買 ( か ) うてやるか。)と 言 ( い ) つて 見 ( み ) たが、 默 ( だま ) つて 返事 ( へんじ ) をしなかつた。 貞淑 ( ていしゆく ) なる 細君 ( さいくん ) は、 其 ( そ ) の 品位 ( ひんゐ ) を 保 ( たも ) つこと、 恰 ( あたか ) も 大籬 ( おほまがき ) の 遊女 ( いうぢよ ) の 如 ( ごと ) く、 廊下 ( らうか ) で 會話 ( くわいわ ) を 交 ( まじ ) へるのは、 仂 ( はした ) ないと 思 ( おも ) つたのであらう。
(あゝん、 此 ( こ ) のさきの 下駄 ( げた ) 屋 ( や ) の 方 ( はう ) が 可 ( えゝ ) か、お 前 ( まへ ) 好 ( すき ) な 處 ( ところ ) で 買 ( か ) へ、あゝん。)と 念 ( ねん ) を 入 ( い ) れて 見 ( み ) たが、 矢張 ( やつぱり ) 默 ( だま ) つて、 爾時 ( そのとき ) は、おなじ 横顏 ( よこがほ ) を 一寸 ( ちよつと ) 背 ( そむ ) けて、あらぬ 處 ( ところ ) を 見 ( み ) た。
丁度 ( ちやうど ) 左側 ( ひだりがは ) を、 二十 ( はたち ) ばかりの 色 ( いろ ) の 白 ( しろ ) い 男 ( をとこ ) が 通 ( とほ ) つた。 旦那 ( だんな ) は 稍 ( やゝ ) 濁 ( にご ) つた 聲 ( こゑ ) の 調子高 ( てうしだか ) に、
(あゝん、 何 ( ど ) うぢや。)
( 嫌 ( いや ) ですことねえ、)と 何 ( なに ) とも 着 ( つ ) かぬことを 謂 ( い ) つたのであるが、 其間 ( そのかん ) の 消息 ( せうそく ) 自 ( おのづか ) ら 神契 ( しんけい ) 默會 ( もくくわい ) 。
(にやけた 奴 ( やつ ) ぢや、 國賊 ( こくぞく ) ちゆう!)と 快 ( こゝろよ ) げに、 小指 ( こゆび ) の 尖 ( さき ) ほどな 黒子 ( ほくろ ) のある 平 ( ひらた ) な 小鼻 ( こばな ) を 蠢 ( うごめ ) かしたのである。 謂 ( い ) ふまでもないが、 此 ( こ ) のほくろは 極 ( きは ) めて 僥倖 ( げうかう ) に 半 ( なかば ) は 髯 ( ひげ ) にかくれて 居 ( ゐ ) るので。さて 銀側 ( ぎんがは ) の 懷中 ( くわいちう ) 時計 ( どけい ) は、 散策 ( さんさく ) の 際 ( さい ) も 身 ( み ) を 放 ( はな ) さず、 件 ( くだん ) の 帶 ( おび ) に 卷着 ( まきつ ) けてあるのだから、 時 ( とき ) は 自分 ( じぶん ) にも 明 ( あきら ) かであらう、 前 ( さき ) に 郵便局 ( いうびんきよく ) の 前 ( まへ ) を 通 ( とほ ) つたのが 六時 ( ろくじ ) 三十分 ( さんじつぷん ) で、 歸 ( かへ ) り 途 ( みち ) に 通懸 ( とほりかゝ ) つたのが、 十一時 ( じふいちじ ) 少々 ( せう/\ ) 過 ( す ) ぎて 居 ( ゐ ) た。
夏 ( なつ ) の 初 ( はじ ) めではあるけれども、 夜 ( よる ) の 此 ( こ ) の 時分 ( じぶん ) に 成 ( な ) ると 薄 ( うす ) ら 寒 ( さむ ) いのに、 細君 ( さいくん ) の 出 ( で ) は 縞 ( しま ) のフランネルに 絲織 ( いとおり ) の 羽織 ( はおり ) 、 素足 ( すあし ) に 蹈臺 ( ふみだい ) を 俯着 ( うツつ ) けて 居 ( ゐ ) る、 語 ( ご ) を 換 ( か ) へて 謂 ( い ) へば、 高 ( たか ) い 駒下駄 ( こまげた ) を 穿 ( は ) いたので、 悉 ( くは ) しく 言 ( い ) へば 泥 ( どろ ) ぽツくり。 旦那 ( だんな ) が 役所 ( やくしよ ) へ 通 ( かよ ) ふ 靴 ( くつ ) の 尖 ( さき ) は 輝 ( かゞや ) いて 居 ( ゐ ) るけれども、 細君 ( さいくん ) の 他所行 ( よそいき ) の 穿物 ( はきもの ) は、むさくるしいほど 泥塗 ( どろまみ ) れであるが、 惟 ( おも ) ふに 玄關番 ( げんくわんばん ) の 學僕 ( がくぼく ) が、 悲憤 ( ひふん ) 慷慨 ( かうがい ) の 士 ( し ) で、 女 ( をんな ) の 足 ( あし ) につけるものを 打棄 ( うつちや ) つて 置 ( お ) くのであらう。
其 ( そ ) の 穿物 ( はきもの ) が 重 ( おも ) いために、 細君 ( さいくん ) の 足 ( あし ) の 運 ( はこ ) び 敏活 ( びんくわつ ) ならず。が 其 ( それ ) の 所爲 ( せゐ ) で 散策 ( さんさく ) に 恁 ( かゝ ) る 長時間 ( ちやうじかん ) を 費 ( つひや ) したのではない。
最 ( もつと ) も 神樂坂 ( かぐらざか ) を 歩行 ( ある ) くのは、 細君 ( さいくん ) の 身 ( み ) に 取 ( と ) つて、 些 ( ちつ ) とも 樂 ( たのし ) みなことはなかつた。 既 ( すで ) に 日 ( ひ ) の 内 ( うち ) におさんを 連 ( つ ) れて、 其 ( そ ) の 折 ( をり ) は、 二枚袷 ( にまいあはせ ) に 長襦袢 ( ながじゆばん ) 、 小紋 ( こもん ) 縮緬 ( ちりめん ) 三 ( み ) ツ 紋 ( もん ) の 羽織 ( はおり ) で、 白足袋 ( しろたび ) 。 何 ( なん ) のためか 深張傘 ( ふかばりがさ ) をさして、 一度 ( いちど ) 、やすもの 賣 ( うり ) の 肴屋 ( さかなや ) へ、お 總菜 ( そうざい ) の 鰡 ( ぼら ) を 買 ( か ) ひに 出 ( で ) たから。
山の手小景
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